・ベルリン市の中心部に、「ドイツ抵抗運動記念館」という世界的にもよく知られた施設がある。
・反ナチス運動とは、ことばのとおりヒトラー独裁やナチス体制を否定し、政権を打倒しようとして人々の活動を指す。今日広く知られているのは
1944年にシュタウフェンベルクら国防軍の軍人が首謀したクーデター「7月20日事件」
ショル兄妹らミュンヘン大学生による「白バラ」グループの活動
・今日のドイツで、救援者たちは「沈黙の勇者」と呼ばれる。それはホロコーストを生き延びて戦後を迎えたユダヤ人たちが名づけた感謝と敬意の表現である。
・ユダヤ人に手を貸した「沈黙の勇者」の正確な人数は今なお不明だが、これまでの研究を通じて少なくとも2万人を超えるドイツ市民がこうした行動に関与したと考えられている。
・ナチス政権下で1941年10月にユダヤ人の強制連行が始まると、一部のユダヤ人は収容所移送を逃れるため地下に潜伏した。その数はドイツ全土で1万人から1万2千人とされ、およろ半数に近い5千人が生きて終戦を迎えたという。潜伏者の二人に一人が生き延びたことは、当時の状況から考えて驚異的である。
なぜ、それが可能だったのか。ゲシュタポ(秘密国家警察)が監視の目を光らせるドイツで、ユダヤ人が独力で生き延びることは不可能である。彼らのために隠れ場所を提供し、食べ物や衣服を与え、身分証明書を偽造し、あらゆる非合法手段を通じて匿った救援者がいたからこそ、生き延びられたのである。
・極限状況におかれたとき、人としていかに決断し、行動するのか。・・・。それは、現代日本を生きるわたしたちにも通じる示唆を与えてくれるはずだ。
・ナチスは、人びとの行動を意のままに操るため、国民同士の相互監視を最大限に活用した。密告が奨励され、いささかでもナチスに批判的な者や、ユダヤ人と親しくする者がいれば、相手が誰であれ躊躇なく報告するように指示された。
・こうした風潮のなかで、ナチス政権初期にはユダヤ人の苦境に同情的だった人々も、周囲の目を恐れ、次第に見ぬふりに徹するようになっていった。
・ドイツ人は知っていた
ドイツ人たちは次第に、ユダヤ人が強制労働先や自宅から連行され、列車に詰め込まれてどこかに送られる様子を街なかで目にするようになった。
・さまざまな隠れ家
潜伏ユダヤ人がまず必要としたのは隠れ家だった。潜伏先は救援者の自宅や救援者が所有する商店、工場から倉庫、ボートハウス、別荘やコテージまで多岐にわたった。
・偽造身分証明書は、自分が「ユダヤ人でない」ことを公的に証明する唯一の手段であった。身分証明書の携帯が義務づけられていたナチス・ドイツで、ユダヤ人が潜伏先から一歩でも外に出ようとすれば、偽造お身分証明書の所持は必須だった。身分証明書を入手する方法は三つあった。救援者から譲り受けるか、闇で入手するか、盗むか、である。
・ベルリン市ハッケシャーマルクトを管区とする第十六警察署の職員たちは、職務上の権限を利用してユダヤ人の救援に手を貸した。彼らはユダヤ人たちのもつ証明書が偽造であることを承知のうえで警察署の公印を押し、「正式な証明書」としてお墨付きを与えた。
・多くの潜伏者は病になっても医師にかかることも、薬を手に入れることもできなかった。さらに、潜伏者の病は彼らを匿う救援者にとっても深刻な問題だった。罹患した病気が感染症であれば、救援者は近隣住民に一切悟られないよう、家じゅうを消毒する必要があったし、病が悪化して死亡すれば、秘密裡に遺体を処理しなければならなかった。ベルリン市の公園には、朝早く身元不明の遺体が転がっていることがあった。
・「限界」のなかでできることを
救援者たちがユダヤ人に手を差し伸べた動機はさまざまだった。だが、救援者たちの事例から見てとれるのは、彼らを最後に行動へと駆り立てたのは多くの場合、政治的な主義や信条よりも、むしろ人間としての素朴は心情だったであろうということである。・・・。むしろ戦火や密告に怯えながら、それでも「自分にできる精一杯の」行動を探ろうとした人々こそ、ユダヤ人に手を貸した幾多の無名市民たちだったのである。
・潜伏ユダヤ人たちが自分だけの力では生きられなかったように、救援者たちもまた、自分に力を貸してくれる協力者や理解者を必要とした。
・ひとりの潜伏者に対して複数の救援者が関与するというのは、具体的にどのようなことだったのか。それには二つのパターンが存在した。
①ユダヤ人自身が複数の救援者に対して個別に助けを求める場合であった。
②潜伏者から助けを求められた者がそれを自分の救援仲間に相談し、互いに協力してことにあたる場合であった。
・ユダヤ人潜伏者が一軒の家に長くとどまれば、必ず近所の者たちに怪しまれる。そこでミュラーたちヴェルテンベルク内の聖職者たちはたがいに連携しあい、近隣住民に気づかれる前に潜伏者を次の救援者もとに送り出す方法を考案していた。
・救援者の助力は心理精神面にも及んだ。片時も解放されることのない緊張感と恐怖はクラカルアー夫妻の心を容赦なく蝕み、ふたりは神経衰弱の状態となった。
・国内最大級の救援ネットワーク
元弁護士のフランツ・カウフマンが、ベルリンを中心に展開した活動はその典型である。総勢で400人を数えたとされるカウフマンの救援者ネットワークは、ドイツ国内でも最大規模のものであった。
