毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「金じょんいる」という人    2011年12月20日(火) No.244

2011-12-19 22:51:04 | 日記
 『KIM-JOHN-ILL』とアメリカにいた時ジョークで書いていた。その人が亡くなったという。
人間は必ず死ぬので、そして、どんな権力者も人間なので、今回金正日が死んだからといって自然に適ったことなのだが、朝鮮民主主義人民共和国の権力者の死を嘆き悲しむ平壌市民の映像を見たとき、それにオーバーラップして心に浮かんだシーンがある。

〈その1〉
 私がまだ若かった頃、小学校の教師として勤めていた学校でのこと。1年間の育児休暇明けで学校に出て行った私は、かつて受け持ったクラスの子ども達の異様な行動を目の当たりにした。
その時の担任はかなり年配の男性教諭だった。彼は非常に厳しいクラス管理をすることと女生徒と男生徒への態度に差があることで有名な人だった(つまり、女子贔屓)。

 同級生の誰かがヘンなことをしているのを見たら、必ず担任に密告しなければならない。もししなければ五人組制度みたいなので処罰されるのである。叱り方の恐ろしさもたいへんなもので、まず、子ども達はその恐怖心から担任のいうことを聞くようになる。そのうち、その人は何か子どもを驚嘆させる技を示して、尊敬語で語られるようになる。子どもだけに留まらず、お母さん方までその先生を崇拝するようになる、といった人だった。

 しかし、同僚達の多くは彼の教育実践に非常に批判的だった。
確かに彼の指導により、教室背面の絵は見事に変化する。その前に担任した者としては大いに恥ずかしい気になる。だが、それらの絵をよく見ると、どれもこれもそっくり。色もタッチも形までも。
音楽会で彼のクラスの子達は綺麗な声で歌う。声がよく出ているし、ハーモニーも見事だ。しかし、歌っている子どもの顔がみんなうつろなのだ。そして、全員が体を前後にユラユラゆらしながら歌うその姿は、幽霊の子ども達のようだった。

 ある日、廊下を歩いていたら、その男性教諭が憮然とした表情で教室から出て来た。驚いたのはその後に、女の子たちが「先生、ご免なさい」「許して下さい」「先生~!」と口々に泣き叫びながらゾロゾロ出て来たことだった。一番最後に、ちょっと出遅れ気味に出て来た女の子が私を見て、思わずニヤッとした。その時の私にはその子だけが普通に思えた。

 後で、その時のことを話してくれた子がいる。何人かは本気で担任を崇拝して追いかけたが、ほとんどは追いかけなければ、後で批判の対象になるので仕方なくそうしていたという。

 男の子でとてもしっかりした正義漢がいた。その子は毎日がイヤでイヤでたまらず、早く来年が来て欲しい、卒業して中学に行けばあの担任から離れられると、そればかり考えて耐えていたという。その子のお母さんも
「同じクラスのお母さんと会ったら、『もうすぐ卒業ですね。』とお互いに言うんです。それだけで相手の心が痛いほど分かるんです。」
と話して下さったことがある。日本のミニ金正日である。彼はもちろん、もうとっくに退職しているが、自分のしたことの全体が見えていたのだろうか。子どもは大人とは違うし、躾けも必要だ。だが、子どもも人間なのだ。辛抱我慢を教えることと、自分を崇めさせることと、何か関係があるのだろうか。今どきあんな人は存在が許されないとは思うが、それに近い教師はいる…かな?

〈その2〉
 これは実体験の映像ではない。
1945年8月15日の玉音放送を前に号泣したり呆然となったりした日本人の姿だ。「大東亜共栄圏」実現の戦争を正義であると本当に信じ切っていた人たちは、その後、あの戦争をどう捉え返したのだろう。案外、未だに「負けなければ正義だった」と思っている人もいるのかも知れない。
『歴史がぼくを問い詰める』…ブルーハーツのマーシーの言葉だが、一人一人がきちんと問い詰められ、誤魔化し無し、迎合無しに一生懸命考えて生きてきたと胸を張れるのだろうか。日本人は。(そして、私は…。)
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「こちらも師走ムード」      2011年12月19日(月) No.243

2011-12-19 10:43:44 | 中国事情
 南昌が師走ムードというわけではない。自分の心的風景である。
昨日我が宿舎で、財大短期留学生のキタさん、ご近所様の理工大学のムラオカ先生が来て下さり、さらに江蘇省からテストのために帰校した4年生の陳礼名さんも飛び入りして、ミニ忘年会みたいなのを開催した。
 キタさんは、9月から4ヶ月間の語学留学が一区切りし、22日に帰国する。私も授業が実質的には先週で終わり、後は今週のテスト週間を残すのみ。一仕事終えた気分だ。ムラオカ先生もだいたい同じ状況だと思われる。そういうときにはやっぱり、打ち上げ会があって欲しい。ムラオカ先生ご持参の冷酒(な、なんと日本から!)と私の適当創作天ぷら・おでん、そして、陳さん以外は大阪にいるのと変わらないような関西色溢れる顔ぶれで、とてもホッとした和やかな一時だった。

「一区切り着く度に打ち上げ」。
おそらくこれは日本的な感覚なのだろう。新平老師や朱老師は、一学期が終わったと言っても、(それが何?)みたいな感じだ。一年間の終わりは7月で、その時には「一年間の仕事が終わりました。おいしいレストランでご馳走を食べましょう。」ということになる。私のように、12月の寒さとともに何となくソワソワするのは「師走ぐせ」とでも言えようか。中国の人々にとって年末年始と言えば、春節のことで、12月などは全く普通の月だという。学生達は、このテストが終わり、一学期が終了する1月12日を指折り数えて待っている。(行事に心躍らせるというのは、なかなか好いことなんだな)と、こちらに来て年中行事についての認識を新たにするブルーはーとであった。
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