小さな旅、大きな旅の写真物語(Virtual trips/travels)

京都や東京を本拠地として、自然の中や町を歩きながら、撮った写真をどんどん掲載します。いっしょに歩いているように。

東北被災地復興支援ツアー その5

2012-12-16 22:26:31 | 日記
東北被災地復興支援ツアー その5

さて、ツアーの朝。今日もカメラは富士フィルムX-E1+ソニー・ツアイス・バリオゾナー16-80mm。 今日はちょっと報道カメラマンになります。



昨晩、楽しんだ駅前庄屋は雪の中。



どうやら気仙沼復興支援ツアーは催行のようだ。 東京から高速バスで来た方が大幅遅れで、9時50分出発のはずが20分ほど遅れて出発。一関を出て、気仙沼を訪れ、18時ころ再び一関へ戻ります。だれもいないかと思ったら、25人も参加。昨日石巻に泊まって、津波警報で山に逃げたとういう方もいました。



一関から気仙沼まで通常1時間のところ、雪で少々苦労する。



気仙沼は雪もなく快晴。まずは魚市場に向かいます。



魚市場の一部は壊れたままのガランドウ。



魚市場は1m沈下して、1.3m持ち上げて、ボチボチ再開しています。



魚市場に向かいにあるビルは2階までズッポリ水に浸かって、現在も手がつけられない。



鉄骨も無残。



まだ、海水の匂いがします。







崖の前のビルは反射の波により完全に破壊されて、鉄骨もボッキリ



部屋の中はガランドウ



見事に壊されたお店。



写真パネルの意味はーーーー



まだまだビニールシートがあちこちにあります。



ヤケクソの気持ちが伝わります。



仮設商店街 その1  仮設商店街は結構、人が集まっていました。



栗まんじゅうを食べて支援



地酒を買って支援



フカヒレを買って支援



仮設商店街その2
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東北被災地復興支援ツアー その4

2012-12-15 16:58:18 | 日記
東北被災地復興支援ツアー その4

中尊寺の続きです。カメラは相変わらず、富士フィルムX-E1+ソニー・ツアイス・バリオゾナー16-80mmです。雪のなかをどう撮るか。


経堂


釈迦堂と紅葉、手前は何かお堂の跡ですが、何かわすれました。


旧覆堂
もともとこの中に金色堂が入っていたのです。 奥州藤原氏亡き後、戦国時代に金色堂が荒らされずに残ったということが、とても不思議なのです。 そういっては悪いけど、韓国の昌徳宮(チャンドックン)に金色堂があったら、あっという間に略奪されたはずです。 奥州藤原3代の遺体がミイラになって安置されている、御墓でもあるわけですから、奥州藤原3代は民に崇められていたのでしょう。昌徳宮の李朝とはだいぶ違う。出だしは渡来人系が絡んでも、日本は日本だなと思うのです。


旧覆堂の内部


釈迦堂と紅葉


釈迦堂と紅葉

雪がだいぶ降ってきました。この雪をきっかけに、この後、12月というのに、一関を含め北国は異例の大雪にみまわれるのです。


白山神社、能舞台へつづく参道


能舞台

伊達家は能がすきで、現在の能舞台は伊達家の再建によるということです。お盆、8月14日に薪能が行われるそうです。とっても見に行きたいですね。




金色堂の向かいにある、弁財天堂

とにかく寒いので、中尊寺を切り上げて,おそい昼食にします。 一度は試そうと、わんこソバに挑戦、といっても、ここでは人が付いていてどんどんソバを入れるということではなく、最初から並んでいます。まあ、ゆっくりお酒を飲めるからいいか。薬味が4種類ついていました。特に変わったソバということでもなく、ただの経験です。




お神酒も入って、一息ついたので、雪の中を少し歩いて高館義経堂に行きました。

ネットの説明をそのまま載せましょう。
<高館は北上川に面した丘陵で、判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれています。現在では、その半ばを北上川に浸蝕され狭くなっていますが、この一帯は奥州藤原氏初代清衡公の時代から、要害地とされていました。兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経公は、藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館に居館を与えられました。地元で判官館と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来します。 しかし、文治5年(1189)閏4月30日、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子・泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられています。丘の頂上には、天和3年(1683)、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経公の木造が安置されています。高館からの眺望は平泉随一といわれ、東にとうとうと流れる北上川、束稲山(別名・東山)が見えます。また西からは、かつてその流域で前九年・後三年の役の戦いの場であり、弁慶立往生の故事でも知られる衣川が北上川に合流しています。>




