これで涼しくなればいいのですが…
銀座すずらん通りを、晴海通りからみゆき通りへ向かって左側に中嶋という割烹があります。
この割烹は、北大路魯山人が一時期顧問をした、星ヶ丘茶寮の初代料理長が開いたもので
それだけに店内には魯山人の作品がさりげなく飾られたりしています。
店の玄関脇には、初代店主が高野山の僧侶から拝領したという
「従是くわんおん道」(これより観音みち)の石碑が置かれています。
この割烹は、北大路魯山人が一時期顧問をした、星ヶ丘茶寮の初代料理長が開いたもので
それだけに店内には魯山人の作品がさりげなく飾られたりしています。
店の玄関脇には、初代店主が高野山の僧侶から拝領したという
「従是くわんおん道」(これより観音みち)の石碑が置かれています。
雑居ビルや商業ビルが林立する銀座。
そのビルとビルの隙間は、路地になっていたりする。
猫がいたり、従業員が休んでいたり、神様がいたり
銀座の路地裏は、表通りよりも面白いのです。
(路地の奥にお稲荷さんが鎮座している)
(これも路地)
(店内の通路に見えるけれど、これも実は路地)
そのビルとビルの隙間は、路地になっていたりする。
猫がいたり、従業員が休んでいたり、神様がいたり
銀座の路地裏は、表通りよりも面白いのです。
(路地の奥にお稲荷さんが鎮座している)
(これも路地)
(店内の通路に見えるけれど、これも実は路地)
松坂屋の跡地に作られた銀座最大級の商業施設、GINZA SIX。
241のブランドが集結しているそうですが、つまりは複合商業施設なので
百貨店時代のような統一感のあるサービスは感じられません。
古くからの銀座を知る身としては、ここは尾張町どころか、銀座六丁目でもない
無国籍な異空間としか感じられない施設でした。
241のブランドが集結しているそうですが、つまりは複合商業施設なので
百貨店時代のような統一感のあるサービスは感じられません。
古くからの銀座を知る身としては、ここは尾張町どころか、銀座六丁目でもない
無国籍な異空間としか感じられない施設でした。
西銀座・数寄屋橋のランドマークだったソニービル。
毎年恒例だったアクアリウムは、建替え工事が始まった今年、
もちろん設置されていません。
なんとなく寂しい、夏の銀座です。
(現在のソニービル)
(在りし日のソニーアクアリウム)
毎年恒例だったアクアリウムは、建替え工事が始まった今年、
もちろん設置されていません。
なんとなく寂しい、夏の銀座です。
(現在のソニービル)
(在りし日のソニーアクアリウム)
水辺
2017年07月11日 | 旅
東京は、水の街です。
川や海の水辺だけでなく、崖線や井戸からの水が
街の景色を作り上げています。
暑い街を歩いている時に、ふと足を止めたところに
井戸や湧水があると、たとえ飲めない水でも、ホッとします。
川や海の水辺だけでなく、崖線や井戸からの水が
街の景色を作り上げています。
暑い街を歩いている時に、ふと足を止めたところに
井戸や湧水があると、たとえ飲めない水でも、ホッとします。
京王相模原線の京王多摩川駅近くにある競輪場「京王閣」は
もともと京王電軌(現在の京王電鉄)が開設した遊園地でした。
昭和二年に開設された京王閣は、帝都近郊に路線を持つ鉄道会社が
自社もしくは関連子会社が作るレジャー施設のはしりでもありました。
戦時体制下、京王は東京急行(現在の東急)に合併されていて
戦後再び分離する前に、多摩川園などの施設を持っていた大東急が
戦時中に食糧確保の為に農地になっていた、この京王閣の敷地を売却し、
京王閣競輪場が作られました。
もともと京王電軌(現在の京王電鉄)が開設した遊園地でした。
