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Brugge Style
イネスの「パリジャン・シック」を考え直す
元祖スーパーモデルのイネス・ドゥ・ラ・フレサンジュが書いた本、"Parisian Chic - a style guide by Ines de la Fressange"について、先々月このように書いたが、九鬼周造の「「いき」の構造」を読み直したらば、どうもわたしが間違えているようなので訂正したい。
早速冒頭。
「「いき」という語は各国語のうちに見出されるという普遍性を備えたものであろうか。我々はまずそれを調べてみなければならない。そうして、もし「いき」という語が我が国語にのみ存するものであるとしたならば、「いき」は特殊の民族性をもった意味であることになる。」(岩波文庫 P11)
「すなわち「いき」を単に種概念として取り扱って、それを包括する類概念の普遍を向観する「本質的直観」を索めてはならない。」(P18)
「いき」というのは日本語にしかない特殊な民族性を持った美的概念である。
日本語にしかない概念なので、他の言語にも同等の概念があると考えてはならない。
「いき」の本質は目の前に「はい、これ」と、取り出せるものではないのである。「いき」とは何かと問われたら、「現実をありのままに把握」(P7 序文)し、現実をそのまま提出しなければならないのである。
だから「「いき」の構造」には、何がいきで何がいきでないかという事例がたくさんあげられている。
わたしはこの事例を読むのが大好きなのだが、例えば、
抜き衣紋がいき/ローブデコルテが野暮、淡白な味がいき/濃厚な味が野暮、湯上がり姿がいき、略式の髪や薄化粧がいき、柳腰がいき、裸足がいき、赤系統の温色よりも青中心の冷色の方がいきで...
しかし、これらの事例を応用したり、これらの事象から本質が抽出できるかといえばできない、のである。「普遍を向観する「本質的直観」を索めてはならない」のだ。
ということは、イネスがイネス本の中で、
ジーンズにスニーカーが野暮/ラインストーン付きサンダルがシック、タイトスカートにハイヒールが野暮/バレエシューズがシック、パールネックレスにシフトドレスは野暮/ロックなTシャツがシック...
などとたくさん羅列してみせるのは、シックは「本質」として見せられるものではなく、事例の羅列でしか示すことのできないものだということが良くわかっているから...
とサポートして差し上げることもできるのである(そんな筋合いはないが・笑)。
つまり、わたしが前の記事に、たしかにイネスが提唱するパリジャンの着こなしやモノの選び方はシックだと思うが、それが似合わないような人間はどうしたらいいのだ、イネスが言っていることは絵に描いた餅でしかない(だから余計にうらやましい)、パリジャンシックな着こなしが似合わないような人間にこそシックな着こなしのフォーミュラを教えてくれるのが美的感覚に恵まれた人の課題ではないのか、などと書いたのはめちゃくちゃ的外れ(野暮!)であったのである。
ま、たしかに「「いき」の構造」を読んだら、いきの本質をつかむことができ、今日からあなたも「いき」な人になれるわけではないのである。
「パリジャン・シック」を読んだから、今日からわたしも「シック」な人になれるわけではない。
「シック」もまた、フランス語にしかない特殊な民族性を持った美的概念なのだろう。
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