北上川が見たくで、ここに来ました。 



この御堂のなかに義経像が安置されています。


この後、無量光院跡も柳ノ御所跡も循環バスの運転手さんのガイドを聞きながら通り過ぎて、平泉の駅前に戻ってきました。本当はここから、タクシーで達谷窟毘沙門堂に行くつもりだったのです。
達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)は<延暦20年(801年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた蝦夷を討伐した記念として建てた。現在の天台宗達谷西光寺があり、達谷西光寺境内の西側には、東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルにおよぶ岸壁があり、その下方の岩屋に懸造の窟毘沙門堂がある。さらにその西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれている。>


無量光院

宇治平等院より大きかったそうです。


達谷窟毘沙門堂


磨崖仏

<蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化している。近世の蝦夷(えぞ)はアイヌ人を指す。>
久慈力の<蝦夷(エミン)アテルイの戦い>を読んだ者として(当方のブログ東北の緑、京都の緑を参照)、最後に一言いっておかねばなりません。これは古来渡来人(弥生人)と古来縄文人の戦いの歴史です。達谷窟毘沙門堂は世界文化遺産から外されましたが、平泉と達谷窟毘沙門堂は、古来渡来人(弥生人)と古来縄文人の戦いと百済系渡来人と新羅系渡来人の戦いの時空を超えた交差点にあたるのです。
大和朝廷(古来渡来人弥生人系)は古来縄文系蝦夷の討伐を試みて、北上川を戦場とする両者の戦いは長い間続いていた。エミンの長、アテルイとモレは何度も討伐を撃退したが、策略にかかって、打ち首となり、エミンの戦いは終了する。達谷窟毘沙門堂はその記念碑の一つである。 この戦いには百済系渡来人が多く参加していた。蝦夷(エミン)の多くは大和朝廷に仕え、これをよしとしない古来縄文人、蝦夷(エミン)は北と南にわかれて、北海道のアイヌの源流と琉球王国の源流となった。最近のDNA解析で、アイヌと沖縄人が縄文人の系譜であるという説が正しいという流れになってきている。
 さて奥州藤原家4代のお父さん藤原経清は奥州六郡を治めていた陸奥俘囚(フシュウ)の長、安倍氏の娘と結婚している。俘囚とはまさに大和王朝に従ったエミンを奴隷扱いに呼ぶ名前である。安倍氏の大元が古来弥生人に追われた古来縄文系であったどうかは定かでないが、この時点で古来縄文人の血が濃く入り込んでいたと思われる。つまり、奥州藤原家には百済系渡来人-新羅系渡来人-古来縄文人の血が混在しているのである。2代目も安倍氏から嫁をとっているから、古来縄文系の血は次第に濃くなった。お父さん藤原経清は大和朝廷の安倍氏討伐の時に安倍氏に味方し、安倍氏がほろんで、藤原経清は打ち首となったのである。 この戦いの明暗を分けたのは俘囚、清原氏の朝廷への寝返りによる。
経清の妻は敵であった清原氏の後妻となったことが、大きな意味を持つ。 これによりその子、奥州藤原氏、1代目は殺されずに済んだのかもしれない。しかし、一代目はなんとか源義家と組んで宿敵清原氏を討ち、奥州の覇者となった。一方源義家は奥州の内輪争いに介入したとして朝廷から冷遇され、奥州侵略がかなわなかった。これが、後に源頼朝の奥州侵略の根源となっている。
古来縄文DNAは決して戦いに勇猛でないということはなく、どちらかというと、強い人種というレッテルがはられている。しかし、争いを好まずに自然と共に生きることを選択して来た。古来弥生系渡来人さらにその後の渡来人DNAは常に仲間と敵を分別して、敵を倒すまで戦いをやめない。自然をも支配下に収めてゆく。当方のいう、古来渡来人―百済系渡来人―新羅系渡来人―古来縄文人のDNAは交錯しながら混ざり合い、その戦いは我々それぞれのDNAの中で今も戦いを続けているのである。
さて、達谷窟毘沙門堂ですが、タクシー代5~6千円、16時30分に閉門、現在16時ということで、あっさりあきらめました。

