承平五年九月、東三条の親王の清和の七の親王の御息所の八十賀せらるるとき、屏風の歌
若菜摘めるところ
ちはやぶる かみたちませよ きみがため つむかすがのの わかななりけり
ちはやぶる 神たちませよ 君がため 摘む春日野の 若菜なりけり
承平五年(935年)、東三条の親王が、清和の七の親王の母の八十歳の祝賀を催されたときの屏風歌
神々よご降臨なさいませ。御息所のために摘む春日野の若菜なのですから。
承平五年といえば、貫之が土佐から京に帰任した年で、帰任は二月のことと言いますから、土佐での勤めを終えて京に戻った後に詠まれた歌ということになります。以降、貫之集第四の終わりまで、土佐からの帰任後の承平・天慶年間の屏風歌が続きます。
「東三条の親王」は醍醐天皇の子重明親王、「清和の七の親王」は清和天皇の第七皇子貞辰親王のこと。「御息所」には、后・母の両方の意味がありますが、ここでは後者ですね。