小さな旅、大きな旅の写真物語(Virtual trips/travels)

京都や東京を本拠地として、自然の中や町を歩きながら、撮った写真をどんどん掲載します。いっしょに歩いているように。

自然教育園日記 その293  Sony alpha7CR + Zeissレンズー5 最終回

2024-08-31 17:37:02 | 写真日記
自然教育園日記 その293  Sony alpha7CR + Zeissレンズー5 最終回
2024-8-23
今日はSony alpha7CR の相手はsony A-mountの最後Sony/Zeiss Sonnar 135mm F1.8



実測1780gと重たい。さすがにこれはトップヘビー。










ヒョウタン池 水面


ヒョウタン池 水面







クサギの花を接近撮影中にカラスアゲハが飛び込んだ。





こういうチョウ撮影にはSony/Zeiss Sonnar 135mmはミスマッチ。折角のチャンスなのに、この時、このレンズしかもっていなかった。こんなチャンス1年に1回くらいしかないのに、上手くゆかないもんだよ。













2024-8-25
Sony alpha7CR + Sony/Zeiss Sonnar 135mm F1.8に向いた対象は、現在自然恐育園に全くない。もう一日、トライしたのですが、ほんとうになにもありません。諦めてヒョウタン池水面を撮ります。



















写真を見てみると、撮る対象が無くて、必死にこのレンズの特徴を表現しようとしていることがわかります。でも全体的に、ボケを利用した幻想的あるいは抽象的表現を追いかけていることがわかります。  
なんたってSonnar 135mmはF1.8で大口径ですから、表現力はすごいですよ。手持ちのレンズでは一番かもしれません。昔よく<伝家の宝刀>と表現していました。しかし、さすがにこの機材は重たくて、トップヘビーで気軽に持ち出すレンズではありません。これぞという時に、本気で撮影する為の機材です。バランスからいってFujifilm GFX100Sの方が合っているかな?

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自然教育園日記 その292  Sony alpha7CR + Zeissレンズー4

2024-08-26 17:27:35 | 写真日記
自然教育園日記 その292  Sony alpha7CR + Zeissレンズー4
2024-8-17
今日は
Sony alpha7CR + Zeiss Batis 40mm F2
実測 total 917g 、1kgをきるところがうれしい。



このZeissはEFマウントのミラーレス用レンズで、これまでご紹介した一眼レフ用A-mountではありません。当然カメラに直接つないでいます。Zeissの新世代レンズといえます(といっても発売してからもう6年たちますが)。
当方はBatisを18mm と40mmを使っていて、一時ソニーを全部整理した時にいずれも売ってしまいました。これは再購入の中古です。
Old Zeissに比べて新世代Zeissはそれほど気に入っているわけではありませんが、このBatisはクローズフォーカスモードがあり24cmまで近づけることが出来るのと、さらに接写リングを使うと面白い魅了的ボケがでるのが気に入ってSony alpha7CR購入するとすぐに再購入したわけです。
今日の写真は通常モードの遠景からクローズフォーカスモードの接近撮影を入り乱れて行っており、トリミング拡大は最小限にしています。

台風一過、37℃の中の撮影で、撮影対象もこれまでと殆どかわりません。撮るものがそれしかないのですからしょうがないです。



わざわざボロボロの葉っぱを狙っています。





今日の主役は夏雲で、色々な切り取り方で演出してみました。







このあたりは接写リングを使っています。完全にとろけるボケが出ます。



今日の主役の夏雲













前広場の見上げるショットも主役は夏雲です。

接写リングを使ったボケ写真が今日ご紹介すべきテーマだったのですが、接写リング撮影は難しく、対象を選ぶので、ほとんど撮れませんでした。また次の機会にご紹介します。でもBatis 40mm一本で、工夫すればいろいろな絵を作れる、感激とまではいかないけれど、Zeissを感じさせる便利な優等生レンズです。

2024-8-21
Zeiss Batis 40mmの接写リング、ボケ写真が十分でないと、再び40mmを試写。ところが肝心の接写リングを持ってくるのを忘れてしまった。