昭和二年に開設された京王閣は、帝都近郊に路線を持つ鉄道会社が
自社もしくは関連子会社が作るレジャー施設のはしりでもありました。
戦時体制下、京王は東京急行(現在の東急)に合併されていて
戦後再び分離する前に、多摩川園などの施設を持っていた大東急が
戦時中に食糧確保の為に農地になっていた、この京王閣の敷地を売却し、
京王閣競輪場が作られました。
大正十三年(1924)竣工の原宿駅の駅舎本屋も、2020年のオリンピックに向けて
明治神宮側の外回り臨時ホームの通常ホーム化と合わせて、改築が決定しています。
本格工事が始まると、混雑がさらに激しくなりそうです。
(原宿駅)
(新駅舎の工事計画標)
(外回り臨時ホームの通常ホーム化改築工事)
明治神宮側の外回り臨時ホームの通常ホーム化と合わせて、改築が決定しています。
本格工事が始まると、混雑がさらに激しくなりそうです。
(原宿駅)
(新駅舎の工事計画標)
(外回り臨時ホームの通常ホーム化改築工事)
近年、西巣鴨界隈の恒例行事になった大正大学の盆踊りです。
古刹、名刹の子弟も通う、古い仏教系宗教大学ですが、年々「現代っ子」学生が増え
仏教の教えの一つ「縁」と、新しいアイデアが合わさった地域密着イベントが
大正大学の「売り」になりつつあるようです。
古刹、名刹の子弟も通う、古い仏教系宗教大学ですが、年々「現代っ子」学生が増え
仏教の教えの一つ「縁」と、新しいアイデアが合わさった地域密着イベントが
大正大学の「売り」になりつつあるようです。
山手線の渋谷・原宿間の線路を跨いで、水無橋という橋があります。
江戸時代から、青山から代々木へ抜ける唯一の道があった場所で
明治十六年(1883)に、現在の山手線の線路を敷くことになった時、
この付近が切り通しとなる事が決まり、道が寸断されるのは惜しいと
線路を跨ぐ橋を作ったのが水無橋です。
当時は、橋は川に架けるものと相場が決まっていたので、
線路に架かる、つまり水の無い橋という事で、水無橋となりました。
(水無橋)
(五輪橋から見た水無橋)
江戸時代から、青山から代々木へ抜ける唯一の道があった場所で
明治十六年(1883)に、現在の山手線の線路を敷くことになった時、
この付近が切り通しとなる事が決まり、道が寸断されるのは惜しいと
線路を跨ぐ橋を作ったのが水無橋です。
当時は、橋は川に架けるものと相場が決まっていたので、
線路に架かる、つまり水の無い橋という事で、水無橋となりました。
(水無橋)
(五輪橋から見た水無橋)
池袋の中心というと、どの辺りを想像するでしょうか。
池袋駅の東口(西武側)?サンシャインシティ?それとも西口(東武側)でしょうか。
現在は池袋駅を中心に、日本を代表する大繁華街の池袋ですが
初めてこの地に鉄道路線が開通した頃には、ここに駅はありませんでした。
ただし、池袋村という村は昔からあって、池袋駅はそのはじっこの
もう雑司が谷村に近い場所に、後から設置された駅なのです。
池袋村の中心は、現在の東武東上線北池袋駅と下板橋駅を弧にした中心辺りで
池袋本町という、池袋の中心というアイデンティティを住所表記にした地域です。
この付近は雲雀ヶ谷や金井窪など、谷端川の支谷がいくつかあって
それが本流に合わさる「袋」地形の池が散在したため、池袋と呼ばれたという説があります。
今では寂れてしまった商店街が伸びていますが、確かに池袋の中心なのです。
(池袋駅)
(北池袋駅)
(池袋本町の中心である氷川神社)
池袋駅の東口(西武側)?サンシャインシティ?それとも西口(東武側)でしょうか。
現在は池袋駅を中心に、日本を代表する大繁華街の池袋ですが
初めてこの地に鉄道路線が開通した頃には、ここに駅はありませんでした。
