2011年のお盆は特別な帰省となりました。
前回時間がなくて廻れなかった、どうしても見ておかなければならない場所へ。
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まずは「普代浜」
海岸線の国道を歩いている写真ですが、右手の木々の色が変っているのが見えますか?
津波は正面からあの高さまできていたのです。
自分の身長の10倍もの黒い波、恐ろしいです。
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浜の形はすっかり変っていました。
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あれから5ヶ月、ずいぶん片付いているようですが・・・。
ダンナが子供の頃良く遊んだ浜ではなくなっていました。
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海側から「普代水門 15.5m」を見た様子。
津波が来る前、浜からはあの水門ははっきり見えなかったのです。
がれきのあたりは一面松林、公営プールやキャンプ場がありました。
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今回手元の写真を探しましたが、案外撮っていなかったようです。
少ない中から何枚か懐かしい写真が出てきました。
これは約20年前の賑やかな海水浴場だった普代浜の写真。
海の青さはかわっていませんね。
続いて「太田名部漁港」へ。
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普代村は人的被害がほとんどなかったので、復興が早いように感じます。
漁港はちょっと見た目では普段と変らない感じにまで整備されていました。
ただ、食堂などは跡形もなく流され、公衆トイレだけがあの日のまま残されていました。
ここの食堂の「めかぶラーメン」美味しかったなぁ。
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これが和村村長が「明治津波以上の高さは絶対に譲れない」と築いた「15.5メートルの防潮堤」です。
城壁のようです。
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今まで昇ったことはありませんでした。
初めて昇ってみると、結構な傾斜だということがわかりました。
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この15.5mの防潮堤により、村は助かりました。
と言っても津波の高さや強さなど、ある程度の予測は出来ても”絶対”はないのです。
防潮堤が高かったから助かった、とは言い切れない思います。
たまたまこの海岸線に到達した津波の威力が、他の地域より小さかったから?地形の関係?
本当に色々な偶然で難を逃れたのだろうと思います。
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防潮堤から続く、神社へも昇ってみました。
こちらは更に急傾斜。思わず手すりにつかまりたくなるようですが、これだけの高さが海からすぐの場所にあれば、
逃げられる可能性は高いのでは?と思いました。
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あの日、どんな思いで皆さんここから津波を見ていたのか・・・
あの日のことを思い出して言葉がありません。
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(村の広報より)
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赤線の中が今回被害にあったエリアです。
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そして更に先へ進みます。
この辺りでは被害の大きかった隣村「田野畑村」へ。
矢印の左方向に希少価値の高い「机浜番屋群」がありました。今はもう跡形もありません。
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痛ましいです。
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海岸線に立つ「ホテル羅賀荘」も3階まで被害にあい、現在営業不能状態。
被災地域の雇用問題、生活再建問題等急がなければならないことがたくさんあると思います。
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あの穴が何か解りますか?
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三陸鉄道のトンネルです。北リアス線は久慈駅~宮古駅まで。
久慈方面は野田玉川駅周辺が津波で流出、あとはここ島越駅周辺が流出の為一部区間のみの運転となっています。
村民の足、車を持たない私達の大事な帰省の足はなくなり、平日2往復だけの代替バスしかありません。
ここ「島越駅」は駅舎ごと流されました。
黄色いラインが線路のあった場所、あの高さまで津波に襲われ橋げただけ残り、線路流出。
いかに想像を絶する巨大津波だったかを思い知らされます。
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在りし日の「島越駅」
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破壊された島の越漁港。
駅前の海岸で盆踊りや海水浴を楽しむ家族連れの姿が、つい先日のことのように思い出されました。
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最終日、宮古市田老町の防潮堤へ。
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万里の長城と言われていた防潮堤(10m)へ昇ってみました。
昇ってみると普代村のそれとは傾斜と高さが全く違う、という事を体感しました。
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巨大津波はこの防潮堤を乗り越えた。
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漁港側。
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車の山
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防潮堤内側の震災前
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震災後
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はためく国旗、「頑張ろう田老」の文字。
誰かが言ってた「爆撃を受けた戦後の焼け野原の様だ」
そうかもしれない、と思った。
地震の直後停電したので、津波警報や情報など知る手段もなかった人がほとんどなのでは、と思う。
そして”津波が来るかもしれない”と思っても、海岸線に近いところにいたらどうするのか?
高いところに避難、と頭で解っていても、実際20分以内に上がれる高台はどこにでもあるのだろうか?
今回、被災地域を歩いてみて逃げれることのほうが難しいのでは?と思った。
残念な結果になられた方々は本当に辛かっただろう・・・、と自然に込上げてくるものがありました。合掌。
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十数年ぶりに駅目指して歩いたら、どこが駅かわからなくて?
