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madam butterfly



アンコールで深々とお辞儀をする黒衣。



イングリッシュ・ナショナル・オペラでプッチーニの『蝶々夫人』を公演している。

先日、『蝶々夫人』リハーサルを見て、いくら現代風に書換えようが、自分はこのオリエンタリズムに彩られた話が根本的に気にくわないので、本番は見に行かないと断言したのだったが(笑)、会場一いい席が取れたので娘と一緒に見に行った。

フェミニストであることが当たり前の世代の娘と#MeTooで盛り上がって憂さ晴らしをしようとしていたのである。


先に書いておくが、リハーサルの時よりもアーティスティックな面では数倍優れていたと思う。
細かなあれこれを気にしないで観覧すれば、蝶々夫人役のNatalya Romaniwの菩薩のような凛凛しく豊かな声、 女中・鈴木役のStephanie Windsor-Lewisの説得力ある演技力! すばらしかったです。

誇り、裏切り、悲嘆、愛、慈悲、希望をなくした人間はどう振る舞うかといった人生の要素の表現を賞賛して終われない、この『蝶々夫人』という作品よ...


最初のインターバルで娘は言った。
独善的で幼稚で野蛮で厚顔無恥に描かれているのは「アメリカ」=「男性」で、それが誰の目にも明らかであるから腹は立たない。

着物の極彩色や日本語単語の不正確さ、習慣や作法などの誤解など、細部への不満はあげたらきりがない。
確かに過去に創作されたオペラとして、「日本」=「女性」に対する時代的な差別背景はある。が、蝶々さんは従順的ではなく、むしろ主体性を持ってはいまいか、と。

それはそうだが、男性優位の文化イデオロギー内での話にすぎないのよ...と母は言う。
娘は、「ママ...これはオペラだよ」と。
その通りだけど...


わたしは急進的なフェミニストが、白雪姫を、眠れる森の美女を、シンデレラを、王子様の到来を待っているだけの受け身で主体性がない女と批判することに対しては毎度、鼻白んでいる。
書かれた時代背景込みで楽しみ、「なぜそのように語られてきたか」をむしろ楽しむべきである。それは古典バレエが三度の飯より好きなわたしにはよっく分かっている。

『蝶々夫人』を見てわたしが感じる憤りは、白雪姫やオーロラ姫には自分で人生を切り開く主体性がないから女児には見せるなという怒りと同じなのか?

何が私をそんなにムカムカさせるのだろう。

分からないから書き出してみた。

日本の社会、文化、言語の描写が正確ではなく、正しく描こうという姿勢も見られず、無知で無邪気なオリエンタリズム丸出しである。しかも彼らは無反省である。
日本を未開で蒙昧で迷信深く、日本を人治国家で、人権もない国であると描いている(<これは事実かも・笑)。
日本女性を従順で名誉を重んじる、男性にとって便利な理想として描いている。

15歳の少女が100円で買われる。
少女は親族と絶縁することになり、改宗までする。
少女を「おもちゃ」と表現。
重婚どころか、「本当の妻」を連れて子供まで取り上げに来る。
男性は何かしらの責任を取るどころかセンチメンタルに泣いてみせて終わり。
女性は自殺。

まだあるかもしれない。


上野千鶴子だったと思うが、こんなことを言ったのをメモしていた。
「男性が男性として性的に主体化するために、女性への蔑視がアイデンティティの核に埋め込まれている、それがミソジニーだ」

男を「オクシデンタル」、女性を「オリエンタル」と読み替えてみても話は通じる。

つまり、『蝶々夫人』は二重に日本(東洋)と女性を蔑視し、西洋と男性が「距離のパトス」を設けているためにわたしは2倍腹がたつ...のだろうか。

もうちょっと考えてみよう。
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