河合隼雄さんの 『子どもと学校』 を読み返してみました。 15年前に書かれた本ですが、今にも通ずる課題を提示しています。
内容の一部を要約させて頂きます。
小学校4年生のB君。 いつもと違って、朝から落ち着きがない。 担任教師が質問しても、まったく答えられない。 うわの空である。 たまりかねた教師は、B君を教室の後ろに立たせた。 それでも様子は変わらない。 再度、質問しても何も答えられない。 後ろに立たせられながら、まだ授業に熱心になれないB君に、教師は腹を立てて、怒鳴りつけてしまった。
実は、B君の態度には原因があった。 その前日の夜、ふと目を覚ましたB君に、両親の口論が聞こえた。 そして、離婚にまで話がすすんでしまい、果てはB君の世話をお互いに押しつけ合っていることまで聞いてしまったのである。 彼がその日、まったくうわの空で過ごすことしかできなかったのは当然のことである。
このようなとき、いつもは比較的よくできるB君が授業に集中できずにいるとき、どうしてだろうかと疑問を持ち、「どうかしたの」 と問いかける心の余裕を教師が持てなかったところに課題がありそうです。
もちろん、教師の問いかけにB君は直ぐには秘密を打ち明けられなかったかも知れない。 しかし、両親の離婚話に続いて、教師からも 『悪い生徒』 という判断を下され、彼の心がいっそう深く傷つくことは避けられただろう。
この問題の本質は、教師の道徳的判断の有無ではない、と河合さんは続けます。 本質は道徳性そのもの、それはいかに生きるかに深く関連し、いかに生きるかということは、『生きる』 ことに対する 『畏敬』 の感情によって裏打ちされていなければならない。 いつもは良くできる生徒が、うわの空でいる。 それを 『悪い』 と判断する前に、そのような状態は果たして何を意味しているのか、何のあらわれなのだろうか、という態度をもって接してゆくことこそ、道徳性の本質にかかわるのではなかろうか。
これが、河合さんが言っていることです。 いかに生きるかということは、生きることへの畏敬の感情で裏打ちされるべきだ。 命の軽さを感じる事件が続く昨今こそ、噛みしめるべき言葉だと思います。
人気blogランキングへ ← クリックを御願いします。
ブログランキングに参加中です