幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

第5回;NHK『こころの時代』 ヴィクトール・フランクル第五回 人知を超える究極の意味「何か」に支えられて

2024-08-21 15:21:15 | 生き方 考え方 笑顔 ロゴセラピー
第五回 人知を超える究極の意味「何か」に支えられて

人間に元々備わっている「意味への意志」
「究極の意味」を知りたい。
すべての人間にそれがあるとヴィクトールフランクルは信じている。
強制収容所は私への卒業試験だったかもしれない。
自己超越、自己距離化、フランクルはロゴセラピーを実践した。
しかし、自分だけの力で助かったと思っていない。
危機のとき、何度も不思議なことが起きた。
超意味、究極の意味、人に起こることにはすべて超意味がある。
しかし、人はそれを知ることはできない。信じるしかない。

今回は「究極の意味」について話をしたい。
研究家の人の中でも意見が分かれている。
なぜならフランクルもそのことについて詳しくは述べていない。
そのために自分が考えていくしかない。
超越したもの、それへの眼差しがないと精神次元に移れない。
瞬間瞬間最善だと思う選択を人は行う。
その背景に究極の意味を考える必要がある。

強制収容所に行く前から解放されるまで、自分がどうして生き残ったか分からない。何か意味があったのではないか。
自分の人生を振り返ると、不思議なことがあるので、自分の意志だけでなく、何かに導かれているのではないかと。

最初の奇跡は、収容所に送られる前に起きた。
アメリカへのビザを申請した。
しかし、ビザが降りたのは自分だけ。両親には降りなかった。
フランクルは病院勤務だったので、両親も守られていた。
自分だけ亡命すると両親はすぐに強制収容所に送られる。
彼はどうするか迷った。祈るしかなかった。
ウィーンのキリスト教の大聖堂がある。
ユダヤ人なのでユダヤ人のバッチを付けているのでそこには入れないが、隠して入って祈った。
家に帰ると石がある。父がこれは壊されたシナゴーグの石の破片だと。
モーズの十戒の一つにしか使われていない言葉だった。
それが汝の父母を敬えだった。
偶然だったけど、そこに意味を感じた。
彼はロゴセラピーの入門書を書きはじめた。
その石の言葉が与えられる前は迷っていた。
彼はその記(しるし)で迷いが消えた。

1949年てレージェンシュッタトに家族四人、2年後ビルケナウへ。
そこで不思議な出来事。男女に分けられ、さらに二つに分けられた。
行先は知らされていなかった。
頑強な人は強制労働へ、ダメな人はガス室へ。
その判断をしたのがメンデル博士が判断した。
メンデル博士は左へと指示した。左はガス室行きだった。
右に知った人がいたので、メンデル博士の背後を回ってふらふらと右へ行った。
誰かが見ていたら左へ行かされていた。メンゲル博士は何度考えても左を指さしていた。

フランクルはなぜ自分が生き残ったのか? 
不思議な出来事があったから。
自分が能力があったからではなく、大きなミッションがあったから生きられたと考えた。

ロゴセラピーの原稿を隠し持っていたのを奪われた。
もう一つはアルプス山岳会の会員バッチも取られた。
この2つはとてもショックだった。
彼にとって山は特別だった。
厳しい岩壁を登っていた。80歳までやっていた。

奪われた時はショックを受けた。だけど、それはもしかしたら、これまで理論でやってきたのを実践で試せ!と思うようになった。
そのきっかけになったのが与えられた囚人服(きっとガス室で殺された)にポケットに紙きれがあり、そこに祈祷書から祈りの言葉があった。
あなたは心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。
この偶然をどう解釈すれば良いか。自分がこれから考えを示せと解釈するしかなかった。
フランクルはずーっとの紙切れを大切にしていた。
解放されたとき、どういうわけかその紙切れが亡くなっていた。
彼は超越的なつながりを常に意識していた。
どこからか聞こえてくるものがあったのではないか。

人間がどう生きるか、まさに生きること、それが全うできるか。
人生を諦めるということは、ロゴセラピーを諦めることになる。
常に状況によって、フランクルは迷いなくと見えるが、フランクルはその都度その都度揺れている、迷っている。
でも徹底的に考えているから、何かあったときに自分が見つけられる。
他のセラピーは原因を探る作業に明け暮れ谷底へ歩いていく。
ロゴセラピーはそのとき頂上を目指す。
目の前に手をかける岩があるので手をかける。
なぜそこにたまたま岩があるのかはわからない。

次にカウフェリング 収容所に移された。
他の収容所へ移動、過酷な労働から解放されると期待していた。
しかし別の人が行くことになり、トラックに乗った人は全員ガス室へ、フランクルは助かった。
フランクルは発疹チフスのかかった。
連合軍が迫ってきたので、ナチスは囚人を死の行軍に行かせた。
しかしフランクは発疹チフス感染してたのでその行軍から逃れた。

人が自分の力だけでなく、何かに支えれていると感じる。
自分が偶然いろいろなことで命が助かる。
究極の意味は宗教で言えば神様になる。
フランクルはロゴセラピーに宗教は入れなかった。
彼は敬虔なユダヤ教信者だったが。

セラピストが自分の信仰をクライエントに押し付けることはしない。
フランクルは相手の宗教にも柔軟に対応した。
寛容性が他の人より広かった。
開放後、知り合った女性はカソリック教徒。
ユダヤ教は他の宗派の人の結婚しないが、フランクルには寛容性が大きかった。
フランクルはどんな人でも普遍的な次元の何かを持っていると考えた。
なので、宗教の違いは関係なかった。