一関に帰り着いてホテルから食事に出ようとした時、とんでもないことが起きたのです。震度5弱の地震です。宮城県の海岸地区は津波避難命令が出て皆、避難したのです。我々の明日行く気仙沼は宮城県が岩手県に入り込んだ地点にあります。大きな揺れが続き、エレベーターはストップ。明日のツアーはどうなることやら。 津波は最大1mですんだようで、我々は非常階段からぬけだして、一関駅前の庄屋で夕食です。新幹線がストップして、帰れなくなったお客さんで居酒屋さんは繁昌していました。 寒ブリの刺身、ハタハタの塩焼きが上手かった。 サービスでいただいたタコの白子もめずらしかった。名前は忘れてしまったが八幡平の地酒もおいしかった。


キリタンポ鍋で喜ぶ家内。

さて、明日の気仙沼へのツアーは催行されるのだろうか?

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東北被災地復興支援ツアー その3

2012-12-14 23:51:25 | 日記
東北被災地復興支援ツアー その3

金色堂の内部は勿論撮影禁止。何にも載せないで文書だけというのもさびしいので、小学館アーカイブス 古寺を巡るシリーズの中尊寺から、すみませんが以下の写真をコピーさせていただきます。


金色堂 平安時代 国宝
新覆堂の中のガラス貼りの空間に金色堂が収まっています。さすがに世界文化遺産登録を引き寄せただけのオーラを放っています。宇治の平等院の浄土の世界に比べると、全体がずっと小ぶりでありますが、全部金張りですから、十分に阿弥陀浄土の世界を表しています。仏像や彫刻も十分に優れていると思います。 この前、京都の本屋さんで、東北の仏像という本を立ち読みして、この金色堂に限らず、東北にはとても魅力的仏像が沢山あることを知って驚いたのです。都から移ってきた、優秀な仏師がいたのでしょう。この金色堂を作るにあたって、仏師だけでなく、一流の番匠、塗師、飾師など京都から集められたそうです。一つだけ気になるのですが、螺鈿細工がびっしりと施されていて、それは豪華なのですが、当方にはせっかくの金一色がかき乱されて、うるさい感じがします。金が新しい時は、もっとバランスがよかったのかもしれませんが、やりすぎです。びっしりとした螺鈿細工はこの前、韓国の昌徳宮(チャンドックン)で見たばかりで、もろに韓国を思い起こします。日本文化はもうすこし上品に螺鈿を使わなくては。螺鈿細工をびっしりやったから、奥州藤原氏は渡来系であるというつもりはありません。単に、どこまでも豪華にしたかっただけだと思います。




金色堂中央須弥壇 平安時代 国宝


中央の阿弥陀如来像 国宝


この地蔵菩薩立像(平安時代、国宝)がとてもいいですね。左右のサイドに3体づつ,計6体あります。


増長天立像 平安時代 国宝 

中央の向かって左に置いてあります。もともとは右に置いてあったとされています。


千手観音菩薩立像 平安時代 重文 讃衛蔵(宝物殿)の中で、もっとも眼を魅かれる仏像です。以前は中尊寺、観音院千手堂の本尊で、宝物殿に移されました。

全然、時間がありません。また明日。
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東北被災地復興支援ツアー その2

2012-12-13 22:57:54 | 旅行
東北被災地復興支援ツアー その2

本日もカメラは富士フィルムX-E1+ソニー・ツアイス・バリオゾナー16-80mmです。
そういえば、ソニーの方がソニーRX1が色々賞をとったといっていました。写りの評判もいいようです。これもツアイスレンズのおかげと思います。

