戦没者の遺骨混りの土砂を辺野古埋立に使うことが問題となっている糸満市の熊野鉱山に隣接して「有川中将以下将兵自決の壕の碑」がある。碑の横に大きく開いた竪穴(ドリーネ。沖縄では「アブ」と言われる)では、1945年6月21日の未明、有川少将(死後、「中将」)、竹下高級副官らが、将兵らとともに自決した。牛島中将自決の前日である。
有川少将は、第62師団(石部隊)の歩兵第64旅団(石4281部隊)の師団長だった。1944年8月、中国から沖縄に転戦。翌年1月からは沢岻に移駐し、米軍を迎えた。5月に首里に撤退、6月には南部に敗走、6月12日から米須の陣地に。6月20日に最後の切込みをした後、将兵らと自決したという。ここで自決した兵士の数は分からないが、20日の夜に自決を決めた際は有川以下、10数名いたという(以上は、『陸軍中将 有川圭一小伝』より)。
2月10日のブログでも説明したが、碑から少し奥に入ったところにも、もう一つのアブがある。この2つはシーガーアブと呼ばれている。シーガーアブには、当時、兵士だけではなく住民らも避難していた。7家族が石油を投げ込まれて米軍に焼き殺されたという証言もある。この奥のアブでも、軍靴や薬莢、ガスマスク等も見つかっており、ここにも兵士たちはいた。
開発業者は最近、「シーガーアブは壊さない」と言っているようだが、奥のアブは今回の開発の伐採届の範囲に含まれている。当初は開発予定地に入っていたことは明らかである。
(有川中将。下の『小伝』より)
具志堅さんがハンストをしている時、多くの方が県民広場に集まってきた。そのうちの一人(Aさん)が興味深い話をしてくれた。
「有川中将以下将兵自決の壕の碑」とシーガーアブには、自衛官らが定期的に参拝に来ている。以前、Aさんたちが碑とアブの清掃活動をしたそうだが、その直後、自衛隊からお礼の電話があったという。
熊野鉱山開発により、自衛官が定期的に参拝していたアブが壊されるかもしれないのだ。防衛局としても認められるはずはないだろう。
(有川中将以下将兵自決の壕の碑。すぐ左に大きなアブがある)
<追記>『大東亜戦争 戦没将官列伝(陸軍・戦死編)』(伊藤禎著)
その後、有川中将のことを書いた本が国立国会図書館にあることが分かった。伊波洋一さんの事務所の方にお願いしてコピーを送っていただいた。
この本には5頁にわたって有川中将のことが書かれている。
「有川は鹿児島の出身、斗酒なお辞せず、辺幅を飾らぬ薩摩隼人であったと伝えられている。--- 有川の最期ははっきりしていない。21日、米須の旅団司令部壕において自決したと推定されているが、最期を見届けたものはいない。また、喜屋武半島に撤退してからの有川等第64旅団の活躍振りは戦死にもほとんど現れてこない。いささか寂しい死だったようである」
「有川は牛島軍司令官とは同郷、うちとけた遠慮のない間柄だったようで、---(『沖縄決戦』八原博通)。もっともこうした有川の態度は、師団首脳部にとって、軍司令官との同郷の誼を鼻にかけると受け止められ、また作戦面での失態もあったことから、兄弟旅団の第63師団に比し評価が低かったとも伝えられている」