毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「竹中平蔵元大臣『年取ったら国に養ってもらおうなどと思うな』」No.1664

2016-05-11 09:34:52 | 人間

 自分が小泉内閣の大臣だったとき、そんなことは一切言わなかった竹中平蔵が

そもそも日本人は社会保障に対して誤解を持っています。

90歳まで生きようと思ったら90歳になるまでの分お金を貯めておかないとだめなんですよ。

年金というのは、90歳まで生きようとしてお金貯めていた人が100歳まで生きちゃったというリスク

のための保険なんですよ。これ常識だと思うんですが、

日本では常識的なこと言うとバッシングされたりするんですよね。」

と、言いたい放題です。

しかし、老齢年金について政府はこのような説明したことがあったでしょうか。

私は寡聞にして知りませんでしたよ。

年金支給開始年齢を上げようとしていたのは知っていますけどね。

90歳までの分、自分でお金を貯めて置けとか言われたら、

皆さんどうします?

竹中平蔵や新自由主義経済でぼろ儲けしている数%の人たちはno problemでしょう。

しかし、非正規雇用の平均所得は年間250~300万円と言われています。

それ未満の人たちもたっくさんいます(私も含め)。

その微々たる収入の中から90歳までの分を貯蓄するとなると、

家計は超引き締めなければなりません。

のんびり買い物なんかしている場合じゃありませんよね。

野山に入り野草を取りて、よろずのことに使ひけりとかしてたんじゃ、

日本の景気は上向きますかっての。

竹中平蔵と言えば、年金未納していたことでも有名ですよね。

このヒトに言われたら異常にムカつくんですけど。

下のニュース、竹中平蔵の言葉と合わせて読むと、

はらわた煮えくり返る思いです。

『揺りかごから墓場まで』とは、我が国が英国から学んだ社会保障の理念だと

私は中学校や高校で習いました

政府は方針転換したいなら、国民にはっきりそう言って、信を問えばいいんです。

ひっそりコッソリ変えていくそのセコ技、善良な国民は気がつかへんし。

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全盲の92歳夫と無理心中か

87歳妻「じいじ、ごめん」2016/5/10 21:07共同通信47ニュース

 10日午後0時10分ごろ、東京都町田市成瀬の都営アパートで、

無職男性(92)がベッドであおむけに倒れ、妻(87)がベランダで首をつっているのを

長男(66)が発見し110番、2人とも死亡が確認された。

 町田署によると、夫婦は2人暮らし。

夫は全盲で足が不自由な上、軽度の認知症を患っており、妻が介護していた。

室内には「じいじ、ごめんなさい」と書かれた遺書があり、

町田署は介護に疲れた妻が無理心中を図ったとみている。

 遺書には他に

「堪忍。早く楽になろうね」

「じいじ、助けてあげられなくてごめんなさい。ばあばと一緒にあの世に行きましょう」

などと書かれていた。

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「一生涯農民だった一人の中国人」No.1663

2016-05-11 06:38:17 | 人間

 

北京の大学院に行っている周文毓さんのお祖父さんが亡くなりました。

植物の種を買って帰ろうとした時の事故だったそうです。

私はこのお祖父さんの作った蜂蜜を2種類いただいたことがあります。

写真の顔、農民の顔はみんな似てくるんですね。

生活が作った顔です。

同じく、一生涯農民だった我が父、我が母を思い出します。

下は周文毓さんが綴るお祖父さんの姿です。

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三週間前、祖父(父の父)が交通事故でなくなりました。

祖父は一生涯農民で、70歳過ぎても、体はとても丈夫でした。

山の奥の村に暮らしていて、稲田、竹林、蜜柑の木の林、栗の木、

3つの養魚池と野菜畑を持っていて、20箱の蜜蜂、たくさんの鶏と犬を飼っています。

今年、西瓜も植えはじめていました。

祖父は亡くなった日も、植物の種を買いに行きました。

今は誰もその植物と動物たちの世話をしてくれる人はいません。

祖父は買い物後、電動自転車で農業交易市場から出てきた時、

あるセメントを運ぶトラックのローラーに轢かれました。

死に様はあんまりひどかったので、父は今でも受け入れられません。

私に祖母(父の母)はいません。いませんと言っても、死んだのではありません。

若い時に祖父と離婚したのです。

毛沢東の時代、祖父は富農で、出身はよくないでした。

祖母の弟は軍隊に入りたくて、でもその時、親戚に出身がよくない人がいれば、

兵隊に成れませんでした。

だから、祖母は「弟を兵隊にさせるために」、

それを言い訳として、祖父と離婚しました。

父は五人兄弟で、四人の男の子と一人の女の子です。

祖母は五人の子供を全部祖父のところに捨て置きました。

五十年弱の間、一度も帰って見ることも、世話をすることもありませんでした。

だから、その離婚の理由を「言い訳」と言っています。

祖母は離婚した間もなく、他の男と結婚しました。

もう一人の娘を産みました。

しかし、祖父は子供たちのために、それから再び結婚したことはありませんでした。

それでも一人で五人の子供をとても育てられなくて、

仕方がなく、父の一番年下の弟(つまり私の叔父)を他の人に養子として譲りました。

その叔父も今家族ができて、高校生の娘一人を持っています。

叔父は昔ずっと祖父を恨んでいましたが、

二、三年前、ようやく心から祖父を許してあげました。

多分自分が親になって、初めて親心がわかったかな。

祖父は生前ずっと言っていて、

「たとえ相手の経済条件が自分と同じとしても、子供を譲らなかった。

相手が自分より豊かだから、子供を幸せにさせたいから譲ったんだ。」

毎回言っている時、涙を流します。

祖父に関する話は、全部母方の祖母から聞きました。

祖父は自分の身の上に関することは一度も私に言ってくれませんでした。

祖父の葬式の時、私は生涯初めて噂の祖母に会いました。

祖母は誰からこの情報を知ったのかも分かりませんが、自発的に葬式に来ました。

子供たちは誰もこの母親を認めませんでした。

そのババも自分の子供たちを他人の紹介で初めて分かりました。

祖母は今の暮らしもよくないです。

だから二三年前、祖父のそばに戻ってきたがっていましたが、

祖父は子供たちにこう言いました。

「誰かこの母親を認めるなら、私を認めないということだ」と。


だから、葬式も来させたくないです。

多分祖母はこのチャンスを利用して、子供たちと仲直りしようと思っているでしょう。

でも、それは祖父に不公平です。

だから祖母が来た時、叔母(祖父の娘)は祖父の墓の前で

泣きながら祖父の許しを求めていました。

生母の来るのを止められなくてごめんなさいって。


祖父はとても偉い人だと思います。父も、小さい時からいろいろありました。

思わずこんなにいっぱい話しました。
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