龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

今日、立ち入り禁止区域の境界線まで行ってきた。

2012年01月04日 23時49分28秒 | 大震災の中で
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物見遊山であっては申し訳ないと考えて、去年は行かずに我慢していた。

だが、どうしても一度見ておきたいという子供じみた考えが消えず、境界線を見に行ってきた。

常磐道を北に向かうと、広野町というところのI.C.で高速道路が閉鎖になっていた。
右手の海沿いには広野町の火力発電所の煙突から煙が出ているのが見える。
I . C . を降りると国道6号線まで1kmほど。国道を左折して坂を下りなら北上すると数百メートルほどいったところで道路が封鎖されていた。
(写真1)参照。


機動隊のバスが2,3台交通止めの看板の先に止めてある。
あとは数名のヒトが、検問をしている。観ているうちにも作業員の車だろうか、検問を受けて北の方に向かっていった。

土砂崩れなどの自然災害で道路が不通になっているのとさほど変わりはないと言えば言える。
けれども、私たちがそこから受ける印象はやはり大きく異なっている。

御斎所街道の不通個所の土砂崩れは、自然の圧倒的なら力への畏れを私たちにもたらす(元日の日記掲載写真を参照のこと) 。

それに対してこの交通止めは(こちらの瞳の奥の脳みそがそう判断してしまうからなのだろうけれど)、明らかに異なった種類の恐怖をもたらすのだ。

誤解を恐れずに言ってしまえば、後者は「テロ」に対して抱く恐怖に近い。

つまり、人為によって引き起こされたにもかかわらず、その結果は人為を越えてしまい、人為によってはによっては回復不能なレベルに到達してしまった出来事に対する恐怖である。

それは存在論的な「死の恐怖」のみにかかわるのでは必ずしもない。実際、地震や津波と違って、人はまだ、原発事故によっては工事の事故以外ほとんど亡くなってはいない。そして、明確にヒトの致死率が圧倒的に上がるだろうという確信が持てているわけでもない。

それなのに私たちは、いや少なくても私は、この道路封鎖の現実に、ある意味での「世界の果て」の境界線を感じてしまうのだ。それは何よりもまず
「社会的な意味での『世界の果て』」
だ。

法律で立ち入りが禁止されている場所。

だがそれは単に誰かが所有権を持っていて立ち入りを禁止している、という法的権利関係ではない。

敢えて言うなら、人為のリミットとしての「裂け目」の存在が、具体的にはシゼンゲンショウとしての高い放射線量をもたらし、その人為のリミットの裂け目がもたらした「自然」の条件が、私たちをそこに立ち入らせない条件を構成しているのだ。

去年の
3月以来ずっと思い悩み続けたきて、今ここで必要なのは、人為と自然の関係の問い直しであり、その哲学の構築だ、と私は考えるようになった。

もう一つ必要なのは、恐怖・畏れについての分析だろうと思う。

私たちは今本当は何をおそれているのか?何を畏れ、もしくは恐れ、何を隠そうとし、何を回避しようとしているのか。

それをよくよく考えていかねばならない、と改めて強く感じた。

この境界線はもうすぐもっと北側に移されていくだろう。立ち入り禁止区域は、中期的には狭められていくことも予想される。だから、当然ことながらこの写真の場所は何ら絶対的意味を持ちはしない。

だが、一旦ここに示されてしまったこの看板の意味は大きい。私たちはこんな形で境界線をある日引かれてしまうリスクを背負っていることに気づかない振りをしていた、そのことをこの写真は示している。

数年前、共産党の県議団が東京電力に示していた質問状には、この事故を想定した危惧がはっきりと書かれてあった。

しかし、残念ながら告発する側もされる側も、この看板のリアリティには届いていなかった。

そして言うまでもないことだが、私(同様に少なくない浜通りの人々、そして福島県民もまた)は、薄々感づいてはいたはずなのに、事が起こったらもう仕方がないというあらかじめ想定された無力感を開き直りと忘却にすり替えて、日常の安寧を確保していたのだ、ということをこの写真は示している。

少なくても私はそう感じる。そう感じなければならない、と感じている。

確かに、自分に与えられた可能性条件=存在基盤を前提としつつ、その中でその上で最善の力を尽くし続けることが容易だと考える者はそう多くないだろう。

また、それが果たして自分自身の手に負える「課題」なのかどうかさえ怪しく、しかも未だ実現していない事象について妄想することを、普通は「想像力」とは呼ばずに「妄想」とか「杞憂」とかいって軽蔑さえしていたのかもしれない。

