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「ながい旅」大岡昇平著 ”第二次世界大戦中、空爆を行った米軍搭乗員の処刑を命令した容疑で、B級戦犯として起訴された東海軍司司令官・岡田資中将”

2024-09-20 17:44:00 | 本の紹介

・日本政府は米世論に答えるように、1929年10月19日、日本防衛総司令官名で、次のように布告した。
大日本帝国領土を空襲し、我が権内に入れる敵航空機搭乗員にして、非道の行為ありたる者は、軍律会議に附し、死又は重罰に処す。満州国又は我が作戦地域を空襲し、我が権内に入りたる者亦同じ。
非道とは「人道に反する」無差別爆撃のことである。右に対し、アメリカ軍は翌18年4月12日、左の声明を発した。
「アメリカ政府は、このような野蛮な無慈悲な行為に対して、責任のある日本政府の将校に相当な処分を加えるつもりである」
 そして戦争法規を改正し、たとえ上官の命令であっても、人道に反する行為を行った下級者も処罰を逃れないとした。連合国の名で日本とドイツ政府に通告した。国内および外地で、B・C級戦犯が処刑されたのは、この条項によってである。
 アメリカ軍でも上官の命令は絶対だったが、一般刑法には場合によっては不服従を許す条項があり、それを取り入れたといわれる。ところがこれは上官の命令は朕の命令と心得よ、とさとされた日本兵にとっては、理解し難く、また実行できない事柄であった。
 同じ条項がニュルベルク判決にもある。一般に戦犯裁判は、戦勝国が自国の法律によって敵敗国の書兵を裁いた不当なものであったことは、その後、戦勝国がアルジェリア、ヴェトナムで行ったことによって、立証されている。

・B29による空襲は、サイパンのB29爆撃司令官が、軍事工場目標主義のハンセルから、ヨーロッパの無差別爆撃の指導者ルメイに交代したことによって様相を一変する。昭和20年2月19日の東京空襲から、夜間の焼夷弾爆撃中心になったのである。
昭和17年10月19日の「布告」と同日付で日在の軍律を定めた。
第一条 本軍律は帝国領土、満州国又は我が作戦地域を空襲し、東部、中部、西部、北部、朝鮮及台湾各郡の権内に入りたる敵防空機搭乗員に之を適用する。               
第二条 左に掲ぐる行為をしたる者は軍閥に処す。
1.普通人民を威嚇又は殺傷することを目的として爆撃、射撃其の他の攻撃を加ふる行為。
・・・
第三条 軍閥は死とす。但し情状に依り無期又は10年以上換金を以って、之に代ふることを得。
 これは10月15日のドゥリットル搭乗員処刑後に作られたので、「附則」の二で施行前の行為にも適用とかかればならなかったのである。これを事後法といって、法律一般にかかわる禁止条項で、いかにも苦しい。

・岡田中将は、裁判が始まってから、起床は毎朝五時、六時半頃出発、午後六時まで帰れない。それまでに、後に遺稿『毒箭』にまとめられる仏教に関するノートを書き始めていたが、横浜法定が始まってからは、暇がなくなった、とこぼしている。
 『毒箭』はむろん毒を塗った矢のことである。矢に当たったら、まずそれを抜かねばならぬ。矢が当たったままで、どうしたらよかろうかとか、毒薬の成分がどうかとか考えるのは愚の骨頂である。これは物だが説いた譬えで、「阿含経」と「大涅槃経」にあるという。

・裁判は公開であるが、まだ戦後の生活は苦しく、傍聴に来るのは、近親者だけである。
 東海事件が報ぜられたの21年1月で、米軍の軍内紙「スターズ・エンド・ストライブス」に記事が出てからであった。市ヶ谷法定のA級戦犯裁判はまだ結審しない。しかし、21年10月キーナン検事は天皇と財界に戦争責任なし、と声明している。22年3月、トルーマン・ドクトリン発表、日本を極東における対ソ砦とする方針がきめられている。

・岡田中将の証言で注目すべき細目を列記すれば――
1.作戦中は命令に違反しても、その目的が達せられればよい。
2.命令に違反しても、精神は残る。
3.略式裁判による結果を、第一総軍に報告するのを怠った不備は認める。
などであった。

・筆者が岡田質中将の事蹟に惹かれたことの第一は、横浜法定における「法戦」を、本土決戦の延長と考え、裁かれるとの受身の意識を持たずに、戦おうとしたことである。第二は日蓮宗信仰であった。

感想
 岡田中将のことは知りませんでした。
岡田中将は責任を一人で受ける覚悟で裁判を戦ったようです。
処刑を覚悟して挑まれたようです。
 上から爆撃機搭乗員を処罰するようにとの指示がありました。
それに従って、捕虜を処刑しました。