ただし、池袋村という村は昔からあって、池袋駅はそのはじっこの
もう雑司が谷村に近い場所に、後から設置された駅なのです。
池袋村の中心は、現在の東武東上線北池袋駅と下板橋駅を弧にした中心辺りで
池袋本町という、池袋の中心というアイデンティティを住所表記にした地域です。
この付近は雲雀ヶ谷や金井窪など、谷端川の支谷がいくつかあって
それが本流に合わさる「袋」地形の池が散在したため、池袋と呼ばれたという説があります。
今では寂れてしまった商店街が伸びていますが、確かに池袋の中心なのです。
(池袋駅)
(北池袋駅)
(池袋本町の中心である氷川神社)
都内に数ある踏切の中でも、有数の「開かずの踏切」が
JR埼京線と東武東上線の並走する区間にあります。
赤羽線第一雲雀ヶ谷踏切(東上線3号踏切)がその踏切。
2つの高頻度運行路線を跨ぐため、ラッシュ時間帯は、殆ど閉まったままの踏切です。
かつては貨物線の引き上げ線もこの踏切にかかっていたり、東上線も地下鉄乗り入れがなく
池袋発着の本数が今以上に多かったため、さらに閉まっている時間が長かった記憶があります。
その頃は踏切警守が常駐する、手動の踏切だったため、事故もあまり起きませんでした。
貨物がなくなり、東上線の池袋地上口が減便になってからは、自動踏切になり
多少踏切が開く時間も増えたせいか、逆に直前横断などによる事故や遅延が増えたようです。
都内には1000以上の踏切が存在していて、その内、京王線の踏切を中心に、
200基ほどの開かずの踏切が存在しています。
いくつかの踏切は、立体交差化などで解消する計画もあるようですが
ここは一方通行道路であることと、2つの鉄道会社にまたがっていること
駅や車庫があること、歩行者用地下道がある事などから、立体交差の計画もないようです。
JR埼京線と東武東上線の並走する区間にあります。
赤羽線第一雲雀ヶ谷踏切(東上線3号踏切)がその踏切。
2つの高頻度運行路線を跨ぐため、ラッシュ時間帯は、殆ど閉まったままの踏切です。
かつては貨物線の引き上げ線もこの踏切にかかっていたり、東上線も地下鉄乗り入れがなく
池袋発着の本数が今以上に多かったため、さらに閉まっている時間が長かった記憶があります。
その頃は踏切警守が常駐する、手動の踏切だったため、事故もあまり起きませんでした。
貨物がなくなり、東上線の池袋地上口が減便になってからは、自動踏切になり
多少踏切が開く時間も増えたせいか、逆に直前横断などによる事故や遅延が増えたようです。
都内には1000以上の踏切が存在していて、その内、京王線の踏切を中心に、
200基ほどの開かずの踏切が存在しています。
いくつかの踏切は、立体交差化などで解消する計画もあるようですが
ここは一方通行道路であることと、2つの鉄道会社にまたがっていること
駅や車庫があること、歩行者用地下道がある事などから、立体交差の計画もないようです。
上池袋交差点から北池袋駅方面へ歩いて5分ほど、上池袋交番のすぐ並びに
知る人ぞ知るミステリースポット、お茶あがれ地蔵が安置されています。
言い伝えでは、元禄時代に結婚を反対され、そのため病死してしまった女性が
幽霊となって夜な夜な男の家の前で「お茶あがれ、お茶あがれ」と囁いたことから
その供養のために建てられたものとされています。
この付近は池袋村の中心(現在の池袋本町)と三軒家(現在の滝野川)、平尾(現在の板橋)など
古くからある程度開けていた地域を結ぶ村道の岐れ道でもあり
谷端川の谷を望む高台の中でも、もっとも標高の高い位置でもあることから
庚申塔も建てられていて、前述の伝承以前から、何らかの宗教的意味合いのある
