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Brugge Style
「オネーギン」リハーサル
痛恨のミス!
今日から始まるロイヤル・バレエの"Onegin"、ナタリア・オシポヴァ(Natalia Osipova)が踊る日のチケットが一枚も取れていなかった...なぜなのかもう思い出すこともできない。自分のスケジュール管理の甘さが恨めしい。何がそんなに他に気を取られることがあったのだろうか。
ので、リハーサル(リハーサルはあまり好きではないのだ)がオシポヴァかも...の淡い期待を抱いて行って来た(ラッキー、オシポヴァだった)。
オシポヴァの演ずるロシアの田舎娘の魅力的なこと!
プリンスと結婚してプリンセス・タチアナになった時、もっと派手でも良かったかもしれない...しかし感情を押さえた優雅さは、悲しい恋を忘れることができない女の表現としては、かなり洞察に富んでいると思った。
優雅といえば、オシポヴァはロイヤル・バレエに来てから、どんどん洗練されて行くような気がする。人生経験的なもがあるにしても、大ファンとしてはこの変化を見るのが本当に喜びなのである。
マシュー・ゴルディング(Matthew Golding)はオネーギンのイヤミったらしいところがハマっていた。この方、近くで見たらブラッド・ピットに似たタイプで、おまけに立っているだけで非常に麗しい男前なのだ。
鏡のシーンは特に秀逸。
ダラダラと長くないところも良い、美しい作品だ。
......
「オネーギン」は、プーシキンの「エヴゲニー・オネーギン」を原作にした物語バレエだ。
ロシアは、ルネサンスにも宗教改革にも洗礼を受けなかった非ヨーロッパの辺境で、中世的な教会システムに抑圧されていたためか、芸術の花が咲くのは19世紀まで待たねばならない。
19世紀になるとまるで抑圧の弁がはずれ、たまりにたまった鬱積を糧にしたかのように文学、音楽、絵画に大輪の花が咲く。
わたしはもっと若い頃、とにかく19世紀のロシア文学が好きだったが、それはあの当時のロシアの有閑階級の有閑っぷり(わが愛するツルゲーネフには退屈した人々がたくさん出てくる)に憧れたのだ。まあ自分が農奴だったらと考えたらぞっとするのだが。
とにかくオネーギンも退屈した青年の一人だ。
洗練された容姿、影があるところ、知性的で皮肉なところがいいのか、若い女性にはたいそうもてるだろう。
しかし、根っから善良で単純で、社会に恨み言のない男が好きなわたしに言わせたら、悪い男になれない「ちょいワル男」、これはタチが悪い!
一方でタチアナはあの年頃にはよくある恋愛小説に夢中になった少女で、いつか自分もそんな恋愛をするのであると夢見る田舎娘である。
恋愛の準備ができている少女の前に、オネーギンみたいなちょいワル男が現れたらひとたまりもないですぜ!
オネーギンの服装は黒づくめで、それは彼の心の固さを現わしている。
最初の出会いから十何年後かに大人の女になったタチアナと再会した時に、彼は初めて心を開くが、その時はまるで彼の黒い服が薔薇色に染まっていくような気さえした...
しかしそこで衣装を着替えたりしないのは、彼の心が薔薇色に染まるのはほんの一瞬で、タチアナに拒絶され、また元の黒い姿に戻り、これまでよりも一層固く暗く心を閉ざして行くから(大人になれよ!)である...
...バレエのオネーギンは一貫してそういう人物(タチアナのラブレターを彼女の目の前で嘲笑と共に破り捨てるような)、一方、プーシキンの原作ではオネーギンはもっと「何を欲しているのか自分が全然分からない男」(<もちろん退屈のあまりである!)として描かれていると思う。
その分、プーシキンの原作の方が優れているとは思った。
(まだネットに写真が一枚も上がっていないのでコジョカル(Alina Cojocaru)の版を選んだ。コジョカルのタチアナもさぞ芸術的なことだろう。こちらはThe Guardianから)
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