・強制移送から潜伏ユダヤ人を守るためには、偽造身分証明書によって彼らを「ドイツ人」にしてやる以外に方法がないと悟ったカウフマンは、身分証明書の偽造に本格的に着手した。可能なかぎり精巧な証明書を大量に制作し、潜伏者たちに行き渡らせようとしたのである。
身分証明書の偽造は、ユダヤ人をドイツ市民へと生まれ変わらせるためのいわば「錬金術」だった。カウフマンはユダヤ人を守るため、不法国家に不法行為をもって対峙したのである。
・ナチスが台頭するまでジャーナリストとして活躍していたヘイマンは、カウフマンの人間性を高く評価していた。彼は言った。カウフマンはたしかにユダヤ人だが、潜伏ユダヤ人である自分たちとはまったく立場が違う。生粋のキリスト教徒で、ワイマール期には政府の要職を歴任してきた。しかもドイツ人の妻は貴族階級の出身だ。彼はダビデの星の着用を免除されているし、彼の身分証明書には、ユダヤ人であることを示す『J』の印もない。彼は「ドイツ人」としての生活を許されている身分なのだ。にもかかわわらず、彼はユダヤ人同胞を助けるために、あえて途方もない危険を背負う道を選んでいるのだ。彼は、用心や警戒のために行動しないのは臆病者だと考えている。彼はこう言うのだ。「敵の塹壕を攻撃したいならば、用心などしている余裕はない。危険を直視する勇気が必要なのだ」と。
・1943年8月19日、カウフマンは逮捕された。きっかけとなったのは、8月7日ゲシュタポに届けられた差出人不明の一通の手紙(密告)であった。
・逮捕から半年が経過した1944年2月17日、カウフマンはザクセンハウゼン強制収容所に移送され、その日のうちに射殺された。58歳であった。
・逮捕されたユダヤ人のなかには、事件後は「捕まえ屋」となって生き延びたものもいた。捕まえ屋とは、ゲシュタポの指示のもとでユダヤ人同胞の逮捕に協力するスパイのことである。
・「捕まえ屋」は、自らの命を守るためにユダヤ人同胞を売ったが、常に同胞の敵として行動したわけではない。ときには目撃した同胞をわざと見逃したり、ゲシュタポの情報を伝え警告を促してやることもあった。そうした行為がゲシュタポに見破られれば、自分の身を危険にさらすと承知のうえでの行為である。しかも、捕まえ屋たちが手を貸す相手は、必ずしも親類や友人・知人に限らなかった。こうした一見矛盾する行為は、捕まえ屋たちにとってわずかに両親緒呵責を鎮める手段であったが、戦後の「捕まえ屋」にはユダヤ人同胞による厳しい追跡と断罪が待っていた。
感想;
アンネ・フランクを匿ったミーブ・ヒースさんの本『思い出のアンネ・フランク』 を読み、匿うことがどれだけ大変でリスクがあるかを知りましたが、他にも多くのドイツ人やユダヤ人同胞がユダヤ人潜伏を手伝っていたのです。
「7月20日事件」は知りませんでした。
「白バラ」事件はTVと本で知りました。
大学側が積極的にナチスに協力して関与した学生をナチスに密告したのです。
大学の先生がナチスに協力していました。
戦後最大の哲学者と言われているハイデガーはナチスに協力しました。
この本を読むまで、カウフマン氏のことは知りませんでした。
同胞のユダヤ人を助けることをしなければ、もっと長生き出来ていました。
もし私が当時ドイツに住んでいて、ユダヤ人ならどうしたか?
①ヒトラーがユダヤ人を迫害する前にヨーロッパ大陸から出る
②潜伏する
③何もしない(結果として強制収容所へ)
④「捕まえ屋」になる(強制収容所のカポも似ている)
①は財産や仕事を失います。
潜伏して助かる保証はありません(結果として半数が生きのびたが当時はわからない)。
もし私がドイツ人で当時ドイツに住んでいたらどうしたか?
①何もしない
②ユダヤ人を助ける
・匿う(どこまで支援するか)
・匿う人を支援する
・お金をもらってビジネスとして匿う
③密告する(お金をもらうことも)
まさに今それが現代社会においても問われているように思います。
①斎藤知事に投票した人
②斎藤知事の対抗馬に投票した人
③それ以外の候補に投票した人
④選挙棄権した人
⑤立花孝志氏のように、誹謗中傷などで斉藤元彦氏の問題を追究する人を攻撃する人(SNS含め)
⑥自殺された前県議の竹内英明氏 のように斉藤兵庫県知事の問題を追究する人
まさにどう行動するかが問われたのです。
結果は再選で、追究した人がSNSなどで攻撃され精神を病み自殺を選択されました。
兵庫県出身者として恥ずかしいです。
兵庫県民はここまでバカなのかと思ってしまいます。
愚民が愚政を生むと言った福沢諭吉翁の通りのように思います。
福沢諭吉翁はだから学びなさいと『学問ノススメ』で述べています。
ただ、兵庫県だけでなく、他でも似たようなことが起きているように感じています。
先ずは事実/歴史を知り、学ぶことなのでしょう。
多くの情報から何が真実かを判断できるだけの知恵を持ちたいものです。
間違った情報にダマされないためにも。
そして考える。
その状況が自分の目の前に起きる前に考えることが良い選択肢を実践できるのかもしれません。
そのときの状況の意味を考えて行動することなのでしょう。
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