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ケンウッド・ハウス、初春。




わが家では毎年初詣の代わりに美術館へ行く。
旅先でもほとんど必ず行く。

もちろん美術館詣が初詣の代わりになるわけはない。しかしこっちには大好きな神社がないので仕方がない(え、教会へ行けと? ごもっとも)。

美術館には、ありがたい教訓がちりばめられていたり、キリストや聖人の自己犠牲的な一生が描かれていたりの名画がたくさんある。また、天国の絵もある。希望の満ちているものも、人生の儚さを現わしたものもあり、個人的には悪い代替案ではないと思っている。

そして、何より、世界中のどこの美術館/博物館ででも、人間が繰り返し飽きることなく描き続けるテーマがあるということに改めて気づかされる。繰り返し描かれるのは、当然そのテーマが人間にとって重要だからである。同時に、未だこの世のどんな優れた表現者をもってしても現わすことができないため、芸術家はわれこそはとそのテーマに挑むのである。

繰り返し描かれながらも誰も現わしたことがない「もの」、それをわれわれは「神」、「真」と呼ぶ。


今年は旅行から戻って来てから娘を終了間近のレンブラント展(ナショナル・ギャラリー)に連れて行くことで始まった。
ところがその混み具合といったら前回行った2回をしのぐほどで、名画を前に新年を寿ぐどころではなかったのだ。

仕切り直しがしたく、改装が終わってからまだ一度も行っていなかったケンウッド・ハウスに行った。普段、わが家からはなかなか行きにくい位置にあるのだ。

人けの少ない静かな館の中は、急に変わっていく初春の午後の光の中にもうすでに沈みつつある。
入り口では暖炉が燃えている。

レンブラントの自画像は、ナショナル・ギャラリーの展覧会へ貸し出し中で留守だったが、代わりに「アナと盲目のトビト」「エルサレム破壊を嘆くエレミア」(写真左上)が展示されていた。

苦境にあって人はどのような態度をとるか...暗さの中に得も言えぬ明るさがあり、新春に見る絵画としてふさわしいような気がした。


優れた絵画(わたし大好きフェルメール(右)もある)、そしてケンウッド・ハウスの建つハムステッド・ヒースの豊かな緑、その中を転げ回る子供や、尾をもげるほど振って愛想をふりまく犬を見ていると、この世にはたしかに芸術家の求める「何か」があるのだ、と思わずにはいられなかった。

いい一年になるといいなあ。
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