一見、枝がからまっているようにも見えるマツだが、カラマツではない。
一見複雑に見えるものも、よく見ればあるシンプルな法則にしたがっている事はよくある。
ものごとをよく理解できる人と、混乱する人の違いは「複雑なもの」と「複雑そうなもの」を同一視し、「考えること」と「考えられること」を、行ってみるか、放棄するかの違いでしかなさそうだ。
つまり、ちゃんと見て気長に追っていけばなんでも大抵のことは、誰でも理解できるようにこの世はなっている。
審美眼とはそういうもののようだ。
その際に大事なのは、そう自分を信じることと、努力することと、簡単にあきらめない事と、素直な視点を忘れないことだろうと思う。
はしょっていっちゃえば、好奇心と興味の持続力の問題だ。
庭園に一本の松を置くにしても、超一流の庭師は、枝ぶり立ちぶり色ぶりはぶり、延びしろから経年の変化までを考え、その選択には膨大な時間を費やすという。
植樹は一時間にしても、その裏には選択眼を養うためのはかりきれない時間が存在している。それがその庭師の価値であり、もちろん報酬もべらぼうに高い。
時給だけを聞けば、目ん玉が飛び出るだろうが、それは実働であって、それで価値は測れない。
好きこそ物の上手なれ。
高付加価値の仕事をする人たちは皆、好奇心と興味の持続において、その分野では飛びぬけて気長に没頭することができる。
審美眼を鍛えること、それがひとやまなんぼで買い叩かれず、「それでいい」ではなく「それがいい」と言われるような仕事ぶりにつながっているような気がする。
話は変わるが、
歯を抜きに行って痛いおもいで、5分で1万円の治療を受けたとしよう。
時給にすればぼったくりにも思えるが、でもだからといって、だれも同じ痛い治療を30分1万円の所が安いと思ったりはしない。
提供するだけではなく選ぶためにも、審美眼をわれわれは磨く必要がある。