清盛と後白河院のかけ橋
「清盛と後白河院、二人の権力者の均衡は滋子によってかろうじて保たれていたのです」
まず、≪えっ、そうだったの?≫が2題。
冒頭のナレーション、確かに「滋子の心は滋子のモノ」と言い切る自由奔放ぶり。後白河院に惚れ、後白河院の心を射止め、平家と後白河院の間に立ち、権力を振るい、帝の母にまでなった。
しかし、清盛と後白河院をつなぐ架け橋を意識していたようには見えなかった。
それが今週、いきなり、慈愛に満ちた女性となっていた。
もうひとつの≪えっ?≫は、
清盛の思い描く国の姿、
①武士が世の頂に立つ
②北は蝦夷地から南は鎮西まで、人や物が連なり豊かに暮らす
もともとはこの二つであったと思われるが、先週は完全に①のみであった。
兎丸の死で改心?したようだが、(これも先週ではハッキリとした描写はなかった)、今週の清盛はそんな心の惑いぶりはなかったかのよう。相変わらず、回ごとにころころ変わる登場人物である。
で、今週の清盛はひとつ変なことをする。
「宮中行事にうつつを抜かしている暇はござらん」
信西を引き合いに出し宋銭の流通に協力してもらっていた西光の面子を息子たちの前で潰すとは……
……慢心しつつあるとは言え、自身の目指す国造りのためには、わざわざ西光といさかいを起こす必要はない。こんな失策まがいの事をいったい何故?
と思っていたら、今週の主題
滋子の太陽ぶり(慈愛ぶり)のためでした。
「いつの間にか、あやつはわしの先を行ってしもうておるのか」
「よいではござりませぬか、入道殿が何を思うていようと。法皇様は法皇様の思い描く世を目指せばよいのです。ご案じ召されますな。滋子がおります。王家と平家を取り持つは我が務めにござります」
ええ、そんな思いがあったの?わざわざはっきり口にするのが不自然。
そんなことを言ったら、後白河院がへそを曲げてしまうぞ!
「今謡など器に積る塵の如きもの、吹けば飛ぶようなものじゃ。清盛の泊のように世に役立つようなものではない。何より歌声は後の世に残すことは出来ぬ。ただそれ故にこそ、わしは今謡が好きじゃ。誰にも顧みられることなくとも、いつもそこにあり、そこにいるものを慰めてくれる、楽しませてくれる。わしは今謡が好きじゃ」
あなたもそんな殊勝なことを言って、気でも違ったのでは?
でも、なかなか良いセリフだなあ
「それが法皇様の目指す世にござりますね」
「滋子」
「法皇様、滋子の心は滋子のモノ。そして滋子の心は、法皇様のおそばに。法皇様の世が絶えぬことが、滋子の望みでござります」
手を取り、寄り添うふたり。
良い雰囲気、かなり羨ましい……
平家の慢心を快く思わない西光と成親に宴を振る舞い、平家との仲を取り持つ
後白河院の五十歳の宴で、清盛と後白河院に酌をする
「わしの目指す世にそなたは欠かせず、そなたの目指す世にわしは欠かせぬ。これより先も、共に登ろうぞ、誰も観たこともない高みへ」
と後白河院に言わしめた。
と、滋子の活躍によりすべてがうまくいくと思えた矢先、滋子の突然死!
良い事を言ったり、良い行いをしたら死亡するのはドラマの常だが、死因は何?お酒の飲み過ぎ?
それにしても、滋子の架け橋ぶりがこれまで全く感じられなかったのに、今回の持ち上げぶり……、先週の有耶無耶ぶりと言い、先が詰まっているため、寸詰まり?