「テフィリン」聖句箱を常に身につけていた。
ユダヤ教が自分を導くすべてだとは考えていた。
再婚したエリ―はカソリック教徒。全ての宗教は平等。
フランクルは宗教は言語だと考えていた。悪用することもかつようすることもできる。

人間の存在はなにか。
すべての人をささえているものを究極の意味と考えていた。
どんな時に言える。
心の底から出てきた願望です。究極の意味が存在するに違いないと。

心と身体の次元だけでは超えることができない。
精神次元が必要。
普遍性、どんな人間にも共有できる。宗教が違っても。
究極の意味、宗教や哲学的でもある。
理論的な考えでは把握できない。説明できない。理解できないものがある。
そういうものがあるからそこに眼差しを向ける。
シニカル態度ではなく、謙虚に。
人間は自分と距離を空けて自分を見ることが大切。
距離とは究極の意味で、そこから見ることができるか。
悩んだり悲しんだりしてるときは、その感情に飲み込まれている。
そこから離れて究極の意味の視点から考える。
それができると、まわりが見えてくる。
他にも道がある。悲観することがある。
小野さんの故郷浦江は海しか見えない。
でも山から見ると別の港も見えてくる。

宗教も人がよりよく生きるための指針を与えるとすると、ロゴセラピーはより普遍的な言葉で一緒に考えましょうと。
人間は互いに理解できるはず。
人間性によってしかわけることはできない。
この地上には二種類の人間がいる。
品格のあるしっかりした人間とそうでない人間。
この二種類の人間がどこにもいる。
どこにも両方がいる。

フランクルは人を分けるなら、品格のあるまともな人がどうか。
宗教や国などで分けるものではない。一つの人類主義、フランクルの造語。
同じ精神次元を持っている。
ユダヤ人を迫害したドイツ人だと避けるのではなく、その人が品格があるかどうか。
戦後、ナチス党員と一緒に山に登ったこともあるが、その人はひどく後悔していた。なんでそんな党に入ったのか。
同じユダヤ人仲間ははフランクルのその態度を非難した。
フランクルは一人ひとりを見た。
ヨーロッパ議会で起きているのはフランクルでいう”一人類主義”とまったく違うことをやっている。
太古の昔には国境がなかった。
今はそれぞれが自分たちの利益だけを考えている。

フランクルが今いれば、どんなときにも悲観するこはない。
人に対する思い、社会に対する思い。
良きものが社会を支えている。
この世界に意味があると考えられないでしょうか。
究極の意味の存在を信じようと決断すると結果が生まれる。
信じることがそれを真実にするのです。
可能性を実現するのです。



感想
 究極の意味
今起きていることに意味があるかないか。
それはわかりません。
しかし、何か意味があるはずだと信じて一歩一歩前を向いて歩いて行くと意味が生まれてくるのだと、フランクルは私たちに言いたのだと思います。

究極の意味を考えながら生きることが、「意味への意志」なのでしょう。
そしてそれを持ちながら生きることが、自分の人生を意味あるものに高めていくのだと思います。
意味を判断時の視点に加えると、意味ある選択肢が増えるように思います。

意味への意志は時により、自己超越の場合もあるのでしょう。
自分はしんどいけど、いまこれを行うことにはしんどいけどそれをやる意味があると信じて行う。
自己距離は、自分から距離を持ち自分が今どうしようとしているか、それが意味のあることなのか、感情に支配されての行動なのか、それを冷静に見て判断するためには、自己距離化は必要なのでしょう。

ロゴセラピーの学びは、まさに自分の人生のより良くしていくツールというか、考え方のようです。
そのため、ロゴセラピーとセラピーよりもロゴエデュケーション(ロゴ教育)の方が適切だと言われています。

「がんで余命1カ月宣告、体重は10キロ減り…」“メイク・ア・ウィッシュ”大野寿子さん(73)が“最期の講演”で紹介した“難病の少年が書いた詩”「いま、おいらにつばさがあれば ・・・

2024-08-15 03:25:33 | 生き方 考え方 笑顔 ロゴセラピー

「その中で書かれた子どもたちのメッセージを、生きるということのメッセージを伝えたい。この子たちの思いを伝えたいという気持ちがとってもありました。そのために是非この本をたくさんの人に読んでもらいたいと思いました」
 難病の子どもの夢を実現させる非営利団体「メイク・ア・ウィッシュ」の“伝道師”として30年間、3000人の夢に寄り添ってきた大野寿子さん(おおのひさこ、73)。彼女ががんで余命1カ月と宣告されたのは、今年6月26日のことだった。

 体力の限界を迎え、講演はまもなくできなくなる。そこで浮かんだのが、自著『メイク・ア・ウィッシュ 夢の実現が人生を変えた』を希望者に無料で配ることだった。彼女はこの計画を“最期の大野プロジェクト”と名付け、「余命1カ月」を生き続けている。冒頭の言葉はその最後の計画を始めた理由について聞いた時のものだ――(「週刊文春電子版」でインタビュー動画を無料公開中)。
 ◇◇◇
「メイク・ア・ウィッシュのことを伝えたい」
 7月18日発売の「週刊文春」並びに「週刊文春電子版」で始まったドキュメント連載「『難病の子どもたちの夢を叶えたい』大野寿子さん余命1カ月を生きる」に大きな反響が寄せられている。
 著者の小倉孝保さんは毎日新聞論説委員。著書『十六歳のモーツァルト』の取材でメイク・ア・ウィッシュを知り、大野さんとの付き合いが始まった。その後メールでやりとりをしたり、講演で会うなどしていた。
 今年5月、大野さんから突然、メールで「がんになった」と連絡があったという。
〈もう命のタイムアウトが見えてきてやりたいことは何かと考えると、メイク・ア・ウィッシュのことを伝えたいという思いです〉(大野さんのメールより)