それらの振る舞いはむしろ、私たちが日常を生き抜く大切な術の一側面でさえあろう。

そんなことを空疎に懺悔するつもりはない。空疎な懺悔はむしろ愚かな繰り返しを招く。

そんなことを含めて、このとりあえず地図に引かれたかりそめの「世界の果て」の境界線について、考えて行きたいのだ。

写真1

年賀状のこと。

2012年01月02日 21時21分48秒 | 大震災の中で
子供の頃から年賀状は好きだった。
父親や母親にはどっさりくるのに、自分には友人からの数通しか届かない。なんだか年賀状の数が、この世の中の「偉さ」の数のような気もした。

大人になってからは仕事のつきあいで年賀状ばかり何百枚も出さねばならない人を気の毒に思うようにはなったが、それでも普段なら到底手紙など出せない相手でも、賀状なら一言添えてやりとりができるこの風習は、とても素敵なものだったと思う。

ただ、最近は年下の友人たちはメールなどネットでのやりとりが主。
先輩たちとは賀状が主。どちらかだけってわけにはいかない。
時代が確実に変わりつつある、と感じている。

さてしかし、今年は我が家は喪中なので賀状を出さない。
元日届いた賀状にもとりあえず返事は不要。
すると、それだけで、とてものんびりできることに気づいた。

それでも賀状を頂戴するのははうれしいものだ。

普段疎遠にしていても、一時期は時間を共にした仕事仲間や遊び仲間からのものには、それぞれの生活の様子が垣間見える。なんとなく、離れてはいてもそれぞれに「同じ1年」を過ごしていたんだな、と思うと、一瞬だけ気持ちがふっと暖かくなるような気がするから。

実のところ、何も「喪中」なんてこだわらずに返事を出してもいい。
そして、届いた年賀状には返事を出そうかとも思ったのだが、とりあえずは受け取ったボールをそのまま掌にしまっておくような、不思議な感触を味わうことにした。

いつもより丁寧に賀状を見ている。

元日に届く年賀状という風習によって自分達が繋がっていることを確認する行為が、既にいつでもどこでもアクセス可能なSNSに置き換えられてしまった世代や階層も少なくないのかもしれない。

でも、私はたぶん賀状を止めないだろうな。だって、端的に楽しいから。図案を考えたり選んだり、その人に一言添えて物理的な手紙を出す、ってのは、メールとは違った「贅沢感」があるものね。
業務上の義理賀状はもう、この喪中をきっかけにやめようかな、とは思うけれど。


國分功一郎論のための覚え書き(4)

2012年01月02日 11時58分53秒 | 評論
朝日出版社第二編集部さんからいただいたコメント
>先生はえらい+ミメーシスの実践的効用でしょうか
>好悪はあるものの、文体の率直と勢いは大きな魅力です
に反応します。

田吾作を近代市民が誘導するというエリート主義における感染を敢えて論じる宮台真司。
「愛」の不可能性に沈潜して、無力な「サマリア人」から感染を描く大澤正幸。

いずれも垂直性を軸に「公共性」を論じています。

東浩紀の「一般意志2.0」も、現実的な動きとしては学ぶべき点が多々あるにせよ、ネット的言説の広がりを「無意識」に例え、熟議的民主主義の公共を「意識」の側に対置する「例え」からは、どこかで敢えて垂直性を軸に論じている感じが見えてきます。

それに対して、國分功一郎の言説は、すぐれて「私的」な場所に立ち続けようとする姿勢が伺えるのです。
並置的、といってもいい。
「弱い説得」というのはその辺りの事情にも関連します。

強力な状況定義力の私的な発動(権力行使)と、あくまでも弱い説得(上下関係による「正しさの伝達」を行わない姿勢)が両立していなければ、そもそも教育というのは成立しないのではないでしょうか。

さもないと、
支配-隷属
とか、
操作-誘導
とか、の「植民地的心性」の形成こそが教育であるかのように錯誤されつづけてしまうでしょう。
そこでは、あらかじめ教える側が準備した擬制的共同体(小室直樹)の規範を内面化することが「教育」になってしまいかねません。

内面化した規範の遵守が「公共性」と取り違えられ、その結果「私的」権力行使は、だだ漏れ的に「公共性」を僭称していくことになるでしょう。
たとえば、中央でも地方でも展開されてきた原子力「ムラ」(開沼博)の論理が、その結果に他なりません。

