3月4日(木)、具志堅隆松さんのハンストは4日目に入った。具志堅さんは一見元気そうだが、もともと細い方が、さらに細くなってきたようで少し気になる。まわりの支援者たちも疲れの色が目立ってきた。具志堅さんは、毎日、医者の診断を受けてもらっているが、今後、気をつけていきたい。
日ごとに県庁前広場の座込みテントを訪れる人が増えてきている。具志堅さんの必死の訴えは、確実に沖縄の人々の熱い共感を呼んでいる。
今朝は、日本外国特派員協会のWEBでの記者会見に具志堅さんと参加した。ダグラス・ラミスさんのお世話で実現したものだ。
・外国特派員協会での記者会見(2021.3.4 ユーチューブ映像)
会見のテーマは、「辺野古埋立を止めるためのハンガーストライキ」となっていたが、具志堅さんは、「これは辺野古に賛成か反対かという問題ではなく、あくまでも人道上の問題です」と強調された。ラミスさんも、「良かった、外国の特派員らにうまく伝わったと思う」と言ってくれたのでほっとした。
会見終了後、座込みテントでの集会に合流。今日も、「具志堅さんが頑張っておられるので、どうしても来ようと思いました」と言う、戦争体験を持つお年寄りが来られている。「叔父は南部で亡くなったのですが、骨壺には石が入っているだけです」と言われる方は多い。
今日は、辺野古の島袋ふみ子さんの訴えの後、やはり91歳のYさんがマイクを持って静かに話し始めた。
Yさんは当時15歳、今回の熊野鉱山にも近いマヤーアブに避難されていたという。「マヤーアブは住民らの避難壕だったが,後に日本兵が移動してきて、住民を管理下に置いた。住民を追い出したり,食糧を強奪したり,更には住民を虐殺したという証言もある。米軍に発見され爆雷を投げつけられて入口付近にいた日本兵約50名が戦死したという。住民らはそれを機に、壕から出て米軍に保護された」(『沖縄の戦跡ブック』)。
Yさんは当時ことを、「壕から出るとまわりは死体の山で、大変なにおいが立ち込めていました」と生々しく語られた。
Yさんは、その後、米須に戻った後、畑から遺骨を集めて魂魄の塔に運んだという。「身体の骨は5体分あるのに、頭は2つしかないものもありました。きっと爆撃で頭がふっとんで、そのあたりに飛び散ったのです。今回、問題となっている場所には、今も遺骨が残っています。付近の土には、戦没者の血、肉、そして骨が残っているのです。そんな土を持ちだすことは許せない。人間として絶対に許せません。」
戦争体験者たちが具志堅さんのハンスト現場に集まり、それぞれの戦争体験を語り始めている。具志堅さんの決死の訴えは、多くの県民の熱い共感を集めているのだ。
午後は、報道特集の金平さんが取材に来られたので、糸満へ行き、熊野鉱山を案内した。
今日も県議会本会議の一般質問では4名の与党県議がこの問題を取り上げた。夕刻から皆で本会議場に入り、具志堅さんたちと傍聴した。知事の答弁は先週末からほとんど前進していないが、ここまで大きな問題となってきた以上、知事は毅然と対応してくれると確信している。
(採掘現場(熊野鉱山)を取材する金平さん)