■メイン写真
絶景が広がる外鎌山の山頂
■今回のコース
桜井駅→等彌神社→鳥見山→押坂(忍坂)山口坐神社→舒明天皇陵→外鎌山→大和朝倉駅
奈良県・桜井市街の南から朝倉台にかけて2つの低山がある。
鳥見山(とみやま)と外鎌山(とかまやま)だ。
2座をたどるには、一度、忍坂に下り国道を渡ることになるが、そもそも標高差が少ないので
なんということはない。登山というよりはお散歩のような感じだ。
桜井駅から東へ。育成幼稚園の角を曲がって南下すると、桜井市立図書館に行きあたる。
図書館の東向かいが等彌(とみ)神社である。
等彌神社は神武天皇ゆかりの神社で、もともと鳥見山中にあったが、12世紀初めに
現在の場所に移築されたという。
日向の地からやってきて、熊野を経由して大和を征服したイワレヒコは、畝傍山あたりで
初代天皇として即位し、大嘗祭を鳥見山で実施したと言われる。
大嘗祭を執り行う場所のことを「霊畤(れいじ)」といい、現在、鳥見山の山頂には
「霊畤」の石碑がある。日本の始まりに関わる神話が、この神社に眠っている。
※奈良県には「霊畤」の伝承地が3箇所ある。
この鳥居をくぐり、鳥見山をめざす。道標完備の山道である。
少し上ると、「鳥見山霊畤 遥拝所」がある。樹木が茂り、鳥見山の山頂は見えない。
気持ちのいい雑木林の中を登っていく。山頂のすぐ手前に「白庭」がある。
矢田丘陵の北端に饒速日命墳墓があるが、ここも白庭山。神話は面白い。
鳥見山の山頂に到着。鳥見の霊畤とされる場所だが、注連縄もなく、立入禁止領域もない。
標識はなくなるが、東へ続く山道を下る。季節外れのモチツツジがいっぱい咲いていた。
樹々の合間から、榛原のほうの鳥見山が見える。
もうひとつの鳥見山。あちらのほうも、神武が大嘗祭を実施した伝説が残る。
神話は中途半端につじつまが合うのがおもしろい。
だいぶ里に近づくころ、金毘羅大権現を刻んだ石がある。
コナラやクヌギがちょうど綺麗に色づいていた。こういう雑木林が好きだ。
里に下りてきた。赤尾の集落の南端だ。押坂山口坐神社には、赤尾の大クスノキがある。
根元から見上げると、すごいエネルギーを感じる。
樹齢は約600年、幹周り7. 92m、樹高は約30mという。
この巨樹は2代目だそうで、初代は1397年(応永4年)、室町将軍の足利義満が
金閣寺を建てる際、天井板を一枚張りにするために供出したという。
そのあとに2代目を植えたから、樹齢約600年ということだ。
ちょうど忍坂のバス停の所で国道を渡る。
神籠石(ちご石)。
神武による大和征服の折、八十建(やそたける)との戦いのときに、この石に隠れて
石垣をめぐらし、矢を持ち楯としたとの伝説がある。
ここの地名、小字名は「楯の奥」「矢垣内」という。
火の見櫓と半鐘は、昭和35年ごろ、忍坂の生根神社から移設されたそうだ。
200mほど進めば、舒明天皇陵に着く。
第34代・舒明天皇は、推古天皇の後を受け蘇我蝦夷のバックアップにより即位、
最初の遣唐使を送った。墓は八角形の珍しいデザイン。
ひとつ隣にあるのが鏡女王忍坂墓。
鏡女王(かがみのおおきみ)は、はじめ天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻と
なった人で、額田王の姉という説や、舒明天皇の皇女または皇孫という説もあるという。
さらに奥には、大伴皇女墓がある。
大伴皇女は、欽明天皇と堅塩媛(蘇我稲目の娘)の皇女で、兄弟には推古天皇、用明天皇が
おり、聖徳太子の叔母にあたる人。
万葉学者の犬養孝がこの地を訪れ、この周辺の美しい景色がいつまでも続いてほしいと
願ったという。
ちょっとした急坂を登り、尾根道に出て植林の中をたどると外鎌山に着く。
山頂は開けていて、地元の方々が愛情をもって整備されているのがよくわかる。
山頂からは大和盆地の方向が大きく開け、大和三山、金剛山、大和葛城山、二上山、
生駒山などが一望できる。あまりの雄大さに見とれ、だいぶゆっくり時間を過ごした。
ところで外鎌山にも、昔は山城が築かれていたそうだ。
南北朝時代、南朝側に味方した地元の武士・西阿(さいあ)が築いた桜井一帯の6つの城の
うち、最も東に位置するという。
朝倉台住宅への下山道の途中に、外鎌城の石垣とされるものが残っている。
朝倉台住宅のはずれにある登山口に下りた。
5号公園、3号公園を通り、近鉄の大和朝倉駅に向かった。
ショートトリップだが、神話、万葉、南北朝と、歴史が詰まった2座だった。