やけに光る木肌



やっとツリガネニンジンを撮る。




オトコエシ







園を一周して入り口広場にたどり着き、ボーッとする時上を見上げるばかりでなく、地べたのアリも見る。セミの死骸に群がるアリの凄まじい迫力。この迫力を十分に表現できなかった。前々からの興味であるアリを今後テーマの一つにしようと決心した。
Sony alpha7CR + Zeiss Batis 40mm F2は見直しました。Zeiss Batis 40mm F2は軽量小型でも撮りようによって、色々な絵を提供してくれます。やはり接近撮影が可能であることが大きく貢献しているのでしょう。撮る人を選ぶ、隠れた名レンズかもしれません。




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<全くの独り言> 

2024-08-22 13:57:28 | 日記
<全くの独り言> 

次なる作品のアイデアを得るために、海で波を撮りたいし、きれいな水面や流れも撮りたい。熱中症警戒アラートや台風や大地震警戒で近くにも遠くにも出歩くことがはばかられる。ここのところずっとだ。ブログネタがない。しかたないので、<独り言>をブツブツ書くしかない。
結局3つ書きました。
その1、トランプと<反アメリカ・グローバリズム>
その2、岸田氏はなぜ受けなかったか?
その3、 ポスト岸田

普通なら3回に分けてアップするのですが、まあ読む人もいないだろうし、3回もブログを占拠する必要も無かろうといっぺんにアップします。万一読もうと思う方は興味あるところをよんでくさい。世の中の状況はどんどん変わってきますから、のたのたアップしてもトンチンカンになってしまうこともいやですし。

<全くの独り言> その1,トランプと<反アメリカ・グローバリズム>

2009年12月に中欧の旅をしました。この時のゴシック建築の印象が、常によみがえります。
何が言いたいかというと、<キリスト教・グローバリズム>の恐ろしさです。


チェコ プラハ プラハ城内 <聖ビート教会> 周囲とはやけに違和感のある典型的ゴシック建築


いずれもプラハ城内にある、ゴシック建築教会とチェコ的教会の対比


ハンガリー ブダペスト マーチャーシ教会 ゴシック建築をはねのけた、これこそハンガリーの文化
(詳しくは2010年1月開始の連載、中欧物語をご覧ください)。
(註:現在チェコとハンガリーは直接地続きでなく、チェコスロバキアが地続きだったのが、チェコとスロバキアに分裂したのでこうなったのです)

キリスト教はキリスト教の正義を世界中に広めて、キリスト教一色に塗りつぶそうとすること自体が天命と考える宗教であるから、キリスト教国が制圧した国にはゴシック建築の教会を立てて、その権威をしめし威圧した。土着の文化など蹴散らした。チェコではかろうじてゴシック建築と土着の建築が半々になり、ハンガリーではキリスト教に改宗しても教会は土着の文化をガンとして守った。ヨーロッパの各地でこのせめぎ合いを見て来た。

<キリスト教グローバリズム>は<アメリカ・グローバリズム>にすり替わった。(註:キリスト教を深く信じる人が<アメリカ・グローバリズム>にスライドしたわけではありません。<力、正義、世界を覆う>という流れを当然と思う素地のルーツがキリスト教にあると言っているのです。むしろキリスト教を深く信じる人が<反アメリカ・グローバリズム>の中心にいます。)  本当のグローバリズムと<アメリカ・グローバリズム>の違いを気にしている人がどれくらいいるか?
  
