実を詰めし 田舎の夢よ アケビ下げ
梅士 Baishi
あけびは、蔓性の植物で、山で見つけるとお宝であっ
た。
滅多にお目にかからない。
それが、叔父の家の庭に大きくなり、蔓とは思えない
太い幹になっている。
実も沢山ぶら下がっているが、まだ青い。
その家とも、これからは縁遠くなるだろう。
叔父もまた、アケビのように東京に根を張って、アケ
ビの成長をわがことのように思っていたかもしれない。
今日は最期の通夜である。
父方の伯父は既に亡くなったが、葬儀には出ていない。
しかし、叔父には恩義がある。
少し世間離れしたおいを案じてくれた。
貧乏農家の末っ子として一人だけ大学に進んだが、た
たき上げである。
わが亡父は親戚の養子に出された身であった。
裕福に育ったという。
戦争がなければ、資産家の一角にいたことだろう。
しかし、そのことが血縁を心理的に遠ざけていた。
資産などというものはあてにはならないものである。
貴族とて没落するものである。
一代で大富豪になった相場師は、一代で身代を失うこ
とも珍しくない。
基本は、自助努力、歴史の圧力に対しても、人生の試
練として乗り越えてゆくべきことである。
だから何も持たないほうが良いということはないが、
資産に対する執着もまた身を滅ぼすものである。
恐怖の根っこにあるものは自己保身である。
心配ではなく、強運を信じることだ。
機嫌よく自助努力することである。
所詮、人間無様に生きている。
格好をつけても仕方のないのが人生だ。
ボロを纏って生きているのだ。
謙虚でなければならない。
身近な人の死は、自分の死へのカウントダウンでもあ
る。
執着が一枚、一枚、はがれてゆくような気がする。
死はおそれるべきものではない。
自助努力の成果として、死は与えられるものであろう。
滑稽であっても、ハッピーエンドに納めたいものだ。
人間の本体は魂としての人間である。
その魂としての人間生命は死ねない。
肉体を去っても、生前と同じような自覚があるという。
だから、死んだら無になるという信心をしている人は、
自分が死んだということが信じられないで、霊界に入れ
ないでいるらしい。
吉田茂もヒトラーもマルクスも丸山真夫も自分が死ん
でいることを認めなかったし、霊ということにも意味不
明のようであった。
社会主義思想、唯物論思想の怖いところである。
霊存在としての自分を悟るだけでも、自己保存の恐怖
から自由になることができる。
大川隆法著 幸福の科学出版刊『死んでから困らない
生き方』という本があるが、多くの人に読んでもらいた
い短編である。
さて、これより空路、花の都東京に飛ぶ。
日本が新時代の光の国となりますように!
通夜の夜の 秋月めぐる 一巡り
梅士 Baishi
この世の別れも一ヶ月。
一旗上げたのだ。
凱旋するであろう。
父にもよろしく。
「いや~、あの子にもね、最期に世話になりましよ。
髭を剃ってくれてね。うれしくてつい手を合わせたけど、
それがせめてものお別れだったかなあ・・・。」
もうちょっと、上手に剃ってやりたかったなあ・・・。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi