不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「帰国者と引揚者」  2012年7月13日(金) No.394

2012-07-13 21:32:56 | 中国帰国者
中国残留邦人は日本に帰ってきて、「中国帰国者」と呼ばれている。
(「帰国子女」ではないす
以前、帰国者を対象にした日本語のクラスで
私の両親が中国からの引揚者であることを話したとき、
帰国者の中から「引揚者は帰国者と同じですか」
と質問があった。
私は迂闊にもその時まで、二者の共通性や違いについてきちんと吟味したことがなかったので、
心中(おお!そう言われれば同じだ!でも違いは何?)と自問した。
その時はとっさに、
「帰国者も引揚者も同じです。日本に帰ってきた時期が違うだけです。」
と答えたが、では何年までを引揚者と呼ぶのか今も定かではない。
大阪大学の入試要項には今も「中国引揚者子女のための特別入試制度」という文言がある。
ということは、今も「引揚者」という言葉は生きているのだなあ。
しかし、一般的に「引揚者」は1945年以降、1950年代末までに日本に帰還した人たちを指していると
私は理解している。

母は生前、
中国から引揚げてきた時のことを語ったことがある。
1946年2月に山東省を出発するとき、近所の中国人が背中のリュックに麻花という揚げパンのような菓子を入れ、さらに餞別まで渡してくれて、
「平和になったらまた来いよ」
と言って手を振ってくれたこと。
天津から佐世保港に戻り、
その後引揚列車で北海道の地の果て知床まで戻ったときは
4年間の外地生活で雪の上の歩き方を忘れ、フワフワして頼りなかったこと。
しかし、生家の近くまでたどり着くと
体が勝手に走り出して、家の玄関まで一気に駆け込んだが、
「ただいま」
と言ったのに、声が小さくて誰も出てきてくれなかったことなど。
母や父にとって、
故国は紛れもなく日本だ。
引揚者であることで、後ろ指を指されたこともあるそうだが、
(人が苦労して帰ってきたのに、なぜこそこそ言われなければならないか!)
と、腹を立てながらも、生活を立て直すことに必死になって、
気が付けば戦後何十年も経っていた。
母は、亡くなる2週間前まで
「中国の人たちに餞別のお返しがしたいんだ」
と言っていた。

かたや帰国者の人たちにとって日本という国はどうなのだろう。
もちろん故国への帰還は多くの中国残留邦人の強い願いだった。
しかし、あまりにも長い年月を経ての帰国で、壁は厚く、高くそびえ立ってしまった。
「私たちは日本語が話せない日本人です」
と自嘲気味に語った帰国者もいた。
言葉だけではない。
中国と日本では、生活習慣も、自分を表現する方法も、
真逆のように異なることが多い。
「故国」というより「異国」と思う日があって当然だ。

私もアメリカでの1年間、中国での2年間の生活は、
日本での暮らしのように
なんでも自分でさっさとすることもできず、
人とのコミュニケーションも誤解と摩擦と勘違いの連続だった。
いつかは慣れると思わなければ、永住は難しいだろう。

西井澄さんが、
解放文学賞佳作に入賞し、
800字の「喜びの言葉」を書きながら、
誰にも推敲してくれるように頼めなかったことを聞いたとき、
私は最初(西井さん、なんて水くさい…。誰でもそれぐらいすぐにしてあげられるのに…)
と、かなりガッカリした。
「帰国者の友」が周りにいるのに、と。
しかし、西井さん自身ももちろん悔しいはずだ。
中国でなら、こんな残念なことにはならなかっただろう。
中国帰国者が日本で、自分の思うようにさっさと動き、
頼みごとができる友達を周囲でつくるには、
あと何年かかるのだろう。

帰国者と引揚者の決定的違いは、
単に帰国の時期だけのことではない。
時期の遅れが引き起こした、あまりにも多くの壁に立ち向かわなければならないという
事実があるということだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする