(普天間基地メインゲート前を県民らが封鎖した! 皆で歓声を上げる)
28日(金)、昨日の野蒿ゲート封鎖に続いて、今日は、とうとう普天間基地のメインゲートを県民の力で封鎖させ、ゲート前を8時間にわたって占拠した。普天間基地、始まって以来のことだ。マスコミも、「基地機能を止めることを目的に、復帰後最大の直接行動が巻き起こっている」、「民意の潮目は明らかに変わった。」(沖縄タイムス)と、県民らによる直接行動を意義あるもの評価している。
目取真俊さんも、ブログで次のように述べられている。
「100名ほどの人数でも、その気になればここまでできる。本気の市民が1000人が集まれば、普天間基地の全ゲートを封鎖して、人と物の出入りを完全にストップさせることが可能である。そうなればオスプレイをはじめ他の軍用機を飛ばすことはできない。住民が抵抗を強めて自由な使用ができなくなれば、米軍が沖縄に基地を置く最大のメリットが崩れるのだ。日本政府にいくら要請しても聞く耳を持たないのなら、もはや相手にする必要はない。日本政府がどれだけ引き留めようとしても、米軍が自ら沖縄を出ていくように、基地に対する直接的な行動を強めていけばいい。」
以下、今日の写真を掲載する。座り込みをして警察官の実力排除に会いながらの写真なので、カメラが混乱に巻き込まれないように、最も緊迫した際の写真は撮れなかったが、現場の雰囲気は分かってもらえるだろう。説明は、後日、追加していこう。
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午前7時からは、野蒿ゲート前で、県民大会実行委員会の集会が開かれた。昨日までは、横の芝生広場でしか集会ができなかったが、今日の集会は、昨日、県民らが身体を張ってかちとったゲート前道路で開催された。
県会議長、那覇市長、国会議員、各市町村長らが挨拶。ゲート前で県民大会実行委員会の集会が3日続けて持たれた意義は大きいが、せめて、集会終了と同時に帰ってしまうのではなく、県民らが、身体をはった抗議行動を続けている現場にも顔を出してほしいものだ。(山内徳信さんが、たった一人、住民らの抗議行動に終日参加されていた。)
県民大会実行委員会の集会が終わり、午前8時から、封鎖させたゲート前での集会が始まった。Yさんが、「今日、このゲートに続き、メインゲートを封鎖する! さあ、大山ゲートに向かおう!」と高らかに闘争宣言。皆で拍手をして、さっそくメインゲートに向かった。
午前9時頃、メインゲートに移動し、横の歩道を少しデモをした後、ゲート前に突入した。
ゲート前での座り込みに成功!
午前11時頃から、2回にわたって、警察官による実力排除が始まった。座っているのはお年寄りが多いのだが、警察官は、スクラムを組んでいる県民らを腕づくで引きはがし、数人がかりで無理やり引き抜いていく。あちこちで怒号が湧き上がった。
排除されても、すぐに体制を立て直し、ゲート前に戻って座り込んだ。
基地内は、前に日本人警備員。後ろに海兵隊員らが並ぶ。
脳震盪を起こした女性。路上に倒れてしまったので、警察官らに「救急車を呼んでくれ」と頼んだが、彼らは無視し続けた。仕方なく、県民らが救急車を呼んだ。
他にも、警察官による実力行使により、一人の男性が救急車で病院へ。肋骨の骨折が疑われたが、ヒビで済んでよかった。肋骨にヒビが入った人はもう一人いたそうだ。
現場では、その後、警察官による2回目の実力行使が始まった。
台風のため風雨が強まり、ゲート前の座り込み現場には、雨よけのブルーシートが貼られた。
警察官らが再度の突入を狙っている。この雨の中、警察の実力行使が始まれば、いったいどんな大混乱になるだろう。皆の間に緊張が走る。そんな中、皆の緊張を解こうと、高里鈴与さんが、唄を歌いだした。
鈴与さんたちが、「東シナ海前に見て わしらが生きた土地がある」と歌いだすと、皆が続いて歌いだした。「一坪たりとも渡すまい」、1960年代後半の具志川村昆布の土地闘争から生まれた唄という。理不尽な米軍の強制接収に抵抗し、立ち上がった農民の決意が込められている。
この昆布の闘争から50年。力で押し通す米軍の姿勢は変わらない。そして今も日本政府は米軍に追従しているだけだ。皆、この唄を聞きながら、新たな闘志を掻き立てられたようだ。
午後6時半、台風接近のため、本日の行動はやむなく中止。台風通過後、再度、全力をあげてゲート前に集まろうと誓いあう。
警察官らの再三の実力行使に会い、硬いコンクリートの路上に長く座り込みを続けたせいか、夕刻からは、持病の腰痛が出て、本当に辛かった。最後まで頑張り続けた沖縄のお年寄りたちの元気さには感心するほかない。