さて、毛越寺の続きです。



大泉ケ池、左に荒磯の風情を表す出島と池中立石が見えます。





嘉祥寺跡



常行堂、ここで<毛越寺の延年>の舞いが行われるのです。



常行堂



中学3年の修学旅行で、ここに来たことを覚えています。 当時は何かカメラをもっていて、ここを撮った写真を覚えています。この後、旅にはカメラを持たないという主義に変更して、長い間、写真を撮りませんでした。子供の写真を撮るようになって、ミノルタ一眼レフを2代くらい使っていました。その後またカメラが面倒になってデジカメ、これがツアイスレンズの付いたソニーサイバーショット。そして今は結構一生懸命に写真を撮るようになりました。当時の大泉ケ池の方がきれいだった記憶があります。 今は冬で芝生が枯れているし、池を部分的に修理していたり、冬場はどこも一年分の修理をする時ですからしょうがないですね。
毛越寺から、バスでちょっと走ると中尊寺です。



中尊寺の参道の入り口にある弁慶のお墓といわれる場所。



この表参道を月見坂といい、樹齢300~400年の杉並木があります。これは江戸時代に平泉を治めていた伊達藩主により、植えられたそうです。戦国時代は秀吉が、中尊寺の秘宝である、金銀字一切経、金字一切経などを京都に持ち帰り<中尊寺経>として高野山や観心寺にあるそうだ。それに比べて、伊達家は中尊寺を厚く保護し、色々な御堂や能舞台をつくったそうな。ぼろぼろの中尊寺を立て直したのは伊達家であり、今、金色堂が残って、平泉が世界文化遺産に登録されたのも伊達家のおかげといえます。





月見坂の途中にある弁慶堂です。 この屋根、中央にベロッと平板の流れがあって、サイドとつながるところが毛越寺の本堂に似ているでしょ。



結構、立派な彫刻がほどこされています。



弁慶堂の裏にある地蔵院の入り口に黄色い紅葉が残っていました。



坂の途中にある望古台からみる北上川。その昔、安倍氏時代には桜がいっぱいあった束稲山(タバシネヤマ)が見えるはずのですが、全く見えません。



これが中尊寺、本堂。明治42年再建。雪つりがきれいです。 高野山から分灯された、<不滅の法灯>が守られているそうだ。







阿弥陀如来が安置され、お堂の彫刻や天井がかなり凝っています。



本堂隣には峯薬師堂があり、薬師如来座像が安置されている。
当方は其の前の小さな池の落葉のパターンに魅かれる。








さて、いよいよ金色堂です。

金色堂のくわしいことはまた明日。
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東北被災地復興支援ツアー その1

2012-12-12 17:30:19 | 日記
東北被災地復興支援ツアー その1

家内が、どうしても東北の被災地を訪れたいというので、とってもコストのかからない、且つ、有意義な旅のプランを考えつきました。スケルトンツアーで一関に一泊して、隣の平泉の世界遺産を見て、次の日に一関から、気仙沼へ復興支援ツアーというバスツアーに参加して、その日のうちに東京に帰るというプランです。スケルトンツアーが新幹線往復とホテルサンルート一泊で16000円、復興支援バスツアーが、昼食付きで3800円です。平泉のお寺ではずっと、被災地の方々の復興と、亡くなった方のご冥福をお祈りして、気仙沼では、被災の状況を共有してから仮設商店街を訪れて、買い物をすることで、復興支援しました。 このブログを見て、ご興味を持った方は是非、このプランで被災地復興支援をしてください。 被災地を観光するとはと怒る方もいらっしゃるかもしれませんが、現場の状況を共有すること、とにかく現地を盛り上げるという意味で、決して無意味なことではないと思います。ニュースで被災地の話が出てきても、一回おとずれると、他人事でなく、実感を持ってニュースを見ることが出来るようになるのです。
気仙沼で、サラリーマンをしていましたが、今は仕事が無いので、ここで海産物を売っていますと言う方とお話をしながら、買い物をする。カキ小屋を団体でおとずれて、まとまったお金を落として行く、微力ではあるけど、決して無駄ではありません。現地の方にとっては、やっぱり商売して、お金を得るということが一番の励みになると思うのです。1mmでも毎日前に進んでいるのですから。

今回のカメラは、富士フィルムX-E1+ソニー・ツアイスズーム・バリオゾナー16-80mmです。 旅の友として、活躍できるかを試してみました。これまで、さんざんケチをつけたこの組み合わせですが、色々な場面で試してみて初めて結論がでると思っています。 どうでしょうか、16-80mmという写角の良さ(特に16mmがあることです)と、ツアイスの端正さは出ていると思います。