生存可能性条件を踏まえて自らの状況定義をする「私的」行為が出発点となってこそ、初めて認識が差異の豊かさを産出しえるのではないでしょうか。

教育を営むということは、ある意味で水平的な多様さ=豊かさを実現するための「差異」を拡大再生産するための貴重な虚構的「インフラ」整備、に他ならないと思うのです。

だから、その「偉さ」はすぐれて演劇的でなければならない。
何かの規範を内面化する動きは、どこかであらかじめ調達された「共同性」であってはならないのです。
規範の正しさの検討が果たして安易か真剣か、を問わず。

教師の状況定義も、あくまで「私的」な権力の行使でなければならない……そんな風に考える理由です。

「公共性」を僭称しない「私的」な権力行使を教師がきちんとできていれば、むしろ「公共性」への道が示されるのではないか。
そんな思いを國分功一郎氏の文章に重ねて読んだ、ということかもしれませんね。


ああ、話が拡散してしまいました。申し訳ない。

この件については、雑誌「atプラス10」の開沼博氏の文章にある「後出しじゃんけん」批判について考える形で、継続思考します。

國分功一郎さんの文章についての考察からだいぶ逸脱してしまったので、この題名でのブログはいったん終了ということにします。

細々と考えていくしかないなあ。



元日、背戸峨廊までドライブしてきた。

2012年01月02日 10時10分06秒 | 大震災の中で
ロードスターの屋根を開け、元日の午前中からドライブに出かけた。

乗らない人が多く想像するのとは違って、オープンカーは冬場がむしろ楽しい。

特に、アメリカ=カリフォルニア的なオープンカーではなく、イギリス的ライトウェイトオープンにおいては。

今時の車は暖房が良く効くので、むしろ冬場は動く露天風呂のような開放感と快適さが味わえる……のだが、コタツでミカンとお酒とテレビで何の不足もない元旦から、わざわざ屋根をあけて走る奴の気が知れない、という常識的反応には一理も二理もある、と言っておこう。

まあでも、楽しいのですよ(笑)。

空間線量が下がったこともあり、周りの人に不快な気持ちを与える度合いも低くなったかな、という一応の配慮と納得もありつつ、福島県いわき市北西部の夏井川渓谷へ。

いわき市平から約30分ほどで背戸峨廊に到着した。
(画像1)



背戸峨廊(背戸=隠れた、峨廊=美しい岩壁)は、福島県いわき市江田川にある岩場の滝と渓流が美しい景勝地。

名前は地元出身の詩人草野心平が名付けたという。

元日の背戸峨廊は、人っ子一人居らず、遊歩道は地震による相次ぐ落石と、台風による橋の流失で立ち入り禁止になっていた。

息子が物心着いた時、初めて二人で電車に乗ってハイキングに行った場所でもある。

また、家族で訪れた時には、女性が一人、渓流に落ちそうになっているところに出くわし、腕一本を握りしめてすんでのところで助け上げた、なんていう人生史上唯一の人命救助をした場所でもある。

ロープをくぐってちょっとだけ先に行ってみると、冬場なので水嵩は低いようだった。ただ、足場はやはり危なそうなので、素直に引き返す。

いわき市観光課の札の名前で立ち入り禁止の札が下がっていた。

管轄が観光関係、となると、早期の復旧は望み薄かもしれない。

市内の道路さえ、まだまだ道路が蛇のようにうねっていたり、激しい段差で車が宙を舞ったりしているのだから。

周辺の釣り堀や葡萄狩りの農園、キャンプ場なども、新年を迎えたからといって明るい展望が開けているわけではあるまい。今年も厳しいのかしら……。

さて、そこから阿武隈山地を縦に南下し、石川町に出てから県道石川-いわき線の御斎所峠に向かう。
ここも崖崩れで半年以上不通になっていたのだが、最近開通したという。

古殿町からいわき市に向かってしばらく走ると、渓流の北側斜面を走っていた道路が、急に新しい橋を渡って南斜面に移る場所があった。

橋を渡って向かい側から北斜面を観ると、数十メートルに渡って二カ所も斜面が崩落し、道路は土砂に埋まって全く見えなくなっている。
二本の橋で向かい側に道路を迂回させ、間にある土砂崩れの部分を回避したらしい。

新たに道路の出来た南斜面と、向かい側の土砂崩れしたままの北側斜面とのコントラストが激しく、思わず車を止めてマジマジと観察してしまった。
(画像2)



自然に触れる「遊び」の営みにしても、道路という「インフラ」にしても、自然の「力」によって損傷を受けるのは同じなのだけれど、実際なはかなり違う印象を受ける。

前者のような自然自体の形状の変化は受け入れやすい(自然1)。
それに対して人間の営み=人為の崩壊は、「裂け目」の向こう側から自然の脅威が覗く分だけ畏れを抱く(自然2)。