この独り言で何を言いたいかというと、<本当のグローバリスム>がいつのまにか<アメリカ・グローバリズム>と混同され、こちらがメインストリームとなり世界中を覆う危険性とこれに反抗する勢力が単なる<ナショナリズム>に走る危険性をいいたいのです。

<キリスト教グローバリズム>とはキリスト教は正義であるから、世界をキリスト教一色に染めようとする考えです。<アメリカ・グローバリズム>も同じ、アメリカは正義であるから、世界をアメリカ一色に染めようとするのです。 アメリカが正義なら、最も力のある国、アメリカが世界をアメリカ色一色にして秩序を保つことは世界平和を保つという意味ではありかもしれない。しかし、アメリカ、イコール正義ではなく、アメリカに都合のいいように世界を一色にしようとすることが見え見えである。アメリカが最も力のある国でもなくなってきて、矛盾を抑え込むことが出来ずに、ぼろぼろホツレが露見する。これまでのトランプ快進撃の根底は<反アメリカ・グローバリズム>なのです。<アメリカ・グローバリズム、世界イコールアメリカ主義>のホツレをうまく利用して、不満の力を一手に掌握した。例えば世界の警察を維持するためにほったらかしにされたラスト(錆)ベルトの不満です。トランプが単なる<ナショナリズム/自国優先主義>を基盤とするなら、ここまで拡大出来なかったと思うのです。

ところが<アメリカ・グローバリズム>の旗艦バイデンがこけて、<アメリカ・グローバリズム>と<反アメリカ・グローバリズム>の対立が突然消えてしまった。この対立はただのわめく爺さんとポリティカルコレクトネス<ポリコレ>(特定の人物に対して不快感や不利益を与えないようにする行為のこと。現代では、人種や宗教、性別や見た目などにおいて差別や偏見を含まない中立的な表現を用いること)の対立に成り下がった。

このまま<反アメリカ・グローバリズム>は終わるのか? <アメリカ・グローバリズム>の矛盾はちっとも消えないどころかますます鮮明になってゆく。例えば、イスラエルを火種とする中東の戦いはエスカレートする。ガザの子供が殺されて、世界中のポリコレはイスラエルを一方的に非難する。イスラエルは自衛権行使という、当方もその通りと思う。しかし、アメリカはイスラエルのやりすぎにはずっと目をつぶって来た。なんたってアメリカ国内のユダヤ人勢力は絶大であり、なんたってユダヤ人は超優秀だ。正義は歪んで、グチャグチャになる。(当方はワシントンDCのNIH出向の時もボストンMIT出向の時もユダヤ人の優秀さとアメリカ全体いや世界全体を覆う団結力をもろに見て来た)

トランプ自体は思想などどうでもいい、利用するだけだから、 そのビジネスオリエンテッドな才能を再び発揮して底力を出すのか、若手が<反アメリカ・グローバリズム>を引き継ぐのか? 単なる<ナショナリズム>が台頭するのか?

日本は完全に<アメリカ・グローバリズム>の支配下にあり、大多数の人はそれを空気のように当然のことと思っている。占領国にたいして、日本ほど<アメリカ・グローバリズム>定着に成功した国はないといわれている。

安倍氏なきあと、自民党はポリコレ化(当方は都合がいいので、大衆ポピュリズムよりちょっとましな表面的正統性をまとったポピュリズムをポリコレと表現している)して、たまらず保守勢力は<日本保守党>を作った。しかし、<アメリカ・グローバリズム>に対抗する勢力というよりは、<グローバリズム>に対抗する<ナショナリズム>となっている。<ナショナリズム>は分かりやすく、シンプルに世界を色分けすることに快感を感じる人たち、国民とマスコミのポリコレ化がたまらなく嫌いな人達、フィールドで実戦の最中にある人でなく、安楽な観客席の人々のなかに広がってゆく。フィールドで実戦している人には生きて行くためにいやでもグローバルな考えを持たざるを得ないのである。

本当のグローバリズムと<アメリカ・グローバリズム>の違いを気にしている人がどれくらいいるか? <反アメリカ・グローバリズム>と<ナショナリズム>の違いが解るひとがどれくらいいるのか?
では<アメリカ・グローバリズム>を否定して、どうやって世界平和を保つのか?


<全くの独り言> その2,岸田氏はなぜ受けなかったか?