【ストーリー】番組サイトより
1174年、大輪田泊はついに完成し、清盛(松山ケンイチ)が長年夢みていた宋との貿易が始められた。一門のさらなる発展をめざす清盛は、後白河法皇(松田翔太)と建春門院滋子(成海璃子)を嚴島神社に招き、2人に変わらぬ忠誠を誓う。嚴島神社のように横へ横へと広がることが清盛の目指す世の姿だと聞かされ、いまだ理想の姿を描けない後白河法皇は清盛に先を越されたのではないかと焦る。
伊豆では、かつて源義朝につかえた上総常澄(きたろう)が大番役の務めの疲れか、急死。北条時政(遠藤憲一)の館に集まった東国の武士たちは、諸悪の根源は平家にあると不満を募らせるが、源頼朝(岡田将生)は力なくその場を立ち去る。政子(杏)は頼朝を追いかけ、このままでいいのかと頼朝に問い詰めるが、頼朝はいらだちながらも相手にしない。なおも追いすがる政子は思わず源氏重代の太刀を転がし、直そうとする。そのとき頼朝は太刀にふれるなと叫んだ。頼朝の秘めた武士の魂が目覚め始めていた。
福原で宋銭を用いた取り引きを目の当たりにして、かつての信西の弟子、後白河法皇の側近・西光(加藤虎ノ介)も珍しく協力的になり、その普及に努めていた。ある日、西光は信西がかつて復興させた相撲節会を行うため、清盛に協力を求める。しかし、宋との取り引きにまい進する清盛は、宮中行事などしている暇はないと一蹴。怒りを募らせた西光は日頃そりが合わない義弟の成親(吉沢悠)とも、「平家憎し」で結託するのだった。
そんな平家の敵対勢力をとりなすのは、清盛の義妹でもある滋子だった。彼女は西光と成親の自尊心をあおってたくみに平家への協力をあおいだ。また滋子は後白河法皇の心のよりどころでもあった。今様の歌集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の編さんに取り組んでいた後白河法皇は、世に役立つものではないが心を慰めてくれる、そんな歌を残したいと滋子に漏らす。滋子はそれこそが後白河法皇の目指す世であり、その世がつづくことが自分の望みだと勇気づけた。
1176年春、後白河法皇の五十歳の宴が盛大に催され、平家一門も祝いの楽や舞などを献上した。後白河法皇は清盛に向かい、お互いが目指す世のためにお互いが必要であることを改めて告げた。平家が押しも押されもせぬ公卿となり、それが後白河法皇の世を支えていることを明確に示した宴となった。その蜜月関係を支えていたのが滋子だった。
しかし同年7月、滋子は病のため35歳の若さで亡くなった。その死を重く受け止める平家一門。清盛は滋子の死が朝廷のあり方を大きく変えることを予想しつつも、自らの道は変えないと決意を盛国(上川隆也)に告げた。一方、後白河法皇は激しい喪失感にさいなまれて今様を歌い続けた。
建春門院滋子の死という賽の目が、清盛と後白河法皇の双六遊びの行方を大きく変えることになる。
「清盛と後白河院、二人の権力者の均衡は滋子によってかろうじて保たれていたのです」
まず、≪えっ、そうだったの?≫が2題。
冒頭のナレーション、確かに「滋子の心は滋子のモノ」と言い切る自由奔放ぶり。後白河院に惚れ、後白河院の心を射止め、平家と後白河院の間に立ち、権力を振るい、帝の母にまでなった。
しかし、清盛と後白河院をつなぐ架け橋を意識していたようには見えなかった。
それが今週、いきなり、慈愛に満ちた女性となっていた。
もうひとつの≪えっ?≫は、
清盛の思い描く国の姿、
①武士が世の頂に立つ
②北は蝦夷地から南は鎮西まで、人や物が連なり豊かに暮らす
もともとはこの二つであったと思われるが、先週は完全に①のみであった。
兎丸の死で改心?したようだが、(これも先週ではハッキリとした描写はなかった)、今週の清盛はそんな心の惑いぶりはなかったかのよう。相変わらず、回ごとにころころ変わる登場人物である。
で、今週の清盛はひとつ変なことをする。
「宮中行事にうつつを抜かしている暇はござらん」
信西を引き合いに出し宋銭の流通に協力してもらっていた西光の面子を息子たちの前で潰すとは……
……慢心しつつあるとは言え、自身の目指す国造りのためには、わざわざ西光といさかいを起こす必要はない。こんな失策まがいの事をいったい何故?
と思っていたら、今週の主題
滋子の太陽ぶり(慈愛ぶり)のためでした。
「いつの間にか、あやつはわしの先を行ってしもうておるのか」
「よいではござりませぬか、入道殿が何を思うていようと。法皇様は法皇様の思い描く世を目指せばよいのです。ご案じ召されますな。滋子がおります。王家と平家を取り持つは我が務めにござります」
ええ、そんな思いがあったの?わざわざはっきり口にするのが不自然。
そんなことを言ったら、後白河院がへそを曲げてしまうぞ!