「最期のプロジェクト」を支援してもらいたいとの思いが綴られていたため、小倉さんはすぐに彼女に会いにいった。そして、6月17日の毎日新聞朝刊の「余録」で次のように大野さんの「最期のプロジェクト」について伝えた。
〈命の残り時間に気付かされた時、人は何が一番大切なのかを知る。千葉県浦安市に住む大野寿子さんにとってそれは、少女や少年が困難を乗り越え、夢に向かって奮闘する姿を伝え、残すことだった(中略)その本人に今年2月、肝内胆管がんが見つかった。腫瘍は約7センチに膨らみ、リンパ節に浸潤していた。手術や放射線治療は不可能である。終末期医療を視野に入れ、自分の夢と向き合った。
 子どもたちを紹介した自著「メイク・ア・ウィッシュ 夢の実現が人生を変えた」はすでに絶版になっていた。できるだけ多くの人に、これを読んでもらいたい。無料(協力してもらえる人には有料)配布を決め、自費で500部刷り直した。
大野さんの自著『メイク・ア・ウィッシュ 夢の実現が人生を変えた』 ©文藝春秋
 大野さんは言う。「病気の子は自分のことでいっぱいいっぱいのはずです。でもみんな誰かの役に立ちたいと思い、心から他者の幸せを願っていました」(以下略)〉
 毎日新聞の記事が話題となり、本を送ってほしいという連絡が次々と入ったという。

「アドレナリンが出るのかな。しゃきんとするのよ」
 そして――。小倉さんは今回、「週刊文春」で大野さんの「余命1カ月」の日々について綴る。
〈細くなった腕を伸ばしてマイクを握ると、大野寿子はこう切り出した。
「すっごい楽しみにして、ここに来ました」
 顔にははち切れんばかりの笑みが浮かんでいる。
 白いシャツに青のカーディガンをはおり、黒いロングスカート。髪は若い頃からショートで、最近は染めなくなったため、輝くようなグレイヘアである。
 7月6日。神戸・三宮近くのキリスト教施設には約60人の聴衆が詰めかけた。「夢に向かって一緒に走ろう」と題した講演だった。
 笑みには理由があった。大野は末期の肝内胆管癌で、6月末には医師から「余命は1カ月ほど」と宣告されている。来られるかどうか最後まで不安だったのだ。実際、体重はかつての50キロから40キロに減り、157・5センチの身長にしてはかなり細い。衰弱は確実に進んでいる。

 この日の神戸は最高気温が34度にもなった。普段は千葉県浦安市の自宅で、介護用ベッドに体を横たえている。それでも講演では、不思議と元気になる。
「アドレナリンが出るのかな。しゃきんとするのよ」
 さすがに9月に予定していた講演は無理と判断した。この神戸が生涯最後の講演になりそうだった。

最後の講演で語ったこと
 最後の講演で紹介した子どもの一人が、東大阪市の嘉朗君(よしろう)だ。
 1993年に生まれてすぐ、ミルクを激しく吐いた。息づかいもおかしい。体調は戻らず、母は各地の病院を回る。「こんな体に産んでしまって」と自分を責める母に、3歳の嘉朗君は言った。
「病気やからって悪いことばっかりちゃうねんで。病気やからわかることもあるんや」

 母はこの言葉に、自分を責める気持ちが息子を苦しめていたと知る。
 4歳で原発性免疫不全症と診断された後、間質性肺炎、再発性多発性軟骨炎など次々と難病に襲われる。学校にもあまり通えない。それでも大阪の子らしく、調子に乗っては、周りを笑わせた。
 さい帯血による造血幹細胞移植手術のため9歳で東京の病院に移り、しばらくして詩を書き始めた。入院生活が2年を過ぎたころだ。疲れた母がベッド脇でうとうとしていると、パソコンに何かを書いていた嘉朗君が「後で読んで」と言って眠った。夜中にパソコンを開くと、こんな詩が書かれてあった。
〈いま、おいらにつばさがあれば/病気を治して/ママをいろんなところへつれていってあげたい。/いっつも看病してくれているママ。楽しいところへ、わくわくするところへ/つれていってあげたい。/ママ、もうちょっと待っててね。病気を治したら、絶対にしあわせにするから。/それまで待っててね。〉
 子どもは病魔に襲われても他者へのいたわりを忘れない。自分のことで精いっぱいのはずなのに、周りの者を気遣う。

 嘉朗君は日ごろ、母にこうも言っていた。
「20歳になったら恩返ししたるから、それまでは世話してな。ばばあになったらおしめも替えたるから」〉(「週刊文春」7月25日号より)
 嘉朗君が残した詩編の数々と闘病の日々、大野さんが講演会で語ったこと、そして「最期のプロジェクト」の行方について――。記事全文と大野さんへの独占インタビュー動画を「週刊文春電子版」で無料公開している。