 一方、米国は「捕虜を処刑した責任者は処罰する」と警告を出しており、その通りに行いました。
 A級、B級、C級戦犯の裁判です。
下記もその一例です。

 戦勝国の法律に従って裁判が行われたのです。
日本の法律というか日本の軍法に従ったことが、捕虜殺害という国際法並びに米国の法律に違反しため、上官の命令で捕虜を殺害した実行者と裁判の対象になったのです。

 このような本を読むと、もっと日本の軍隊がしてきたことを、連合国が何に基づいて裁判をしたのかを知らなければと思いました。

 この問題は「会社の上司から不正を指示されたらどうするか?」という問題にもなります。
 過去から学び、それを生かし、不正な指示があっても決して従わないことが自分の人生を危機から守るのかもしれません。
 ただ会社では、軍法に乗っ取り処刑も含めた処罰という厳しいことはなく、ボーナス減らされたり、左遷させられるだけですから、気持ちの持ち方一つです。
 不正なことを行うとずーっと心が痛みます。
それよりも、自分の力を蓄えて別の会社に転職するのが良いのでしょう。
ブラック企業で心身を壊す前に逃げることです。

 上が交代して、軍事施設から街全体を爆撃する方針に変わったそうです。
トップの考え方でも中央から命令があっても、それをどう解釈して実施するかは、そのリーダーによって左右されるようです。

「毒箭」の仏教の譬えの教えは、しっかりと心に落とし込んでおくことのように思いました。

 小林製薬の健康被害が発生しているのに、原因究明をしていました。
まさにこの譬えのような愚かなことをしていたようです。

東海軍事件 POW研究会よりhttp://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/yokohama.html#10
(GHQ報告書16号、73号、209号、261〜267号、1502号  再審記録251号、289号)
東海軍(第13方面軍)では、1945年4月7日に名古屋市近郊で捕獲したB29搭乗員3人は東京に送り、4月24日に静岡県沖で捕獲したB29搭乗員3人は名古屋捕虜収容所鳴海分所へ送った。これらのB29搭乗員は市街地無差別爆撃でなく、軍需工場を爆撃したものであったため、捕虜に準じた扱いを受け、終戦後本国へ帰還することができた。
しかし、それ以後に捕まった38人のB29飛行士は、市街地無差別爆撃との理由で処刑されるに至った。
(A)軍律裁判による11人の処刑
裁判の期間:1948年1月22日〜3月4日
1945年5月14日の名古屋空襲時、名古屋市西区児玉三丁目と伊勢湾に撃墜された2機のB29の搭乗員11人が捕虜になり、東海憲兵隊を経て東海軍司令部(名古屋城内)へ送られた。
彼らは7月11日に東海軍の軍律会議にかけられ、2時間ほどの審理の後、無差別爆撃との理由で全員が死刑判決を宣告され、翌日、東春日井郡小幡ケ原射撃場で斬首により処刑された。
戦犯裁判の結果は、軍律会議の検察官役を務めた伊藤信男法務少佐が死刑(再審で無期懲役)、審判官役を務めた松尾快治少佐が懲役20年、陪席審判官役の山東広吉法務中尉が懲役20年、同じく片浦利厚中尉が懲役15年となった。
(B)軍律裁判なしの27人の処刑
上記以後に捕まった27人の搭乗員は、軍律裁判も省略し、2回にわたって斬首により処刑された。
6月28日   瀬戸市赤津町(?)宮地の山中で11人を斬首。
7月14日   東海軍第2兵舎裏で16人を斬首。この処刑は、軍司令部に勤務する軍人・軍属100人ほどが遠巻きに見守る中で行われ、刺突演習という残酷な方法がとられたとの証言もある。
これら38人の飛行士の遺体は現場に埋葬されたが、敗戦後東海軍は証拠隠滅をはかり、遺体を再発掘して火葬にした。
戦犯裁判において、東海軍司令官の岡田資中将は自己責任を認め、部下をかばうとともに、米軍に対しては「無差別爆撃こそ国際法違反であり搭乗員の処刑は正当。軍による搭乗員の虐待はなく、むしろ激高した民衆から危害を加えられるのを防いだ。斬首刑は、日本古来の武士道にもとづく処刑方法であり、野蛮とは言えない」と主張して「法戦」を挑んだ。

判決の結果は、死刑執行は岡田資中将のみ。高級参謀の大西一大佐が死刑(再審で無期懲役)、米村正熊大佐が懲役25年、足立誠一中佐が懲役17年、保田直文少佐が懲役15年、処刑実行者の山田仂雄中尉が懲役20年、成田喜久基中尉が懲役30年、菅井康治少尉、田辺光夫見習士官、谷田具潔見習士官、桑田春雄曹長、川上末高軍曹、鶴田義亮軍曹、信田英司軍曹、山本英三郎軍曹、近藤清元軍曹、藤田隆義軍曹、古山又一軍曹、土山敏之伍長、林重朝上等兵が懲役10年となった。