厚岸町でのドライブでは、もう一つ、道東の歴史上重要な意味を持つ場所へ行ってきました。


お、これは、「水戸黄門」でおなじみの葵の御紋、徳川家の家紋ですね。
この場所は、国指定史跡である「国泰寺跡」という場所。

「国泰寺」とは、1804年、江戸幕府の蝦夷地直轄政策のもと、現在の厚岸町に設置された、臨済宗南禅寺派のお寺。
幕政下においては、1692年に「新寺建立禁止令」なる令が発布されていましたが、1799年、伊豆大島の波浮港の修築に当たり、駆り出されて死亡した百姓衆の葬送のための墓所と墓守僧の設置が特例的に許可された例があったことから、時の箱館奉行であった戸川安論と羽太正養は、蝦夷地に居住する和人が死亡しても埋葬する墓所がないことを憂慮し、寺社奉行の松平輝延に対し、蝦夷地に新たに寺社を設置するための申し入れを行いました。
(このほか、当時「邪宗」とされていたキリスト教の取り締まり強化ということも、設置の目的として掲げられていたそうです。)
これに対し松平輝延は、特別に寺の数を定めて設置を認める旨回答したことから、戸川、羽太の両名は、箱館~ヤムクシナイ(現在の八雲町)、ヤムクシナイ~ウス(現在の伊達市)、ウス~シャマニ(現在の様似町)、シャマニ~クスリ(現在の釧路市)、クスリ~子(ネ)モロ(現在の根室市)の五区間に一つずつ設置をすることを提案。その後、ウス、シャマニ、ネモロの三箇所に設置が決定しましたが、ネモロは住宅事情がよくないとの理由により、最終的にアッケシ(厚岸町)に設置されることとなりました。
アッケシに設置が決まった理由としては、天然の良港が存在すること、クスリへの設置が見送られたことから、最東端であるネモロに設置するのは遠すぎるという事情もあったようです。
こうして1804年、本州からの開拓移民やアイヌの人々への教化、日本の領土主張及びロシア勢力の阻止といった目的で、第11代将軍徳川家斉の命によって、「国泰寺」が建てられました。
蝦夷地三箇所に設置される新たな寺の宗派は、天台宗、浄土宗、それに禅宗(臨済宗)とされ、アッケシには、鎌倉五山の一つである建長寺の推薦により、相模国津久井郡青山村光明寺の文翁が初代住職として派遣されてきました。文翁以降の歴代住職が綴った「日鑑記」という書物は、蝦夷地の歴史を明らかにするための重要な史料であり、「蝦夷三官寺国泰寺関係資料」として国の重要文化財にも指定されています。
同時期に設置された、ウスの善光寺、シャマニの等樹院、そして国泰寺は、「蝦夷三官寺」と呼ばれています。
写真の本堂では、厚岸町の指定有形文化財となっている「地獄極楽図」の拝観ができます。

境内には、本堂以外にも沢山の建物や碑が設置されていますが、紹介しきれないので、本堂を含めて三つに絞ることとします。
まずこれは、1842年に建立された「仏牙舎利塔」。


そしてもう一つ、目に止まったというか気になったのが、この「アイヌ民族弔魂碑」。
蝦夷地直轄政策により進出してきた和人たちが、アイヌの人々に対し残酷な搾取、労働を強制し、多くの命が奪われたことから、1977年に設置されたものです。
(「国泰寺」の場所はこちら)


お、これは、「水戸黄門」でおなじみの葵の御紋、徳川家の家紋ですね。
この場所は、国指定史跡である「国泰寺跡」という場所。

「国泰寺」とは、1804年、江戸幕府の蝦夷地直轄政策のもと、現在の厚岸町に設置された、臨済宗南禅寺派のお寺。
幕政下においては、1692年に「新寺建立禁止令」なる令が発布されていましたが、1799年、伊豆大島の波浮港の修築に当たり、駆り出されて死亡した百姓衆の葬送のための墓所と墓守僧の設置が特例的に許可された例があったことから、時の箱館奉行であった戸川安論と羽太正養は、蝦夷地に居住する和人が死亡しても埋葬する墓所がないことを憂慮し、寺社奉行の松平輝延に対し、蝦夷地に新たに寺社を設置するための申し入れを行いました。
(このほか、当時「邪宗」とされていたキリスト教の取り締まり強化ということも、設置の目的として掲げられていたそうです。)
これに対し松平輝延は、特別に寺の数を定めて設置を認める旨回答したことから、戸川、羽太の両名は、箱館~ヤムクシナイ(現在の八雲町)、ヤムクシナイ~ウス(現在の伊達市)、ウス~シャマニ(現在の様似町)、シャマニ~クスリ(現在の釧路市)、クスリ~子(ネ)モロ(現在の根室市)の五区間に一つずつ設置をすることを提案。その後、ウス、シャマニ、ネモロの三箇所に設置が決定しましたが、ネモロは住宅事情がよくないとの理由により、最終的にアッケシ(厚岸町)に設置されることとなりました。
アッケシに設置が決まった理由としては、天然の良港が存在すること、クスリへの設置が見送られたことから、最東端であるネモロに設置するのは遠すぎるという事情もあったようです。
こうして1804年、本州からの開拓移民やアイヌの人々への教化、日本の領土主張及びロシア勢力の阻止といった目的で、第11代将軍徳川家斉の命によって、「国泰寺」が建てられました。
蝦夷地三箇所に設置される新たな寺の宗派は、天台宗、浄土宗、それに禅宗(臨済宗)とされ、アッケシには、鎌倉五山の一つである建長寺の推薦により、相模国津久井郡青山村光明寺の文翁が初代住職として派遣されてきました。文翁以降の歴代住職が綴った「日鑑記」という書物は、蝦夷地の歴史を明らかにするための重要な史料であり、「蝦夷三官寺国泰寺関係資料」として国の重要文化財にも指定されています。
同時期に設置された、ウスの善光寺、シャマニの等樹院、そして国泰寺は、「蝦夷三官寺」と呼ばれています。
写真の本堂では、厚岸町の指定有形文化財となっている「地獄極楽図」の拝観ができます。

境内には、本堂以外にも沢山の建物や碑が設置されていますが、紹介しきれないので、本堂を含めて三つに絞ることとします。
まずこれは、1842年に建立された「仏牙舎利塔」。


そしてもう一つ、目に止まったというか気になったのが、この「アイヌ民族弔魂碑」。
蝦夷地直轄政策により進出してきた和人たちが、アイヌの人々に対し残酷な搾取、労働を強制し、多くの命が奪われたことから、1977年に設置されたものです。
(「国泰寺」の場所はこちら)