感想
“メイク・ア・ウィッシュ”大野寿子さんが余命1か月と宣告されたことを、嘉朗君のお母さんから教えていただきました。
よっくんの本を出したいと、よっくんのお母さんから相談されました。
お母さんはたくさん、よっくんのことを書かれていました。
そこで、ボランティア仲間で本を出した方に出版社を教えていただき、その出版社はマンションの一室でそこを訪ね、自費出版についていろいろ教えてもらいました。
最低80~100万あれば出せるとのことでした。
私が出しても良いと思ったのですが、それでは多くの人に読んでもらえないと思いました。よっくんに関係した人から少しずつ募るのはどうかと思い、関係者にメールや電話や会ったりして本の出版について相談しました。
 その中のお一人が、大野寿子さんでした。当時、“メイク・ア・ウィッシュ”の事務局長をされていました。“メイク・ア・ウィッシュ”の活動は知っていました。
大野さんといろいろお話させていただき、どうするのが良いかなと考えていたら、大野さんから連絡を受けました。神戸のお寺の住職がお金を出していただけるとのことでした。大野さんがいろいろあたってくださったのだと思います。
そしてそれが実現したのが本『いつかぼくもビーズになる!: よっくんのポエム』April 25, 2014 です。
 大野さんのご尽力で本になり、よっくんのことを多くの人に知っていただきました。
 私はよっくんが入院していた病院の”遊びのボランティア”(入院児と一緒に遊ぶ)をしていて、よっくんと何度か遊んだり、よっくん、お母さん、私でウノをやったりしました。そこでお母さんとも話をしました。
 よっくんが亡くなられたことは、同じボランティア仲間のその病院の医学生から教えてもらいました。子どもが亡くなってもボランティアには病院は教えてくれません。そしてお母さんが挙げているブログに投稿し、そこからつながりができました。
 ただ、よっくんのお母さんはよっくんの詩だけでなく、よっくんのことをたくさん書いておられてそれも本に入れたいと思われていました。
 でも制限があるので、それは下記のHPに載せました。
本には載っていない、よっくんの闘病生活とお母さんのことがわかります。
お読みいただけると嬉しいです。

大野寿子さんは余命1か月と言われ、それでも何かできることはないかと考え、(下記は朝日新聞デジタルから引用)
「最期の大野プロジェクト」と名付けたSNSアカウントを作り、活動を広めてくれる人を対象に著書「メイク・ア・ウィッシュ 夢の実現が人生を変えた」(KADOKAWA)を届け始めた。
希望者はメール(book.yumenojitsugen@gmail.com)を送り、返信メールに記された入力フォームから申し込む。

もう何もできないと思われる状況でも、何かできることがあるのだと教えていただきました。

大野寿子さんに感謝の気持ちを込めて、彼女の闘病記事を紹介させていただきます。
知らない私からの電話にも丁寧に真心を込めてご対応していただいたことが昨日のようによみがえってきました。
本当にありがとうございました。
奇跡が起こることを祈っています。

講演会申込み締切【8月19日(月)まで】ロゴセラピスト講演会 特別講演 柳田邦男氏 2024年8月31日(土) 16時~18時(リモート)

2024-08-13 10:18:08 | 生き方 考え方 笑顔 ロゴセラピー
生きる意味の喪失は、生きる価値を見出せません。
ロゴセラピーはこの生きる意味を見出すヒントを与えてくれるセラピーです。
セラピーというより、人生をより良く生きるための自己教育と言えます。
苦しくても、辛くても、自分の生きる意味を見出すとそれに耐える力が出てきます。
もし、お時間があれば、聞いていただけると必ず何か得るものがあると思います。
9月1日はそれを実践された方の体験記です。
ロゴセラピーを学びながら、自分の人生をより良く意味のあるものになさっています。

ロゴセラピーについて
<第16回日本ロゴセラピスト講演会>
◆ 8月31日(土)16:00-18:00 ゲスト講演
柳田邦男氏 「88年の旅は、"Yes""Yes"のモンタージュ
~出会えた数えきれない人々に感謝~」
 ノンフィクション作家 1936年栃木県生まれ。
 著書、『空白の天気図』(文春文庫)、『人生の1冊の絵本』(岩波新書)、『犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日』『「犠牲」への手紙』(文春文庫)など多数。
ヴィクトール・フランクルについては、著書『「死の医学」への序章』(新潮文庫)、『言葉が立ち上がる時』(平凡社)や、西川喜作『輝け 我が命の日々よ ガンを宣告された精神科医の1000日』(新潮社)に寄せた序文「西川先生のこと」などで触れている。

◆ 9月1日(日)16:00-18:30 ロゴセラピストによる講演
1)坂本多香子さん「私のボランティア~ロゴを生きる場所~」
2)広野ゆいさん 「凸凹を楽しむ人生~コペルニクス的転回の体験~」

◆ 参加費(2日間)
・一般:3,000円
・学生・70歳以上・障害者手帳をお持ちの方・日本ロゴセラピスト協会員:2,000円

◆ 申し込み方法:8月19日(月)までに、日本ロゴセラピスト協会HPの申込フォー
ム、または下記のフォームに記入し、送信を押してお申し込みください。
https://japan-logotherapy.com/contact-koenkai.html
講演会チラシ

(音声記録は7月中)講演「今なぜテレジンなのか」 野村路子氏(2024年7月21日10時~12時)「テレジン収容所の幼い画家たち展」浦和パルココミュニティセンター9F 24日14時まで