<総裁選には出馬しない宣言>の岸田氏の演説を聞いて、なぜ岸田氏が受けなかったかがわかった。
岸田氏が総理大臣になった当初は岸田氏をまったく評価しなかったが、その後2つの意味で、しばらくは岸田氏でいいんじゃないかと思うようになった。①安倍氏が築いた確固たる自民党王国における長老勢力をつぶすに、彼ならのらりくらりとやり過ごしながら、じわじわと長老勢力を自滅に導くことが出来るかもしれないと思ったことだ。実際安倍大国の矛盾が、ぼろぼろ露見し、自滅し始めた。当人の死はそれを一気に加速した。②安倍氏の死で目標を失った岸田氏は茫然自失となっていたが、気を取り直して、やるべきことはコツコツやって来た。時折思い切ったこともやり、当方はこの程度でコツコツやってくれればいいと思っていた。安部氏が先送りしてきた山のような問題をそう簡単に理想的に解決できる人はいるわけがない。いくら優れたアイデアが出せるひとでも、国民自体が安倍王国にいりびたって、ふやけてしまっているから、一気に変えられない。コツコツやってくれればいいと思っていた。ところがなんでこんなに支持率が低下したのか。

<総裁選には出馬しない宣言>の岸田氏の演説には岸田美学がちりばめられていた。裏金問題の責任をとることはいささかの躊躇もない。世の中の組織では部下の大きな失敗は社長がすぐ責任をとることが当たり前である。自分に大きな失態が無くてもである。今頃いいだすとは、自分には失態が無いからこのまま続けると思っていたが、周囲の状況からやめざるを得なくって、この期に及んで<責任をとることはいささかの躊躇もない>といったととられても仕方ない。

つまり彼は<いい子であること>が人生の目標だったのだ。小さいころから<いい子>になることが当然のこととして育てられ、自分でも<いい子>であると自負してきた。数々の失敗の中から答えをねじりだし、また失敗し、それでも前に進んで、作り上げた目標は無いのである。かれの演説には、しがみつく自分で作り上げた政治目標を感じないのだ。これが彼が受けない第一の理由。つぎに<いい子>であるために、聞く人を演じなければならなかった。必然的に行動は周囲に左右され、軸がずれてしまう。軸が無い上に軸がずれる。なんにも悪い事をしていない<いい子>であるのに、人を引き付けられない。

当方はどういう結論に導きたいかというと、政治家の長期世襲は大きな弊害をもたらすということだ。

岸田氏だけでない、安倍氏もそうだった。憲法改正の主張は、安倍一族の怨念なのだ。現在の憲法はアメリカに押し付けられた、しかるに変えねばならないという怨念が子供のころから染み込んで、空気のように安倍氏を支配していた。それ以外にも子供のころから染み込んだ政治的バックグラウンドがかれの自信に満ちた行動の骨格となっていた。染みついた家柄は大きな力ではあるが、3つの点でぼろが出た。①科学的対応が必要なコロナ対策では科学的地頭の欠如から手も足も出なかった、② 3本の矢の3本目、これからの日本を作る為の稼ぐ力を生み出すアイデアがそういう地頭の欠如からにっちもさっちもいかなかった、③先代が当たり前と思っていた統一教会とのつながりを当人も当たり前と思ってしまった。 彼はそういう自分の欠点をついてくる人を徹底的に排除したことが、安倍大国の衰退を生み、後世に大きな課題をごまんと先送りした。そして③のために銃弾に倒れた。

言いたいことは政治家の長期世襲をつづけると日本を壊すということだ。

欧米の政治家のトップは日本のような長期世襲で埋め尽くされることはない。メルケルは物理学者であり、サッチャーは中流食糧雑貨商の家に生まれた。オバマの小さいころの経歴はご自分で調べてみたらどうでしょう、およそ世襲とはかけ離れた世界だ。