絶景が広がる外鎌山の山頂
■今回のコース
桜井駅→等彌神社→鳥見山→押坂(忍坂)山口坐神社→舒明天皇陵→外鎌山→大和朝倉駅
奈良県・桜井市街の南から朝倉台にかけて2つの低山がある。
鳥見山(とみやま)と外鎌山(とかまやま)だ。
2座をたどるには、一度、忍坂に下り国道を渡ることになるが、そもそも標高差が少ないので
なんということはない。登山というよりはお散歩のような感じだ。
桜井駅から東へ。育成幼稚園の角を曲がって南下すると、桜井市立図書館に行きあたる。
図書館の東向かいが等彌(とみ)神社である。
等彌神社は神武天皇ゆかりの神社で、もともと鳥見山中にあったが、12世紀初めに
現在の場所に移築されたという。
日向の地からやってきて、熊野を経由して大和を征服したイワレヒコは、畝傍山あたりで
初代天皇として即位し、大嘗祭を鳥見山で実施したと言われる。
大嘗祭を執り行う場所のことを「霊畤(れいじ)」といい、現在、鳥見山の山頂には
「霊畤」の石碑がある。日本の始まりに関わる神話が、この神社に眠っている。
※奈良県には「霊畤」の伝承地が3箇所ある。
この鳥居をくぐり、鳥見山をめざす。道標完備の山道である。
少し上ると、「鳥見山霊畤 遥拝所」がある。樹木が茂り、鳥見山の山頂は見えない。
気持ちのいい雑木林の中を登っていく。山頂のすぐ手前に「白庭」がある。
矢田丘陵の北端に饒速日命墳墓があるが、ここも白庭山。神話は面白い。
鳥見山の山頂に到着。鳥見の霊畤とされる場所だが、注連縄もなく、立入禁止領域もない。
標識はなくなるが、東へ続く山道を下る。季節外れのモチツツジがいっぱい咲いていた。
樹々の合間から、榛原のほうの鳥見山が見える。
もうひとつの鳥見山。あちらのほうも、神武が大嘗祭を実施した伝説が残る。
神話は中途半端につじつまが合うのがおもしろい。
だいぶ里に近づくころ、金毘羅大権現を刻んだ石がある。
コナラやクヌギがちょうど綺麗に色づいていた。こういう雑木林が好きだ。
里に下りてきた。赤尾の集落の南端だ。押坂山口坐神社には、赤尾の大クスノキがある。
根元から見上げると、すごいエネルギーを感じる。
樹齢は約600年、幹周り7. 92m、樹高は約30mという。
この巨樹は2代目だそうで、初代は1397年(応永4年)、室町将軍の足利義満が
金閣寺を建てる際、天井板を一枚張りにするために供出したという。
そのあとに2代目を植えたから、樹齢約600年ということだ。
ちょうど忍坂のバス停の所で国道を渡る。
神籠石(ちご石)。
神武による大和征服の折、八十建(やそたける)との戦いのときに、この石に隠れて
石垣をめぐらし、矢を持ち楯としたとの伝説がある。
ここの地名、小字名は「楯の奥」「矢垣内」という。
火の見櫓と半鐘は、昭和35年ごろ、忍坂の生根神社から移設されたそうだ。
200mほど進めば、舒明天皇陵に着く。
第34代・舒明天皇は、推古天皇の後を受け蘇我蝦夷のバックアップにより即位、
最初の遣唐使を送った。墓は八角形の珍しいデザイン。
ひとつ隣にあるのが鏡女王忍坂墓。
鏡女王(かがみのおおきみ)は、はじめ天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻と
なった人で、額田王の姉という説や、舒明天皇の皇女または皇孫という説もあるという。
さらに奥には、大伴皇女墓がある。
大伴皇女は、欽明天皇と堅塩媛(蘇我稲目の娘)の皇女で、兄弟には推古天皇、用明天皇が
おり、聖徳太子の叔母にあたる人。
万葉学者の犬養孝がこの地を訪れ、この周辺の美しい景色がいつまでも続いてほしいと
願ったという。
ちょっとした急坂を登り、尾根道に出て植林の中をたどると外鎌山に着く。
山頂は開けていて、地元の方々が愛情をもって整備されているのがよくわかる。
山頂からは大和盆地の方向が大きく開け、大和三山、金剛山、大和葛城山、二上山、
生駒山などが一望できる。あまりの雄大さに見とれ、だいぶゆっくり時間を過ごした。
ところで外鎌山にも、昔は山城が築かれていたそうだ。
南北朝時代、南朝側に味方した地元の武士・西阿(さいあ)が築いた桜井一帯の6つの城の
うち、最も東に位置するという。
朝倉台住宅への下山道の途中に、外鎌城の石垣とされるものが残っている。
朝倉台住宅のはずれにある登山口に下りた。
5号公園、3号公園を通り、近鉄の大和朝倉駅に向かった。
ショートトリップだが、神話、万葉、南北朝と、歴史が詰まった2座だった。