リモン峠からビリヤバ経由でレイテの西北部・サンイシドロに向かった。今回の目的の一つがサンイシドロの港に、今も日本軍の艦船のマストが見えるかどうか確かめることだった。
ビリヤバに入ると正面にブガブガ山が見えた。レイテ戦の最終段階、米軍に追われた日本軍は、ただひたすらこの山を目指して死の彷徨を続けた。レイテにおける日本軍が壊滅したところだ。
当時、日本兵たちはこの山をカンキポット山と称し、さらにそれを言いかえて「歓喜峰」と呼んでいた。大岡昇平は『レイテ戦記』で、この山のことを次のように記している。
「山そのものはいかにも歓喜峰の名にふさわしい山容を持っていた。頂上の東側と西側は比高70mの、そぎとったような岩壁になっていて、紫藍の岩壁が朝焼け夕焼けに赤く染まった。付近の低山の間に屹立して、遠くからもよく見えた。原隊を追及する敗兵は、あそこまで行けば友軍がいると勇気づけられ、そり立つ岩の頂上を見つめながら足を運んだ。」
この周辺だけでも約1万人、日米の激戦地だったレイテ中央部のレモン峠からこの山にいたる一帯では、3万人もの日本兵たちが死んだという。
当時、レイテ島に投入された日本軍の総兵力は8万4千人。しかし、生還者はわずか2,500人にすぎなかった。京都の第16師団が最も多く、1万8千人が投入されたが、生還者は、戦後、サマール島で降伏した150人を入れても、わずか580名という。(『レイテ戦記』)
戦争末期、すでに「棄兵の師団」(『防人の詩』)と化した第16師団は、最期に、師団長牧野中将以下、約200名がレイテ中央山陵を越えてブガブガ山を目指したことが分かっている。しかし、彼らがブガブガ山にたどりついたという記録はない。
私は、2007年2月、この山の山頂を踏んでいる。
(ブガブガ山 山頂部)
(サン・イシドロの港)
1944年12月、レイテ西部のオルモク港が米軍におちたため、マニラから物資補給に向かった第68師団はレイテ西北部のサン・イシドロに上陸しようとした。「赤城山丸」「白馬丸」「第五真盛丸」「日洋丸」、輸送艦「第11号」の5隻。
しかし、ここでも米軍の空襲により、5隻全てが沈没し、日本軍は武器、食糧の大部分を失った。68旅団は闘う前から戦力を喪失した部隊となってしまった。つい最近まで、干潮時には、港入口に沈船のマストが2本、海面に露出していたという。今回のサンイシドロ行は、今も何か見えるのか確かめることだった。
(サン・イシドロの町長・アランさん)
干潮時を確かめ、すぐに港に行ったが何も見えない。ちょうど漁師たちが戻ってきたので聞いたが、数年前に撤去され、今はもうないという。詳しい事情を聴くため、町長を訪ねた。
町長は、アランさんという中国人。彼の話によると、沈んだ船は5隻。15年ほど前に引き上げられたとのこと。さらに2年前にも残った部分が引き上げられた。自宅に、昔からのアルバムがあるので、船や引き上げ時の写真がないかどうか、探してくれるという。
町長の家は、1926年築。戦争当時、日本軍が接収していたという。今も柱に銃撃の跡が残っている。壁には、日本軍の38式銃が展示されていた。
また、隣の小学校からは、戦後、日本兵の骨が大量に出てきたという。