<全くの独り言> その3 ポスト岸田

政治のリーダーに必要な能力を3つに大分する。
A:現状の手持ちの原資をいかに配分し、いかに文句の出ないようにするか。
ようするに、パワーバランスをうまくとれる人。
B:日本の将来、世界の情勢を俯瞰して、長期グランドデザインを立て、実行し、結果を検証し、改良してゆくサイクルを回せる人
ずばり、日本の国力を上昇させるためのアイデアを出し、上記のサイクルを回せる人。
C:A and/or B 実行の為に関係者に対する調整能力を持つ人
それ以上に、カリスマ性あるいは人を引き付ける何者かを持つ人
Aが得意な人はBは不得意、Bの得意な人はAが不得意。当方はAとCは全く分からないし、興味もないし、能力もない。
政治家、マスコミ、一般大衆の9割はAとCしか興味ない。

日本の現状はBがあまりにもコケにされている。日本が平和で、稼ぎが潤沢の時はAとCだけでいいからそうなった。

石丸氏、小林氏はBからの視点で話す。日本の将来は平和でもなく、稼ぎが潤沢でもないことが見え見えだから、将来がある若者は石丸氏や小林氏に興味を示す。

AとCしか理解できないコメンテーターやマスコミが石丸氏や小林氏と議論しても所詮話がかみ合わない。
一例をいう。
コバホーク小林鷹之議員、選択的夫婦別姓は「国民的議論が大切」と言ったことに吉永みち子氏が国民の殆どは選択的夫婦別姓を支持しているのに、「国民的議論が大切」は気に入らないとかみついた。これまで夫婦別姓は反対といっていたコバホークがあいまいな表現をしたといってネトウヨはコバホークを見限った。海外に合わせねばということを理由とした夫婦別姓ポリコレはネトウヨの最も嫌うことである。田崎史郎氏は曖昧な表現をつまらないやり取りだったといった。コバホークは夫婦別姓は反対が本心であり、さらに本心はBからみればこの話題は殆どどうでもいい話で、ここで夫婦別姓は反対と言っても世間を敵に回すだけだから、ぎりぎりの「国民的議論が大切」と表現をしたので、そうせざるを得ない当たり前のやり取りだと当方は思う。コバホークも当方もこの話題は国民の総意に従えばいいだけで、どうでもいい話なのだ。当方は吉永みち子氏が嫌いではない。今、女性で活躍している方にとっては選択的夫婦別姓は必須条項なことは解っているし、むきになることも理解できる。しかし当方には選択できることならどうでもいい事なのだ。

こういうAとCに関するやりとりばかりが続くことにうんざりしているのだ。試しにテレビをみてくださいAとCに関するやりとりばかりが延々と続くことに気が付くはずだ。
違った、A. Cしか興味のない人はBがない事に気が付くはずはないのだった。

石丸氏、小林氏に賛同した一般大衆はただ現状が変わってくれることに興味があるだけなので、Bからの視点で話す彼らの真意は理解していない。時がたてば彼らのメッキが剥げたとか剥げるだろうとかオリコンとかいう。メッキが剥げたのは分からずさわいだ一般大衆の方なのだ。マスコミはB視点など視聴者に受けないからどうでもいいので、石丸氏、小林氏のメッキは面白いから話題にしているだけである。

AとCしか理解しない現状の日本を救うには、Bをねじ込むしかない。多勢に無勢、それが至難の業なのだ。
石丸氏は石丸流トークとSNSを用いた、小林氏は地頭がよくてもまだまだ未熟だ。石破氏はやろうとしたが出来なかったのであきらめて歩みを止めてしまった、今再開しても考えがリニューされていない、流れからおいて行かれている。本来、本当にやりたいことがあったなら歩みを止めることは無かったはずなのに? 小泉氏の得意技はCであるが、AだけでなくBも考えている、しかし地頭が不足している。Bは難しいのだ。出来なくてもいい、人を使ってBを補えばいいのだ。人を引き付ける何者かがあって、アホみたいなことを言わなければ小泉氏が一番ポスト岸田に近い。

長老キングメーカーは石丸氏の快進撃をみて、若くても上手くやればやれるかもしれないと思い始めた。大衆を丸めこめて、自分達の立場も維持できる。これが小泉氏や小林氏を推す原因となっている。この点でも石丸氏の出現は大きな影響を与えたのだ。