2024-07-22 09:26:26 | 生き方 考え方 笑顔 ロゴセラピー
1991年から展示会を行っている。
絵の話をしたいと思います。

パネルが経年劣化しています。
解説の中に子どもたちが映っているのを展示しています。

今世界では、飢えや砲撃で、病気でも治療を受けられない子など、そういった子どもたちと同じように、テレジン収容所の子どもたちを紹介したいと思います。

1989年2月、1989年はベルリンの壁がなくなった年、娘の卒業旅行を一緒に東欧を巡りました。
二人で行くから、やはり一人では行けない国に行こうと。
ビザをとらないといけない国は東欧だと。
面白かった、大変だった。ポーランドに行こう。
だったらアウシュビッツに行こうと。
今は観光地になっているが、多くの人に見てもらいたい。
当時はだれもいない。でも誰かの声が聞こえてくる感じ。
犠牲者が残したもの。靴が山のように。子どもたちの靴も。
それに違和感を。荷物は一人ひとりの持ち物。

2日後にプラハに入って、アウシュビッツで気持ちが落ち込んでいました。
偶然、子どもの絵が展示されていました。
英語の解説はありませんでした。
わからないけど、子どもの名前が書いてありました。
1930年何月、1940年何月、その下に書いてあった言葉。
当時地図にアウシュビッツの名前はなくオシフィエンチム と呼ばれていた場所。
ユダヤ人以外の障害者やジプシーも殺戮の対象になりました。
絶滅収容所とも呼ばれています。
プラハの小さな建物の展示で、その年に生まれた子どもがアウシュビッツで殺されたんだなと分かりました。
明るく生き生きした絵が多かった。
殺されるのになぜ、明るく、普通の絵だったのだろう。
そして名前が書いてあったのが素晴らしいと思いました。
でもなぜ名前があるのだろう?
その展示がチェコ語、ロシア語で、私が知っている日本語、英語、フランス語が通じない。娘が通じない時は日本語が一番良い。なぜなら感情がこもるのでと娘が言うので、日本語で話したら、係の人にトイレに連れて行かれました。
その建物を出て道を歩いている人に英語通じますかと尋ねたら、そのところの展示なら、あの建物の事務所に行けばよいと教えてくれました。
そこに古いパンフレットをくれて、それがフランス語だっったのでホテルに戻って読みました。当時私は3つくらいの収容所しかしらなかった。
テレジン収容所を知らなかった。
中継所として使われていた。
文化人が多く収容されていた。

ドイツはテレジン強制収容所は優遇していて、テレジンを使って国際社会にPRしていた関係もあり、文化活動を少し許していた。
子どもたちだけが収容され、そこで大人が子どもを教えていた。
絵も描かせていた。
子どもたちは15,000人いたが解放されたとき、100人が生き残った。しかし、絵は4,000枚残っていた。それをパンフレットで知りました。

こどもたちの絵が暗かったり、寂しかったら、私はこころが動かなかったと思う。
生き生きした明るい絵が多かった。
テレジンでは子どもたちは勉強した。
フリードル・ディッカー・ブランデイズという芸術家が絵を教えていたことが分かった。
絵を描くことで子どもたちの心をよみがえらせていた。

その絵を日本で展示しようと友だちに話したら、「良いのでは」というだけで、積極的にやろうという人はいなかった。
その絵を日本の子どもたちに見せたいと思った。
当時過程調停の仕事をしていた。
離婚が多いが、子どもたちに付き添って裁判官と話をすることもある。
鑑別所に子どもの絵が掲示してあるけど、その絵には心が動かない。
子どもに、「少年院に行かなくて良い」良かったねと言っても、子どもは良いと思わない。「学校に戻れるのよ」と言っても、別にと。
そこの絵はお手本通りの絵だった。
しかしテレジンの絵は子どもたちが生き生きと描いていた。
この絵を日本で見せたいなと思った。
ちゃんと大人がやれば、子どもたちは描けるのだと。
1年経過してもやはりやりたいと思った。
チェコスロバキヤの大使館を突然訪問した。
でも言葉が通じるのだろうかと不安になった。
受付は日本人。
一等書記官の方は日本語が上手いので良かったが、写真のことは知らなかった。
その人はプラハに生まれ育ったけど「知りません」と言われた。
彼はとても誠実な方で、本国に問い合わせしてくれた。
チェコスロバキヤは当時ソ連の支配下で、ホロコーストを教えていたなかった。
その方は、日本に3年おられた。日本で行った展覧会に来てくれた。

帰るとき、「私は国の歴史をあなたのおかげで知りました」と言ってくれた。
そのおかげで1991年から展示会を行えるようになった。
ユダヤ人コミュニティーに子どもたちの絵は保存されていた。
その団体からもお礼を言われた。
絵を借りた。

実物の絵が来ると思っていた。
絵は傷んでいて動かすことができません。
絵の写真を撮って、そのフィルムを差し上げます。
その永久使用権をあなたにあげますと言われた。
大使館を通して生き残りの人の内6家族と連絡を取ることが出来た。