前者は、変化の前後を見比べなければ分からないのに対し、後者は観た瞬間に「人為の崩壊」を前提とした自然の「力の痕跡」が眼に飛び込んでくる。

私たちは社会的人為の中で生きているという当たり前のことを、こういう災害という人為の裂け目を通した「自然2」の立ち現れによって知り、畏れるのだ。

原子力発電所の事故は、さらに次の段階、
「自然3」
の次元を考えなければならないからさらに厄介なのだが。
(この項、続く)





國分功一郎論のための覚え書き(3)

2012年01月02日 00時37分42秒 | 評論
國分功一郎論のための覚え書き(3)

少しだけ補足を。覚え書き(2)で、『暇と退屈の倫理学』における言葉の身振り(文体)について

>「私的」な意味で権力をふるうその状況定義力の行使モデル
である、と指摘した。

けれども、普通「私的」な意味で権力を振るうといえば、それはたんなる「わがまま」ということになりかねない。

筆者はアーレントやパスカルやハイデガーなど様々な哲学者・思想家の考えを紹介し、その意義と重要性、拾うべきポイントを明確に示しつつ、その上で必ず不足するところを批判する。

どの思想家の考えにも「同一化」せず、筆者の立場との共鳴点と差異を同時に(必ず同時に)示しながら論旨を展開していく、という叙述の仕方は、「差異化」の営みそれ自体でもあり、同時にそのプロセスの提示でもあるといっていいだろう。そういう意味では「差異」を重視した論述展開になっていて、正解を提示する「同一性」を招き寄せる記述を注意深くさけている。

だから、ここは「無人称的」とかいったほうがむしろ文意は通りやすいところかもしれない。キャッチフレーズとしてもその方が分かりやすい。

でも、あえてそれを「私的」と言ったのは、

敢えて例えれば、

「学び手に狩りを学ばせるには、まず自ら狩りをして見せねばならない」

ということと大きく関わる。

狩りを成就させるためには、自らが適応してきた「環世界」から、別の「環世界」へと移動するための開かれた「感染契機」が必要だ。

つまり「私的」な状況定義の書き換えという「受動的能動性」がどうしても必要になってくる。

そのためには、まず最初に、「私的」に自分の状況定義力を適切に行使する能力が絶対に必要不可欠なのだ、と『暇と退屈の倫理学』は語っているように思われてならないのである。

そこから始まらなければ「公共性」は「本来性」に回収されてしまうのではないか、という危惧が、「本来性において」ではなく「疎外」=「差異」において逆説として表現されているのではないか、ということでもある。

あくまで「私的」な権力(=状況定義力)の行使は、他者を屈服させたり、他者に隷属したりする「同一化」を招くのではなく、むしろ開かれた次の世界像を作り出す「差異」の力に繋がる、とテキスト自身の身振りがそれを指し示してもいる。

それは白井聡が『未完のレーニン』においていう
「革命」における力の一元論の位相
とも響き合うものでもあり

千葉雅也がいう
う「小人群居してモナドロジー」を前提として、なおもそこに「啓蒙」はア・ポステオリに構築できるのか
っていう課題でもあり、

東浩紀が一般意志2.0にいう
ネット上の言説を「無意識」として捉え、それを熟議的な政治・公共的なるものを構築しようとする選良的な政治に対置すべき「可能性条件」として数値化する
なんて話にも繋がっていくはずだ。

萱野稔人が「ナショナリズムは悪」なのか、において、国家における権力=暴力のマネージメントを真剣に考える必要性を説くことにも大きく問題意識は重なってくるはず。


ただとにかく教育論としては、まず「私的」な場所で「権力」をきちんと振るう仕方を提示しなければ、何も始まらないと思う。

誰かに任せて文句をいう、とか、擬制的共同体(ムラ)の規範が僭称する「公共性」を振りかざして隠れ蓑にしつつ、私的欲望を本音として隠し持つ、みたいな「土人的(大塚英志)」振る舞いから私達が一歩踏み出すためにも。


ことさらここで繰り返す必要もないといえばないのだが、國分功一郎のテキストにおける「教育」の身振りについては、今後も注意深く見守って行きたいと考えている。

敢えてファン的に言っておけば、私は國分功一郎のテキストの身振りにこそ、最も強く「惰夫を立たしめる(石川淳)」文体の力を感じていますけれど。