12月7日、平泉に降り立つと、右の看板が目につきます。 上の青いバーがカスリン台風の時に、北上川が氾濫して、この地域が水没した印で27.9m、下の青いバーがアイオン台風のときには25.5mという印です。バスを待っているときに土地の方が説明してくれました。明日は津波で水没した地域を訪ねるわけで、この看板は気にならないわけありません。



平泉の町は循環バスで大体の観光名所を回ることができます。歩いても回ることも可能な距離です。最初は毛越寺(モウツウジ)。

  とっても面倒だけれど、一回は平泉の意味を書かざるを得ません。
平安時代後期、平泉は奥州藤原氏の土地であった。古代の豪族は渡来人系であったことから、この奥州藤原氏も渡来人系であったと思っていたが、中尊寺に眠る3代にわたる奥州藤原家の遺体の調査で、奥州藤原家はアイヌ人ではなく渡来人系弥生人であることがわかったという記述がネットにある。奥州藤原氏が南から移って来たことは推測できるが、はっきりしたことはわからない。藤原鎌足の系列とするなら、百済系渡来人ということになる。 今も雪がちらついて、気温は0度前後であるが、朝鮮から見れば、ここは天国みたいな土地である。北上川の周囲には肥沃な耕作地が広がっており、敵は少ない。奥州藤原氏は渡来人系の能力と技術をもってすれば、この地に権力と富を集積することは容易であったに違いない。奥州藤原氏とは藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡の四代、100年の歴史である。
  この奥州藤原氏の興隆の時代、奥州藤原氏は現在の東北地方に当たる地域全域を支配した。平氏、源氏、奥州藤原氏の三国時代という言い方が出来る。ところで、平氏は百済系、源氏は新羅系で、源平の戦いは、百済系と新羅系の戦いであるという説がある(双方百済系という説もあるが、そうすると話がちっとも面白くない)。こういう日本のルーツは韓国であるという韓国の扇動にのったような解釈は嫌であるという人が大多数と思う。しかし、当方はこういう考え方がなぜか好みである。なぜなら、とってもシンプルに歴史を解釈できるからである。 中央集権には能力が必要で、能力はDNAが支配する。 戦闘能力はどうしたって渡来人DNAと思う。この時代の大きな核の中心に戦闘能力のある渡来系DNAが存在すると思わざるを得ない。 渡来系DNAは本能的に仲間と敵を分別して、敵を倒すまで戦いをやめない。これが渡来系DNAの性(サガ)である。とするならば、古来渡来人、百済系渡来人、新羅系渡来人、そして古来縄文人の対立としてみると、シンプルに歴史が理解できるのである。実体はこのように明確な対立ではなく、百済系と新羅系の血の混じりも十分あったであろうし、古来渡来人(百済系と新羅系渡来人より前から日本を治めていた弥生渡来人すなわち皇室系)との血の混じり合いもあっただろう。しかし、いくら混じっても仲間と敵を分別する性からは抜けられない。なんとしても仲間と敵を作ってしまうのである。 信仰する神が百済系か新羅系かという分類の仕方を主張する人もいて、これは納得できる。神はそう簡単に混血しないから、どちらかに分かれざるをえない。
  話を元に戻して、奥州藤原氏と源氏のつながりが大きなポイントになる。源義経は若いころと人生の終盤に奥州藤原氏の元で過ごすのだが、奥州藤原氏が百済系、源氏が新羅系とするとなぜ奥州藤原氏は源義経をかくまったのか?もともと奥州藤原家が中央の百済系を追われて東北に左遷された原因の中に新羅系との関わり(血の混じり)があったのかもしれない。 もっとはっきり言えば、当時、側室は何人もいたわけで、気に入れば百済系の主人が新羅系の側室をもうけることもまれにあったに違いない。 その子供たちが全員中央で暮らせるはずもなく、多くが地方に出ていかざるをえない。新羅系側室の子は真っ先に追い出されたのであろう。奥州藤原氏がこういう事情で奥州へ来たかはまったくわからない当方の想像である。(訂正:これまでの記述を完全に否定するわけではありませんが、奥州藤原氏の初代清衡が奥州を制圧できたのは源義家との連合で清原氏を討ったことにあり、当初から源氏とは深いつながりがあったということです。また後で書きます。ほんと歴史はむずかしい。)
朝鮮DNAは敵を倒すと、次に仲間の中で殺し合いが始まるのが常で、いつまでたっても戦闘DNAの性から逃れられない。平氏を倒した源氏は今度、異母兄弟の兄、源頼朝が弟、義経に刃を向けることになる。 源義経をかくまった、奥州藤原の3代目と4代目の行動に、なにかとっても考えさせられる。 当方は、日本の歴史物語、特に武士の歴史物語に全く疎いので、渡来人DNAの系譜で簡単にかたずけてしまおうとするのだが。3代目が亡くなるときに、4代目に義経と共に頼朝に対抗せよと遺言を残す。 しかし、4代目は頼朝の圧力に負けて、自らの手で義経を自害に追い込む。 ところが、結局、4代目は頼朝の攻撃により、滅亡するのである。かくて三国時代は源氏が平定し、次の展開に移って行く。よく事情を知らないで、そういうのは申し訳ないけれど、この4代目の行動がかっこ悪い。 頼朝の攻撃に対して一方的受けに回らずに、義経とともに堂々と頼朝と戦ったらよかったのに。どうせ滅亡するならそちらの方がカッコいい。 4代目ともなると渡来人戦闘DNAがすり減ったのか?今回の旅では訪れなかったが、奥州藤原氏、3代目、4代目の館である、無量光院はまさに中央百済系の中心藤原道長、頼通の作った宇治の平等院をそっくりまねたものであった。 奥州藤原家が、百済系中央を追われたことに大きなシコリを代々ひきずっていることは、奥州藤原家が本来は百済系であり、そこに戻りたかったのであろう。結局、4代目は源氏、新羅系同士の争いに命を賭けられなかったのかもしれない。4代目に渡来人戦闘DNAが残っていたなら、まずは義経を利用して頼朝を討って、つぎに義経を討って、中央百済系に返り咲くことを考えたに違いない。 義経をかくまったときから、全体像は読めたはずなのに。 無量光院に自ら火を放って、死んでいった4代目の心中はいかなるものであったか。
(無量光院が残っていれば、平泉はもっと華やかになったのに)(訂正:後でわかりました。4代目は無量光院に火を放っていないようです。平泉を逃げだすときに平泉館などの特定の場所に火を放ったとあります。それでも平泉はほとんど燃えたようです。しかし無量光院は残ったらしい。)