テレジンに移る時は1家族、最大50kgの荷物だった。
学用品を持って行って良いよと両親は行ってくれたそうだ。
フリードルさんは荷物に、多くの紙や絵の具、ひょっとして子どもたちと会うかは分からなかったがそのときのために。
テレジン収容所では皆が協力してくれた。
封筒、包み紙、ダンボールなど。
それに絵を描いていたことが分かるように思って、何度も何度もお願いした。
多額の保険をかけることを要求された。1,000万円の保険。スティールのケースに。
封印がされいる。絵のケースが鎖を腕に付けてと言われたけど、それだけは許してもらって、6点の原画と150枚のフィルムを日本に持って帰れた。
何人かの友人たちが手伝ってくれた。
同級生の男性、マスコミに勤めている、厳しいことを言われた。
日本は世界の名画が見られる。原画は6点、人は来ないよと。
でも多くの人が見に来てくれた。
子どもを連れてくる人も多かった。
最初は熊谷市の八木橋デパートだった。
その次の展示が大宮のそごう。
受付にいたら、子どもが来て、「おやつあげるよ」と。
絵の中にアーチがあって、「幸せの国」に入れる。1コルク。
籠を持った天使。豚やハリネズミにもフォークが突き刺さっている。
その子に飴をあげると。この子に見てもらっただけで良かった思った。
子どもたちは子どもの気持ちで分かってくれる。
自分たちは今幸せでもそうでない子どもたちがいたことを、明るい絵から感じ取ってもらう。
子どもたちは絵だけでなく、詩を書いていたこともわかった。
大使館の方が英語に訳してくれて、そして日本語に訳した。

絵の展示を私は1年で止めるとつもりだった。
新聞に私の名前とか住所が載って要望が来て、私から知り合いに頼んだりもして、23か所、札幌から鹿児島での展示ができた。
8万2千人が泣いたとの新聞記事が載ると、私たちも見たいと全国から言われた。
それから30年以上続いている。
私は今は80代後半、50代後半で初めて、今も続いている。

家を描いた絵が多い。4,000枚見ていない。300枚の絵は見ている。
300枚の中で、家を描いた絵が多い。次に花と蝶々、街の風景。
子どもたちは家に帰りたかった。
この道を走って帰ったら家に帰れる。その思いが強くあったと思う。
私の子どもも学校で家の絵を描いた。
当時団地に住んでいたけど、家の絵は資格ではなく、三角屋根の絵を描いていた。
テレジンの子どもたちの絵は、家に続く道を描いていた。
後になって思うのは、なんか声がする。聞かないといけない。
家に続く道があるのは子どもたちの願望が描かれているのだと。

絵を教えた先生の存在が大きかった。
フリードル先生は、子どもたちに絵を描いたら、「名前を書きなさい」と言って書かせていた。
収容所では、番号で呼ばれていた。
番号札はダンボールに番号が書いてある。
この番号がわからないと食事も摂れない。
フリードル先生は、名前を書きなさいと。
名前のない絵は未完成の絵。
絵を描く時間は短く、一回で描き終わらない。
次の時間に描こうと思って、毎日点呼があり、体が弱っていると東へ(アウシュビッツ)送られた。
病院の風景、女の子。この絵を頼んだ頼んで日本に持ってきた。
絵の女の子の髪の毛は毛糸で、もう一人は自分の髪の毛で切って貼っていた。
この絵は完成していない。医者の頭は鉛筆で髪を描いている。
名前もなく、この絵を描いた女の子は亡くなったのだなとと思った。
多くの人が触りたくなる。これぽっちの髪の毛しか残せなかった。
今はパネルなので、触って大丈夫です。

日本での展示を進めていた。
1990年、この絵が初めて世界に出る予定だった。
「アウシュビッツで消えた子どもたちの絵画展」を開催する会を作ってやっている間に、準備がかかって、イタリアに先を越された。

プラハのシナゴークに犠牲になった人の名前が書いてある。
600万人犠牲者の正確な数字はわからない。
ナチスが調べた当時のユダヤ人は1,100万人いた。生き残った人を差し引いた人数が推定、600万~650万人が犠牲になった。
チェコスロバキヤに住んでいたユダヤ人の名前。それだけ名前を大切にしようとしている。
アウシュヴィッツが解放された日を記念日にしている。
一人ひとりに顔があった、名前があった。それを大事にしていると。

生き残った人の話、100人生き残っていたと本に書いてあったので、誰か紹介して欲しいと頼んだけど、それは難しいとの返事。
テレジン収容所が出来て50年、1991年のアニバーサリーを行い、ユダヤ人コミュニティが調べて分かったのは、消息が分かったのは23人だけだった。
その人にお手紙を英語で書いた。
そこで過ごした人がどうだったかと、何度も手紙を出したけど、返事が来ない。
またお断りの返事が。
イスラエルにはテレジンに行った人の集まり、キブツがあるから行ってみたら良いと言われて、行った。
ナチスは自分たちの証拠を燃やした。
しかし、紙が残っていたので見たら、それが子どもたちの絵だった。

キブツでその方が待っていてくれた。
その方はが女流画家を尊敬して、手伝っていた。
フリードル先生の教えを、ビリー・クロアさんから聞いたら。
ビリーさんが、この近くに子どもで生き残った人が住んでいるよと紹介してくれた。フロントから、とてもステキな女性が立っていて、「私が生き残りよ」と。
リタ―・クリアさんの紹介で1929年生まれ。アンネフランクも同じ年齢。
これ以上の年でないと当時の記憶を覚えていない。
私は1937年生まれ。
市ヶ谷で焼夷弾落ちて焼き出されている。
記憶が断片的。姉は記憶している。
ちょうど記憶を語れる年齢かなと。

