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Brugge Style
la sylphide
イングリッシュ・ナショナル・バレエのLa Sylphide(Song of the Earthとの2本立て)を鑑賞。
「ラ・シルフィード」は、舞台がスコットランドで、登場人物がキルトを着ているのも特徴。端正で華やかだ。
音楽も振り付けもよく、ストーリーのテンポもよく、長さもちょうどよく、楽しく、美しく、悲しい。
シルフィードを演じたJurgita Droninaが、重さも実態もない無邪気で空しいシルフィードにぴったりだった。
結婚を前にした青年が、妖精シルフィードと恋仲になり、シルフィードを地上に縛るために魔女にもらったショールをかける。が、そのせいでシルフィードは飛べなくなり死なせてしまう。おまけに彼は婚約者にも逃げられる(当たりまえだ)...というお話だ。
大人になることを社会から要請されている青年の前に、この世のものではない美しい生き物が姿を現す。子供時代に決別して責任ある大人になるのか、とどまるのか...イニシエーションが投げかける永遠の問い。
鑑賞後、偶然聞いた車中のラジオで監督が「ファンタジーだが現実、現実だがファンタジーなお話を楽しんでほしい」と言っていたのが印象に残った。
(写真はENBから)
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白と黒の世界
ナショナル・ギャラリーで開催中のMonochrome: Painting in Black and White展へ行った夜、イングリッシュ・ナショナル・バレエのSong of Earth (La Sylphide との2本立て)を見た。
「モノクローム」展は、そのタイトル通り、展示物全てが白黒だ。
モノクロで描くのがごく普通なモダン・アートだけでなく、メムリンクやレンブラント、アングルらが描いた作品を通して、色のない絵画が、われわれが普通見ている世界からわれわれを引き剥がし、別の世界に解放するのを知ることが狙い。
白黒使いは
修道院の装飾の無彩色の世界は精神世界に集中するための試みであり、版画や彫刻に対抗するためであり、アーティストが技術を見せつけるためでもあり、意味を引き剥がして別の意味を与えるためであり、何かに隠されて見えないものを見せる手段である。
例えばわたしは、有名なアングルの「オダリスク」のモノクロ(おそらくアングルが弟子の訓練のために描いたもの)を見ることによって、その「奇妙さ」が際だっていると思った。
美しく色彩されたあの有名な「オダリスク」は、あの美しいオダリスクたり得るために、身体が異常に誇張されて描かれている(背骨から骨盤が長すぎる、左足がありえない角度であるなど)。アングルのこの大胆な計算はすばらしい効果を生んでいて、彼女はこの世のものではありえない優美さをたたえ、官能的に見える。
しかしモノクローム作品ではこの作品のグロテスクさが際立っていないか?
この白黒作品を、弟子のトレーニングのために描いたのならば、アングルはなるほど天才だ。
展覧会自体はちょっと渋すぎる感じがしてワクワクさは欠けるが、その夜、イングリッシュ・ナショナル・バレエのSong of the Earthを見た。
マーラーの楽曲に乗せて、女性と男性、その男性に取り付いた死神の3名を中心に構成されたケネス・マクミランの作品だ。
この衣装が、女性を生命の白、死神を死の黒、男性を両方に属する灰色で表現し、群舞は白黒と灰色。完全にモノクロームの世界。生まれて死ぬ、すべてを削ぎ落としたわれわれのナマの世界。
これは偶然ではないかも...
(写真はナショナル・ギャラリーから)
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modigliani@tate modern
先日、「初詣」の楽しみの話を書いたが、テイト・モダンの「モディリアーニ展」へ行ってきた。
わたしのような卑小な人間の想像なんぞはるかに超えたすばらしい作品の数々、ほんとうにいい展覧会だった。
どこから始めたらいいだろう?
セザンヌの影響を強く受けつつ、モディリアーニが自分のスタイルを確立した過程のおもしろさ。
彼が肖像画に瞳を書き込まないのは「彫刻」をやったからで、またブランクーシと交流、影響があったから(というのは知っていたが)。
彫刻を止めた理由は、素材の高価さ以外に、彼の極めた肖像画の特徴的な顔と鼻の形を再現するのには、2次元の方が手っ取り早かったからだろうという洞察。
そのモディリアーニの描く肖像の鼻が、どれもこれもむやみに長いのは表現上の誇張だろうと思っていたのだが、展覧会場の観覧者たちを見渡してみたら、なるほど、彼らの顔と鼻はこのようにも描けるのだなと納得。
心に残るいい肖像画はたくさんあった(というか全部)が、ジャン・コクトーを描き、その存在そのものをいかにも痛烈に風刺、コクトーに「僕には似てないがモディリアーニに似ている」と負け惜しみを言わせたという(右写真)。
痛快!
あの誰よりもプライドの高そうなコクトーが、自分自身をずばり言い当てられて平静さを失い、うろたえ、怒ったのが目に見えるようだ。
有名人ではピカソの肖像画もすばらしい。
有名なヌード群も、「モダン」な女性たちの「モダン」さの表現がすばらしかった。
ナショナル・ポートレイト・ギャラリーでやっている「セザンヌの肖像画展」と合わせて観覧したらもっとおもしろいこと間違いなし。
両方ともほんっとにおすすめです。
モディリアーニ、彼のファーストネームはアメデオといい、これは「神に愛された者」の意(モーツアルトもアマデウスですね)。まさにその通り!!
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les patineurs
日曜日、快晴、気温4度。
18世紀新古典主義建築のサマセット・ハウス、中庭のスケート・リンクへ。
Les Patineursというフレデリック・アシュトン作のバレエ小作品があり、
この登場人物はマフを持っていたり、毛皮の縁取りのボンネットやドレスでスケートをする。
19世紀後半から20世紀初頭の雰囲気が素敵。
今、そういうコスプレ服装限定の日があればおもしろいだろうなあと思った。
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初詣
ウェストミンスター・アビー
芸術は、アーティストの体というフィラメントを通して現れてくる
超自然の力ではないかと思うことがある。
同じように宗教建築物もそういうフィラメントだと思う。
(依り代?)
新年に服装を改め、超自然の力の前に立ち、礼を尽くす
人間として文化文明的な生活を送っている以上
避けられない行為なのではないかと感じる。
だから初詣として宗教施設に行く年もあれば、美術館に行く年もあり、
もし近所に神社があったら、もちろんそっちへ行くんですけどね...
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