いつもトンネルを抜けるときには蘇る記憶がある。
私が母の胎内からこの世の中に出てこようとしている時の期待と不安の記憶だ。
そんなわけはないが、わたしは、生まれる前の感情も意識も持たない。
それから多分死んでしまった後にも感情や意識は持たないだろう。
生まれる前の意識のないのを不安には思わないのに、死んでしまってからのことは不安になったりする。
トンネルを走っている間、つまり今の私が知っていると思っている意識においても、酔っ払いすぎたり、寝ている間は、私の意識は途切れている。
10年前と10年後でも多分まるっきり変わっているだろう。
でも、それを不安に思ったりはしない、むしろその向こうの出口に期待しているようでさえある。
中世の一口話にこんなのがある。
自分はガラス製であるという意識に凝り固まった狂人が倒れた。
彼はガシャン!といって本当に死んでしまった。
私は自転車で走ることが好きだ。
日本を走っていると多くのトンネルに出会う。
そしてトンネルの入り口でいつも抱くのは、ある感情の意識である。
期待と不安の。