ビター・クラウさん、チェコで講演を頼まれて、チェコにも家がある。
私より元気でイスラエルとプラハを往復している。
日本に招いたことがある。彼女はテレジン⇒アウシュヴィッツ⇒ベルゲン、手に番号が刺青されている。
どうしてもマスコミがインタビュー、その刺青を写真を取りたいという。
それを彼女に謝ったら、あなたは、「ごめんなさい」と謝る必要はない。
私は語ることが求められている。
だからあなたは「ありがとう」と言えばよい。
私は生き残っているのだから、語るのがキムなのよ。
誰だって辛いことを語りたくなかったのだから。

私は今度私がたくさんの方に語りたい。
私は話を聞いてしまったのだから。
大人がきちんと子どもに語ればどんな状況でも、子どもたちは普通の絵を描ける。
私はまだ十分語っていないと思う。

もう一人元気な生き残りの方はヒルガさんは外には出られないけど。メールや電話はできる。
6人の内3人は亡くなっている。もう一人の方は消息がわからない。

子どもたちの絵には、花と蝶々、たくさんの蝶々。
蝶々は花の咲くところへ飛んで行ける。
蝶々だったら。

紙芝居をライアさんを描いた紙芝居。
ライアさんからいただいたブローチも蝶々。
「伝える努力」
こんな話は聞くのは嫌だと言う人に、現実にあったのよと言っていまし。
事実を知る努力
「知る勇気、伝える努力」

「テレジンからの子どもたちの贈り物」(紙芝居)



感想
 アウシュヴィッツではだいたい14歳以下はガス室に送られていたようです。
絵に描かれた子どもの生まれた日が絵に書いてありました。
そしてアウシュヴィッツに送られ年月が書いてありました。
絵のほとんどの子どもは1~2年以内にアウシュヴィッツに送られていました。
アウシュヴィッツでは明確な年齢でのガス室送りの年齢は決まっていなかったようですが、だいたい14歳が分かれ目だったようです。
絵に書かれていた子どもの年齢はほとんど皆14歳以下でした。
絵画のフリードル先生もアウシュヴィッツに送られたそうです。

 午前中、野村路子さんのお話を伺い、その後、展示を見ました。
ネットで調べると、フリードル先生はチェコを去るパスポートを友だちが手配してくれましたが、子どもたちと一緒に残ると言ってアウシュヴィッツに送られました。

 蝶の絵が多かったとのこと。アウシュヴィッツのガス室に蝶の絵が描いてあったそうです。
エリザベル・キューブラ=ロス女史がそれを見て、ご自分の活動団体の象徴に、蝶の絵を使われています。
手から新しく飛び立つ
蝶は共通しているように思いました。

第4回;NHK『こころの時代』 ヴィクトール・フランクル第四回人生という「砂時計」(死を考える)

2024-07-21 06:58:06 | 生き方 考え方 笑顔 ロゴセラピー
 ビルケナウ 煙突から数メートルの高さに不気味な煙。あそこからお友達が天国に上っている。
『夜と霧』に強制収容所の体験。死体の山。
フランクルの家族も収容所で命を落とした。彼らが生きてきたことは無駄だったのか? どんな意味があったのか? フランクルのずーっと考えてきたテーマ。
4歳のとき、自分もいつか死なないといけないということで初めて気づき大きな衝撃を受けた。
生きることに何の意味があるのだろうか?
人生の意味が少なくなっていってもずーっと考えてきた。
死ぬのは怖いですか?
怖くない。(フランクル)
大きな意味で正しいことをしなかったらそのことを悔いる。(フランクル)

フランクルの死生観について考える。
人生という「砂時計」
フランクルは死をよく考えた人。
私たちは「死を考えない」生き方をしているかもしれない。
フランクルは父親、母親、妻を失い、過酷な試練。フランクルは死をどう考えたか。
フランクルは「何のために生きているのだろう?」ち常に考え続けた。
強制所の中でも、何百、何千の人の死を見てきた。
それがフランクルも大きく影響を受けた。
砂時計の上にはいろいろな可能性という砂を持っている。
人の人生を砂時計に例えた。
上にはこれからの未来がある。それはこれから起きること。
砂時計の狭い部分を通って。
下には狭い部分を通過した砂。
この狭い部分を現在を示している。
私は何千何百、どの砂粒を下に落とすかの選択肢がある。
フランクルは「そのとき、どうするかの決断の自由の場がある」という。
強制収容所には自由がないように思えるが、何かをする自由がなくても、精神はどうするかの自由がある。
砂粒が下に落ちたときに永遠のものになる。どう自分が対処するか。
自分の選択の結果が下に残る。
下に凝固剤が入っているように、落ちたままの形は変わらない。
永遠に保存されているものだとの考え。
大切にとっておかれる。

永遠に残るというのが興味深いところだが?
その人の過去、生き様が消えずにあると思うと、救われる気持ちになる。
残るだけでなく、それを思い出す人がいなくても、事実として永遠に残される。
何百万人がホロコーストで殺された。一人ひとりの名前があり、生きたんだと。
ホロコーストでなくても、死んでいった多くの人がいてその事実は残る。
一度起きたことはなかったことにできない。

フランクルは多くの死を見てきたので、一人ひとりのいのちは大切だと。
その事実が尊い。
できれば価値のあるものを砂時計の下に落とす。
何をやっても自由だと。
ヒットラーのように何百万人を殺す。
お母さんは子ども三人育て、ガス室で殺される。
その自由に価値があるか。
一瞬一瞬を価値のある生き方をしたい。
フランクルが一人生き帰った。
なぜ自分一人が生き残らなければいけないのか。
死んだ人を無駄にしないをフランクルは大切にしたいと。
死んだ人の分まで。

