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「本当の自分」を求めて




「"いじられキャラ""おたくキャラ""天然キャラ""毒舌キャラ"など、他人から認知されているこうした「キャラ設定」と、自分が「本当は」こうだと思っている人格との間に「ズレ」が生じているというのです。
 
 しかし、どうして彼ら・彼女らはこのような「ズレ」を受け入れてしまうのか。斎藤さんは「キャラを演じているにすぎないという自覚が、かえってキャラの背後にある『本当の自分』の存在を信じさせ、また保護さえしてくれる」からだと言います。要するに、若者たちにとって「キャラ」とは、自分を偽るものではなく、あくまで守るものとして機能しているのです。そして、あまりにそのギャップが大き過ぎると、「本当の自分」がわからなくなってしまい、演じ続けることに疲れてしまうというわけです。

 しかし、彼ら・彼女らは「キャラ」を演じてまで守ろうとする肝心の「本当の自分」について、「よくわからない」としか答えられません。何とも皮肉な話ですが、今の若者たちは自分自身を守ろうとすればするほどそこから遠ざかり、ますます「本当の自分」を見失ってしまうのです。」(6/2のアメーバニュース 若者に広がる「キャラ疲れ」とは? ウェッブ本の雑誌 から一部抜粋)



「自分」「自分」「自分」。若いとはこういうことで悩むこと、なのだ。


上の記事で精神科医の斎藤先生がおっしゃることと、専業主婦のわたしがこのブログで言うことのどちらに信憑性があるかというと、絶対に斎藤先生のおっしゃることに決まっているだろうが、斎藤先生少し違うと思います、と勇気を出して書く。


ずばり、彼ら彼女が疲れるのは、ギャップの大きいキャラを演じ続けているからではなく、絶えず身近な他人(つまり友だち)からの承認を取りつけなくてはならないからである。


「本当の自分探し」という魅惑的な言葉が世間に行き渡り始めたのはわたしの若い頃であった。
懐かしい。
ストレートに言うと、その魅惑的な言葉も、さらなる消費を促すための広告代理店的悪知恵にすぎなかったのだけれど。


「本当の自分」というものはダイヤの原石か美しい花の種のように個々人に生まれつき備わっているものではない。
自分の内面をいくらのぞきこんでも、外国を旅しても、転職を繰り返しても、座禅を組んでも、資格を取っても、恋愛をしても、そんなものは見つからない(だから彼ら・彼女らが、「本当の自分」について、「よくわからない」のは当たり前)。

人間とは社会的な生き物であり、「自分」とは、社会と関係を結ぶなかでその都度作り出されるものなのである。

つまり、(ゴッフマンが言うように)人間は社会の中の様々な場面で、常に「キャラ」を演じ分けながら生きているのが普通なのだ。


その普通のことが疲れるというのは、「本当の自分でない」自分を四六時中演じなければならないからではない。
自己評価に客観的な根拠を与えてくれる「社会」(イコール一般的な他者)を内面化していないために、身近な他人(友だち)からの承認を四六時中必要とするからである。

身近な他人(友だち)から承認を得るために過剰に配慮し、気を使い、空気を読む...そりゃあしんどいでしょうな。この他人への配慮が、他人を思ってのことではなく完全に自分のためであることに注目。
そんなにびくびくしていては、キャラを演じていないありのままの「本当の自分」が傷つきやすいと感じるはずだ。


これらのことは、社会を内面化しないまま、個性的であれと幼い時から煽られてきた結果(公共の場所でごく私的な行為をして平気な若者も、キラキラネームを選ぶ親も同じこと)だと言えばいいだろうか。
だからまあ、大人の責任である。


もし、若い人の間で「キャラを演じる」ことがそんなに負担に感じられているのなら、わたしは彼らに「本当の自分」などない、と正直に伝えるべきだと思う。

子どもの夢を壊すのか、と怒る人がいるかもしれないが、大きな夢や希望は、自己実現した時の「本当の自分」が実現することではなく、適所、適時の適当なキャラが、社会的な承認によって実現するものなのだ。

夢を見るのはいい。そして夢はクールに見た方が実現しやすいのである。

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