当方の旅はいつも帰ってから、ブログのためにバックグラウンドを勉強するというスタイルになります。行く前はほとんどバックグラウンドを知らない。この写真は単に、お寺の屋根の正面の流れと、サイドの流れが交わる地点の処理の仕方が今まで見たことがないやり方だったので、興味をひいて撮影したのです。 このような旅は先入観無しで物を見るからいい点もあれば、なんにもバックグラウンドをしらないから、なんだ、つまらないといって通り過ぎてしまって、あとで後悔することも少なくありません。



こう見た方がよくわかるかもしれません。中央が平面的にベロンと流れ、サイドがあわててつじつまを合わせるという感じがしないでもない。後で出てくる中尊寺の弁慶堂も似たような屋根の処理があり、もともとは同じ人が作ったのではないかと思うのです。この本堂は平安時代の様式で平成元年に再建されたとあり、弁慶堂は文政9年(1826)の再建とあり、両者の関係はどこにも書いてありません。こんな具合に、当方はただ感性だけで旅をするのです。

話がとっても長くなってしまいました。 毛越寺の説明だけ書いて、今日はおしまいにします。奥州藤原氏、二代基衝、三代目秀衝が造築した。当時の伽藍は中尊寺をしのぐものであった。いくつもある御堂はみな焼失し、其の跡と庭園が残っているだけである。世界文化遺産に登録され、平安時代の浄土庭園が見どころである。当方には、正月20日に常行堂で二十日夜祭として行なわれる<毛越寺の延年>という平安の舞いがなんとも魅力的に思われます。一ノ関、新幹線駅のビデオで見たのですが。色々な時に、いろいろなところで公演が行われるようです。一度は見てみたい。


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