ここに登場しないポスト岸田はいまのところ当方の興味の外だから登場しない。

AとCしか理解しない現状の日本を救うには、Bをねじ込むしかない。多勢に無勢、それが至難の業なのだ。どうする。

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自然教育園日記 その291 Sonyalpha7CR + Zeissレンズー3

2024-08-11 16:17:30 | 写真日記
自然教育園日記 その291 Sonyalpha7CR + Zeissレンズー3
2024-8-8
今日はSony alpha7CR + Sony/Zeiss Vario-Sonnar F2.8/16-35mm (A-mount)              
この組み合わせは今日が初めてです。重さを考えなければ、なんともかっこいいレンズです。



Sony 16-35mmはミラーレス用Sony/Zeiss Vario-Sonnar EF-mount F4とSony GM/GMII EF-mount F2.8がありますが、今回紹介しているのは一眼レフ用A-mountレンズです。誤解なきように、 ちなみにEF-mountF2.8はとても高いですよ。EF-moun Vario-Sonnar F4は以前使っていましたが、そこそこのレンズで、手放しています。

結論をいうと、このレンズは驚くべきレンズです。16mmでも、はじからはじまで、ピタッとピシッと解像しまくる。葉っぱの一枚一枚を細密描写するのです。かつては、Sony一眼レフに付けるレンズとしては高価な憧れのレンズでした。このレンズをつけっぱなしと自慢していた人がいた記憶があります。ミラーレスにシフトして一眼レフが消滅し、中古のAマウントレンズは手の届く値段になりました。 これまで、このレンズはFujifilm GFX100SやGFX50SIIに付けて使っていました。最大の欠点は重たい事。Sony alpha7CRに付ければ実測、total 1412gなんとか1.5kg以下におさまります。このレンズを使いたかったら、今中古で買って、この組み合わせで使うのがベストです。 このレンズはAマウントでもう現役を引退しました。遠からず市場から消滅するでしょう。


16mm


26mm
この機材の精密描写はブログの小さな画面ではとうてい表現できません。


28mm


26mm
きれいな星形太陽が作れます。


16mm


16mm


28mm


28mm
絵的に面白い面白いと思っていたクサギの花をこのシステムが少し表現してくれました。


ヘクソカズラ 24mm
バシバシ、トリミング拡大しています。これなんか元絵は下の絵です




16mm
さらにこれなんか、元絵は下の絵。




35mm


16mm
さて、またもや園を一周して、上を見上げて今度は16mmで撮影。


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自然教育園日記 その290 Sony alpha7CR + Zeissレンズ-2

2024-08-06 19:29:58 | 写真日記
自然教育園日記 その290 Sony alpha7CR + Zeissレンズ-2
7月28日
今何をやっているかというと、午前中は相変わらずPCとにらめっこの仕事、最近は連日生成AIと格闘しています。それだけの価値があるからやっているのです。この歳で生成AIというと、単なる新しいもの好きな暇人と思うでしょうが、全く違います。超有能な助手をただで雇ったようなものです(今のところ大ポカもする助手でもありますが)。 生成AIとは<原子力>が開発されたと同じくらいに世の中が変動するに違いない画期的ことであり、その生成AIの向かうベクトルは良くも悪くもとんでもない事です。全く興味ない人も、ほっといてもその内いやというほどわかります。

連日、熱中症警戒アラートが流れるし、午後はとても表を歩ける状態ではありません。現在家じゅうを改造中なのです。前々から<終活>として、やろうやろうと思っていたのです。まずは地震対策でとにかく3階の重い物を捨てまくる。1階を改造して、そこに移動する。<公募展の騒ぎ>が収まってから、もう一か月くらい連日その作業をしています。

陶芸関係の重い物は全てガレージの仕事場に集めて、ガレージも大改造中です。毎日毎日、重い物を3階から下に運んで、仕分けして捨てるか、収納スペースを改造して残すか、に明け暮れています。こんなとき当方は何をつぶやきながら仕事をしているかと言えば、<私は働き蟻だ、私は働き蟻だ>とつぶやいているのです。働き蟻はブツブツ文句を言いながら働いてはいないに違いない。38℃の中を動き回るのに、こうでもしなければやってられません。
だけど働き蟻はすごいですよ。公園で地面をみていると炎天下でも働き蟻は石ゴロゴロの地面をすごい勢いで、走り回っています。ものすごいパワーと身体能力、こんな生物って他にいるのかな???