駅舎がなくなっていたのだった。
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在りし日の田老駅。津波は駅のホームも超えたみたい。
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駅舎はなくても、線路が通じているところだけ1日4本程度、三鉄が走ります。
ここで送ってくれた義弟にさよならして東京へ戻りました。
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真の辛さは断片的に見ただけの、よそから来た私たちには絶対に解らない。
ここに暮らす人たちにしか解らない、たった5ヶ月では癒える筈もない深い喪失感と悲しみ。
何か言葉にすると傷つけてしまいそうで、失礼なことを言ってしまいそうで上手く言葉に出来ないけど。
我々が考えるよりずっとずっと、皆さん辛くてたくさん我慢している。
結局ボランティアも何もできず、世話になってる岩手の人々に恩返しも出来なかったけど、
離れて暮らす私達も、せめて1ヶ月に一日でもいいから被災地に思いを寄せよう。
同じ空の下で生きてる、生かされていることに感謝しつつ。
一瞬にして日常がなくなるかもしれないのは、どこにいても一緒。次の一瞬は自分かもしれない。
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緑が多くて明るくて、海も空も青くて、美味しいものが一杯あって、人がみんな温かくて親切で。
にっぽんの故郷、大好きな三陸。
いつかまた、ここに活気が戻りますように。
皆さんの笑顔が見たいから、これからも地道な支援続けます。
おや、食うかいさんのお仕事、知りませんでした。
ボランティアをされてこられたのですね。
当時行かれてたらもっと大変でしたね。
写真を撮るのは私も考えてしまいました。
なんとなく・・・こそこそと。
でもここは主人の故郷なのと、私も20年以上前から通った場所なので、記録に残しておきたいという思いのほうが強かったです。
あたりまえですが、元気がないんです、北東北。
早く皆さんが希望を持って元気になれるようなルートを開拓したいですよね。
地道に支援・・・しか今は浮かばないけど。
ありがとうございました。
本当に言葉にするのは難しくて。
なにかを言えば軽々しいし、言葉を選べば自分の意見じゃないみたいにも思えるし・・・
はなねこさんの仰るとおり、私は元の風景を知っているから余計に感傷的になってしまうんですけどね。
みなさんとても辛抱強くて、自分のことより人の事を心配してくださる方ばかりで。
何も出来ない自分が、逆に元気をいただいてしまうことの方が多くてまた凹みます^_^;
私はあの土地の匂いがわかるから、より一層「あそこにいるのは私だったかもしれない」と思うのかもしれません。
年に1,2度しか訪れなくても、20年以上もお世話になれば第二の故郷。
うるさがられても(笑)話題にしますよー。
ありがとうございました。
いつもありがとう。
ヒサさんのようにみんな忘れてはいないとおもいます。
忘れられることでもないですしね。
地震以外にも今回は放射能汚染という問題もありますし。
首相が変わったら何か変わるのかな?
早く変わってほしいなー、と思います。
震災に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。
自分の職業柄、どうしてもこのようなことは気になります。
先日、自分は行けなかったのですが
職場の同僚が、多数南三陸町にボランティアとして赴きました。
ほんの一日ですが、廃棄物の仕分けをしてきたとのことでした。
復興の遅れているところで
被災者のことを思って、写真撮影はしないように言われて来たそうです。
確かにその通りです。
そんな悲しみ、苦しみ
沈む気持ちを差し引いても
つくづく海外メディアが報道しているように
我々の国民性を誇りたいと思います。
先日、紳士の国といわれるイギリスで起きたこと。
昨今話題のリビア情勢。
美しい風土が美しい人を育てていくのでしょうか・・・
写真は20年前のものを載せてくださってますね。
また20年後の景色を見るのが楽しみですね。
理屈っぽく
長くなってしまいました。
失礼しました。
慣れ親しんだ場所の変わりように言葉もないでしょうが
そこにいる方たちは、生きていかなければならないんですものね。
忘れずに、長い支援を!!
そして、しっかりとした今後の対策を!!
cyu2さん、こうして時々私たちに情報をください。
ここを訪れる方たちは、きっと応援してくれています。
>でも絶対に忘れちゃいけないことだから、これからも時々話題にします。
「私だったかもしれない」「次は私かもしれない」
ことなのだから、忘れちゃいけないのに忘れそう。
cyu2さんだからこそ届けることのできるレポ、
これからもよろしくお願いします。
あの日、起きたことを、
いま起こっていることを、
東北の人たちのことを、
東北の人たちを想うみんなのことを、
忘れたいけれど、忘れてはいけないことを、
絶対に忘れません。
コメントのしにくい記事にお言葉頂き、ありがとうございました。
私は出身者ではないので、出身のダンナが記事を書いたらまた違うものになっていたと思います。
こういう話題は本当に難しいですよね。
当事者が書くならまだしも、行って見てきただけの者の意見は、被災地の方達のお気持ちを考えると・・どう表現したらいいのか?
何度も書くのをやめようかとも悩みましたが、ダメなんですね、見て見ぬフリをして通り過ぎることが出来ない性分で^_^;
現実を自分なりに伝えたい、それを抑えることができないんです(ーー;)
hideさんの仰るとおり被災地以外では時間とともに忘れられようとしていますね、悲しいけど。
それに”十分解ってるからもう話題にしないで”的な空気もあります、私の回りでも。
でも絶対に忘れちゃいけないことだから、これからも時々話題にします。
こんな独りよがりの記事にありがとうなんてとんでもない!
こちらこそ温かいお気持ちに感謝です。
被災地に住んでいない者にとっては、
正直、時間が現実を忘れさせようとしていました。
在りし日の風景と重ねられると…
そこに人が生活していたとを再確認させられます。
この記事を公開してくれてありがとうとお伝えしたいです。