日めくりカレンダーの例え
過ぎ去った日を元に戻すことはできない。
日めくりカレンダーが毎日残りが薄くなっているを見ている人。
カレンダーから切り取ったカレンダーを積み重ねている人。
そのカレンダーの裏にメモを書いていく。
フランクルはカレンダーの裏に楽しいこと、辛いことを、一日一日を大切にしたいとの思い出日めくりカレンダーの例えを使った。
「今日も一日終わったな」と感謝の気持ちで過ごす。

相談に来る人で、「嫌なことばかり」と言う。
毎日良かったことを5つ書いてください。
次回来たとき、何もありませんと。
朝のお茶が美味しかったなど。
その練習をしていくと、自分の時間の使い方が深まっていく。
感謝して生きると、人生の生き方が変わってくる。
高齢の方、人の世話になる。
生きていても仕方がない。
そんな人にも良かったことを5つ書いてもらう。
何もなかった人が見方が変わる。
まなざしが変わってくる。
感謝の気持ちを持つことができれば、介護されている高齢者でも人生が変わって行く。
ウィーンで講演したとき、「憎しみを感じない。感謝の気持ち」を感じるとフランクルは話した。
憎しみで生きる人、それが爆発する人もいる。
「悪の鎖」はどこかで断ち切らないといけない。
あなたがやりなさいではなく、自分がやらないとそれが終わらない。
世界中の見ても、カザの出来事も、暴力でやられたら仕返しをする。
それは次の悪の鎖が出来てくる。
自分たちは関係ないと思うのではなく、悪の鎖を断ち切った人が居たと。
例外的な人かもしれないが。

人が生まれたきたくさんの可能性が詰まっている。
残された砂が少なくなると悲観的になる人が多い。
その人は収穫が終わりに近づいている畑を見ている。
その人は収穫を終えた納屋のたくさんの収穫物を見ていない。
刈り取り機から見ていると、どんどん減っていくこれから刈り取られる農作物を見ている。
収穫されたものを見ていない。
こんなにたくさんの収穫物があるじゃない。
それを見てもらうのは力になる。

楽しいことがないということはないはず。
日々それを見つける実践。
フランクル的な人生の見方、それで一瞬一瞬が変わってくる。

シニアの合唱団をやっている。
私は甘やかさずに厳しくやっている。
皆厳しいと言うが、楽しくやっている。
三部合唱もやる。

自分がどう自覚するかによる。
一瞬が大切である。
人間は有限である。
それがつながっている。
終りがなければ、この番組も今ではなく50年後にやろうと考えるかもしれない。
有限だと今の時間を大切にしようとする。
砂時計の何を落とすが大切になる。

実存主義。
今も過去もない。
フランクルはそれに過去は収穫物と考えた。
今という時間を大切にする。
砂時計のイメージはわかりやすい。
まさに今どの砂を落とすか。
人生より大きな、地球環境がずーっと続くと考えると地球を大切にしない。
死を考えることで今をより良くする。

砂時計の上の砂がなくなるとそれが死。
自分が過去としてある。
人は一瞬一瞬の行動で自分を作り続けている。
死んだときにすべてが定まる。
人間は死ぬことで世界の中に出される。
死で人生が完成する。
その人自身がはっきり出てくる。
本人はわからない。
亡くなってその人の人柄がわかる。

人は死によって完成される。
それなら必ず訪れる死をどう考えるか。
死は寝ている子を優しく目覚めさせる母親の行為。
どんなに優しく手が触れてもそれを感じることはできない。

死とは精神的次元からみると完結させるもの。
死とは冷たい手が永遠の眠りに連れて行くのが一般的なイメージ。
フランクルが強制収容所で書いた戯曲がある。
ジャガイモ盗んで食べた。その人は暴力を受けて殺される。
それを天国から見ている母親がいる。
天使に頼んで自分のところに子を呼び寄せる。
辛いことからの解放とのひとつの見方。
それも一瞬一瞬を大切にすることに繋がる。
自ら死ぬことを肯定するようにも聞こえるがそういう意味でない。
死によって新しく生きることに繋がる。

この世に生まれるのが神様からの贈り物と考えると、終わりが悪で終わらせていけない。
どう生きているか、その積み重ねが死。
人生からの最後の問いかけ。
どういう人生を創りたいか。
どんな人間にも何か使命を与えられている。
どんなミッションを与えられているかわからない。

ウィーン中央墓地、ここにフランクルは眠っている。
フランクルが大切にしていた一つは登山。
輝く日々それが過ぎ去ったのを嘆くのを止めよう。
かつてそれがあったのを喜ぼう。

勝田が地元で取り組んできたこと。
高齢者と歌うことで時間を分かち合っている。
年齢を重ねた今こそ、一瞬一瞬を大切にできる。
(参加者の声)
歌うより、祈りのような気持を込めて歌っている。
歌うのは本当に楽しい。
「ふるさと」を皆で日本語で歌う。



感想
 砂時計の例え
未来は前にあるが、砂時計の例えでは、未来がこれから訪れると考えます。
どの砂を落とすかの自由が、選択肢が自分にあります。
 死を考えることで、今を大切にしようと思う気持ちが高まってきます。

 何もできない。人生に意味がない。生きる価値がない。
それは自分がそう思い込んでいるだけなのかもしれません。
あるいはそれまでの親や先生や周りから、自分の今の考え方は大きく影響を受けているのかもしれません。
 砂時計の例え、どの砂を下に落とすかはどんな時にでも選択肢なのでしょう。