道南八雲町のレポートを再開します。
まずはこの看板の場所から。
「山越内関所之跡」とあります。
「関所」とは、古くは「大化の改新」の頃から江戸時代にかけて、交通の要所において、徴税や検問のために設置された施設ですが、日本最北端の関所が、ここ八雲町に存在していたのです。
先日の記事で、蝦夷地(アイヌ民族の居住地)と和人地(アイヌ民族の血を引かない日本人「和人」の居住地)との境界について触れていましたが、ここにもその解説がありました。
「アイヌモシリ」とは、その名のとおり、「アイヌ民族が住む大地」という意味の言葉です。
関所とその周辺の平面図がこうして掲示されています。
八雲に住んでいた小学生3年生のとき、町の教育委員会が監修している副読本を使って、町内の歴史や文化について触れる授業があり、その関係で、私も「関所」というもののことを知りました。
そして、ここに看板のある「夜泣き石」の伝説も。
因みに、これがその副読本です。
現在も大切に持っていて、今年、6年ぶりに道南に住むということで、函館にも持ってきました。
この「夜泣き石」のことは副読本には書かれていなかったのだけど、確か、関連して配付された資料に書いてあったと思います。
「八雲」という地名の由来が書かれています。
「八雲たつ」という枕詞、確かに聞いたことがあります。
八雲に住んでいた当時、鉄道少年だった私は、日本全国の特急列車大図鑑的な本(「ケイブンシャの大百科シリーズ」)を持っていて、山陰地方に「やくも」という特急が走っていることを知っていましたが、その「やくも」と、北海道の「八雲」とが関連が深いということは、この解説板で初めて知りました。
命名者として書かれている「徳川義勝公」については、後日、別な記事で詳しく触れたいと思います。
この地には、関所の他に、幕府直轄の「会所」(集会所)があったそうです。
1799年、ロシアをはじめとする諸外国の脅威から蝦夷地を守るため、幕府は東蝦夷地を松前藩から取り上げる形で直轄地とし、道南地方も幕府の直轄下となりました。
八雲町にもその歴史を伝える施設が残されていたことを、これまた今回初めて知りました。
昔ながらの建築様式で作られている「山越中央会館」。
「山越」は一つの集落となっている地域なので、現在もここで、住民たちの会合など、地域の行事が広く行われているということです。
おやおや、反応してしまう名前の神社があるようですね(「札幌諏訪神社」が大好きなので)。
ということで、長くなってきたので、この記事はここまで。
この神社は、次の記事で紹介します。