「今謡など器に積る塵の如きもの、吹けば飛ぶようなものじゃ。清盛の泊のように世に役立つようなものではない。何より歌声は後の世に残すことは出来ぬ。ただそれ故にこそ、わしは今謡が好きじゃ。誰にも顧みられることなくとも、いつもそこにあり、そこにいるものを慰めてくれる、楽しませてくれる。わしは今謡が好きじゃ」
あなたもそんな殊勝なことを言って、気でも違ったのでは?
でも、なかなか良いセリフだなあ
「それが法皇様の目指す世にござりますね」
「滋子」
「法皇様、滋子の心は滋子のモノ。そして滋子の心は、法皇様のおそばに。法皇様の世が絶えぬことが、滋子の望みでござります」
手を取り、寄り添うふたり。
良い雰囲気、かなり羨ましい……
平家の慢心を快く思わない西光と成親に宴を振る舞い、平家との仲を取り持つ
後白河院の五十歳の宴で、清盛と後白河院に酌をする
「わしの目指す世にそなたは欠かせず、そなたの目指す世にわしは欠かせぬ。これより先も、共に登ろうぞ、誰も観たこともない高みへ」
と後白河院に言わしめた。
と、滋子の活躍によりすべてがうまくいくと思えた矢先、滋子の突然死!
良い事を言ったり、良い行いをしたら死亡するのはドラマの常だが、死因は何?お酒の飲み過ぎ?
それにしても、滋子の架け橋ぶりがこれまで全く感じられなかったのに、今回の持ち上げぶり……、先週の有耶無耶ぶりと言い、先が詰まっているため、寸詰まり?
【ストーリー】番組サイトより
1174年、大輪田泊はついに完成し、清盛(松山ケンイチ)が長年夢みていた宋との貿易が始められた。一門のさらなる発展をめざす清盛は、後白河法皇(松田翔太)と建春門院滋子(成海璃子)を嚴島神社に招き、2人に変わらぬ忠誠を誓う。嚴島神社のように横へ横へと広がることが清盛の目指す世の姿だと聞かされ、いまだ理想の姿を描けない後白河法皇は清盛に先を越されたのではないかと焦る。
伊豆では、かつて源義朝につかえた上総常澄(きたろう)が大番役の務めの疲れか、急死。北条時政(遠藤憲一)の館に集まった東国の武士たちは、諸悪の根源は平家にあると不満を募らせるが、源頼朝(岡田将生)は力なくその場を立ち去る。政子(杏)は頼朝を追いかけ、このままでいいのかと頼朝に問い詰めるが、頼朝はいらだちながらも相手にしない。なおも追いすがる政子は思わず源氏重代の太刀を転がし、直そうとする。そのとき頼朝は太刀にふれるなと叫んだ。頼朝の秘めた武士の魂が目覚め始めていた。
福原で宋銭を用いた取り引きを目の当たりにして、かつての信西の弟子、後白河法皇の側近・西光(加藤虎ノ介)も珍しく協力的になり、その普及に努めていた。ある日、西光は信西がかつて復興させた相撲節会を行うため、清盛に協力を求める。しかし、宋との取り引きにまい進する清盛は、宮中行事などしている暇はないと一蹴。怒りを募らせた西光は日頃そりが合わない義弟の成親(吉沢悠)とも、「平家憎し」で結託するのだった。
そんな平家の敵対勢力をとりなすのは、清盛の義妹でもある滋子だった。彼女は西光と成親の自尊心をあおってたくみに平家への協力をあおいだ。また滋子は後白河法皇の心のよりどころでもあった。今様の歌集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の編さんに取り組んでいた後白河法皇は、世に役立つものではないが心を慰めてくれる、そんな歌を残したいと滋子に漏らす。滋子はそれこそが後白河法皇の目指す世であり、その世がつづくことが自分の望みだと勇気づけた。
1176年春、後白河法皇の五十歳の宴が盛大に催され、平家一門も祝いの楽や舞などを献上した。後白河法皇は清盛に向かい、お互いが目指す世のためにお互いが必要であることを改めて告げた。平家が押しも押されもせぬ公卿となり、それが後白河法皇の世を支えていることを明確に示した宴となった。その蜜月関係を支えていたのが滋子だった。
しかし同年7月、滋子は病のため35歳の若さで亡くなった。その死を重く受け止める平家一門。清盛は滋子の死が朝廷のあり方を大きく変えることを予想しつつも、自らの道は変えないと決意を盛国(上川隆也)に告げた。一方、後白河法皇は激しい喪失感にさいなまれて今様を歌い続けた。
建春門院滋子の死という賽の目が、清盛と後白河法皇の双六遊びの行方を大きく変えることになる。
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