何かしらのものがあったとも考えられます。
現在は、宝永の庚申塔と、子育て地蔵も安置されていて、城北大空襲のあった4月13日に
この地にあった防空壕で亡くなった人たちの慰霊も合わせて、供養が行われています。
知る人ぞ知るミステリースポット、お茶あがれ地蔵が安置されています。
言い伝えでは、元禄時代に結婚を反対され、そのため病死してしまった女性が
幽霊となって夜な夜な男の家の前で「お茶あがれ、お茶あがれ」と囁いたことから
その供養のために建てられたものとされています。
この付近は池袋村の中心(現在の池袋本町)と三軒家(現在の滝野川)、平尾(現在の板橋)など
古くからある程度開けていた地域を結ぶ村道の岐れ道でもあり
谷端川の谷を望む高台の中でも、もっとも標高の高い位置でもあることから
庚申塔も建てられていて、前述の伝承以前から、何らかの宗教的意味合いのある
何かしらのものがあったとも考えられます。
現在は、宝永の庚申塔と、子育て地蔵も安置されていて、城北大空襲のあった4月13日に
この地にあった防空壕で亡くなった人たちの慰霊も合わせて、供養が行われています。
上池袋は、池袋の北側の一角にある住所表記で、かつては新田堀之内や
池袋八丁目と呼ばれた地域です。
都道305号線(明治通り)の上池袋交差点は、同じく都道436号線の終点で
この通りは、以前上池袋交差点から少し大塚寄りにあった癌研究所に因んで
ガン研通りと呼ばれていましたが、癌研究所の移転後に宮仲公園通りと改称されました。
もっとも私を含めた昔からの近隣住民は今でもガン研通りと呼んでいます。
現在、池袋を起点としている東武東上線は、計画段階では大塚辻町を起点としていて
もしそのルートで開業させていれば、この通りがルートになっていた可能性があります。
かつてはガン研通りを通るバス路線もあったため、上池袋交差点は交通の要衝でした。
実はこの付近の明治通りは、鎌倉時代にはすでに街道として整備されていた場所で
ところどころにその名残の路地が斜めに離合しています。
(上池袋交差点 左方向が宮仲公園通り、バスが走っているのが明治通り)
(左の路地が鎌倉街道跡)
池袋八丁目と呼ばれた地域です。
都道305号線(明治通り)の上池袋交差点は、同じく都道436号線の終点で
この通りは、以前上池袋交差点から少し大塚寄りにあった癌研究所に因んで
ガン研通りと呼ばれていましたが、癌研究所の移転後に宮仲公園通りと改称されました。
もっとも私を含めた昔からの近隣住民は今でもガン研通りと呼んでいます。
現在、池袋を起点としている東武東上線は、計画段階では大塚辻町を起点としていて
もしそのルートで開業させていれば、この通りがルートになっていた可能性があります。
かつてはガン研通りを通るバス路線もあったため、上池袋交差点は交通の要衝でした。
実はこの付近の明治通りは、鎌倉時代にはすでに街道として整備されていた場所で
ところどころにその名残の路地が斜めに離合しています。
(上池袋交差点 左方向が宮仲公園通り、バスが走っているのが明治通り)
(左の路地が鎌倉街道跡)
昭和三十九年(1964)に竣工した岸体育館。
建て替えなどが検討されていましたが、敷地が都市計画公園の指定を受けていることや
次回の東京オリンピック開催が決定したことで、同地での建て替え計画を断念したようです。
(日体協によれば、霞ケ丘へ新ビルを建築し移転とのこと)
建て替えなどが検討されていましたが、敷地が都市計画公園の指定を受けていることや
次回の東京オリンピック開催が決定したことで、同地での建て替え計画を断念したようです。
(日体協によれば、霞ケ丘へ新ビルを建築し移転とのこと)