さて、本題に入ります。Sony alpha7CRにSony AマウントZeiss distagon 24mm を付ける意味です。24mmは広角レンズとしてはやっと広角っぽい雰囲気が出る最初のレンズです。パースペクションの面白さとか言って、広角レンズを追いかけていた時は24mmはあまり興味ない写角でした。18mmより広角でないと興味なかった。 最近はSony alpha7CRに本レンズ24mmの組み合わせにとても注目しています。この組み合わせはトリッキーでないけど、ちょっと変わった絵が作れる。この組み合わせはとても魅力的なのです。最短撮影距離19cmとF2の明るさ、なんたってZeissの精密描写、実測total 1125g、この24mmは当方の中で、昔よりずっと評価が高くなっています。

ブログも書かねばなりません。Sony alpha7CR + Zeissレンズという命題です。このくそ暑い中で、自然教育園でSony alpha7CRにSony AマウントZeiss distagon 24mmの試写をしました。面白くもない絵と言われようが、炎天下でなにか考えながらまともに撮影するなぞできるわけはないです。 それでもこの機材での撮影は、なにかちょっとかわった雰囲気が出せるものだなと今後に期待できる感触は得ています。


Sony alpha7CR + Sony AマウントZeiss distagon 24mm F2


ヤブミョウガの花



右下の涼む人達に気が付いてください。



クサギ、とてもアゲハ蝶が好む花です。
上の絵を撮っていたら、蝶が飛び込んだのが下の絵。




ヘクソカズラ


ツユクサ



なにかちょっと雰囲気が変わっていませんか? きっと背景の中の強調が面白いのだろうと思う。このZeiss 24mmは最短撮影距離が19cmと対象に接近できることがきいている。このZeiss 24mmはもうちょっと追いかけてみようという気にさせるのです。

家じゅうの大改造作業の後、あまりの暑さにかき氷を作って、カルピスをかけて食べる。カルピスはすごい日本の発明だと感激する(cow pisは海外では使えない名前だということは聞いたことがある)、ところでフワフワのかき氷は日本以外で自分で作って食べる国があるのか??

人間しかやらないことは、戦争とオリンピックとかき氷を食べることだと当方が言う。結構面白い事を言ったと思ってブログに書くと言ったら、ちっとも受けないよと家内が言う。
二人ともオリンピックに興味がない。当方はスポーツは必ず負ける人がいてかわいそうだから見たくないというと、家内は負けるのはいい気味だ、私は勝ち負けに全く興味ないからオリンピックに興味ないという。オリンピックに興味ないと二人一致しながら、理由は全く違う。何でこんなに違う考えの人が一緒に暮らしているのか、世の中不思議なことばかりだ。

8月3日
まだSony/Zeiss Distagon 24mmの試写が足りないと思って熱中症アラートのなか出かけたはいいのですが、7月28日訪ねた時よりさらに暑く成り、虫は一匹も出てこない。



相変わらず葉っぱの細かい描写は魅力的。



広角にすると奥深い森に見えるところが不思議だ。





このZeissはF2と明るいために、バックの情報を入れ込むかボカすかを自由にコントロールできるところがいい。



前ボケもきれいだ。



普通の景色も深い森となる。



園を一周して、入り口広場で何時ものように上の葉っぱを見上げてぼっとする。スーッと風が吹くと至福の時。



何もいい写真が撮れなかったけれど、一周まわりきったというだけで満足。
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