龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

冬の夜はミステリを読もう。

2012年01月20日 20時42分47秒 | 大震災の中で
子供の頃、エラリー・クイーンが一番好きだった。

小学校3年生か4年生の頃だったと思う(ということは1966年~7年ぐらい)。
小学校の図書室に、ミステリの全集が入ることになった。一度に購入されたのではなかったと記憶している。

配本されるに従って購入されていったのか、予算の都合で小出しに納入されたのかは分からないけれど、図書の係の先生に、クラスの本好きメンバーたちが
「次はいつはいるの?」
と心待ちにしていた。だから、その本が入荷したときにはもう大変である。
なんとか1番目に借りたいと思うものだから、情報収集が必要になる。
いつのまにか図書室に入り浸るようになっていった。

その中で一番強く記憶に残っているのがエラリー・クイーンの作品
『エジプト十字架の謎』
である。

今、ググったら、それは

あかね書房から出た『少年少女世界推理文学全集』

というシリーズでした。

間違いない。

でも、表紙の記憶はなくて、ハードカバーの変型版(ちょっと横長?)で、マットな手触りだったように覚えているのだが。

好きな人がいるんですねえ。
今40代半ばから50代にかけての海外ミステリ愛好者には、この時期このシリーズと図書館で出会った人が意外に多いのかもしれないな。

閑話休題。

週末はミステリを読んで過ごそうと思った。

ミステリなら、ブックオフにいけば1冊100円ほどでいくらでも手に入る。
先日も吾妻ひでおの日記(失踪日記刊行前のことを書いたもの、と裏表紙にはある)と一緒に、乾くるみと京極夏彦を買ってきた。

でも、今週はどうしてもエラリー・クイーンが読みたい、と思った。

幸いなことに、犯人はぜーんぶ忘れてしまっているから、『エジプト~』だろうが『ギリシア棺~』だろうが『スペイン~』だろうが『イタリア靴~』だろうが全然オッケーなのだが、
たまたま1冊だけ、読まないまま本棚に並んで20年ちかくそのままにしてあった
『九尾の猫』
が目に付いた。

なぜエラリーなのだろう。

もう、今の生活に嫌気がさして、引退して暖炉の脇でミステリを読むお爺さんになりたい、と思い始めたからだろうか。

あるいは現実逃避のために、甘美な小学生の図書館の思い出に引きこもりたいからだろうか。

もしかすると、先週末、『二流小説家』(ニューヨークで起こった連続殺人事件を扱ったミステリ。やはり作家が探偵になっている)を読み終えた後だからかもしれない。

いずれにしても、冬の夜、暖かい部屋で炒りたてのコーヒーと近所の美味しいケーキ屋さんから買ってきたアップルパイなんぞを伴侶にしてミステリを読むのはかなりの贅沢だ。

お酒を飲んでもいいのだが、それをやるとすぐに本をバタリと床に落としてしまうので、お時間(午後12時)前は酒は御法度。

ゆっくり何も考えずに楽しもうと思う。

さて、今ページを少しずつ繰っているところなのだが、びっくりしたことが一つ。

かつてはエラリー・クイーン(作中人物の小説家)に寄り添って読んでいたのに、エラリーの父親で、引退直前の警視リチャード・クイーンに感情移入してしまったのに驚いた。

「ディック・クイーンはもう年でそんな仕事は無理です」

連続殺人事件の特別捜査班の責任者に任命されたリチャードが、上司の本部長に言おうとした(そして言えなかった)セリフである。そのあと息子に

「わしはほとんど一生、忠実に警察のために働いてきた。もっと楽な仕事をあたえられてもいいんだ」

と愚痴を言う。

かつてはこんなところに気を引かれることは無かった(笑)。面白いものである。

さてでは、少々周囲が黄ばんできた文庫を、ゆっくり読み始めるとしましょうかね。




安冨歩を読むということ(1)

2012年01月19日 12時35分59秒 | 大震災の中で


少し腰を落ち着けて、「安冨歩」のことばのありようを考えてみたい。

もちろん「腰を落ち着けて」とはいってもそこは「多動児」。何処へ「あくがれ出づる」かは不明。

先日、

>@foxydogfrom1999 安冨歩は
>世界の「向こう側」から発話し
>ているのかもしれない。

というブログ冒頭のTweetに、安冨歩さん本人がコメントしてくれた。

>どちらかというと、世界の「向こう側」
>で皆さんが、議論しているような気が
>するのです、私には。

なるほど。
一見すると、お互いに相手を「向こう側」っていってるみたいだけど、そうではない。

レトリックとして使った訳だけれど「向こう側」(か「こちら側」か)というのはそれ自体では雑駁な区分だ。

舌足らずでごめんなさいなのだけれど、そこは実のところ興味深いポイントでもある。

ちょっと広げて考えたい。
そのための補助線を一本。

そのやりとりにに反応してくれた
愚樵@gushouさんのコメントとfoxydogのやりとりが次。

引用開始>>>>
愚樵:
「向こう側」は、よくよく見れば「こちら側」。生はこちら側 

foxydog:
ブログ訪問ありがとうございました。
安冨さんの言葉は一直線に心に響いてきます。一度向こう側までたどり着き、それからこちら側に戻ってきた「ことば」だと感じるのです。
ハラスメントから自由になるのは、容易なことではなく、でも同時にあっけないほど簡単なのでしょう。


愚樵:
@foxydogfrom1999: 「ハラスメントから自由になるのは、容易なことではなく、でも同時にあっけないほど簡単なのでしょう。」 その通りだと思います。私はそれを「アクロバット」と呼んでいます。
引用終了>>>>>>>

この愚樵さんの言う「アクロバット」に賛成、である。私は
「安冨歩は世界の『向こう側』から発話しているのかもしれない」
と書いた。
この「アクロバット」概念を利用させてもらうなら、
「安冨歩は一見、世界の『向こう側』から発話しているかのようにみえる」
とかくべきところだった。



さて一方、愚直と見えるまでに真っ直ぐに、地べたを自分の足で踏みしめて歩むその歩みを「語る」のが、「安冨歩的話法」でもある。

母と、そして元妻との関係を「率直」に語り、そこに機能し続けていた「ハラスメント」の構造を、身を切るように読者とともに再認識していくその姿は、私たちに、安冨歩自身の息遣いを身近に感じさせる。
安冨本人も書いているが、そのあまりにも直接的な息遣いは、読者を時には息苦しくさせるほどなのだ。
そこで用いられているのは、誰にでも、いつでも通用する話法ではない。
だから、「安冨歩的話法」は、究めて直接的でありながら(おそらくその点を指して安冨歩自身は「こちら側」の発話だといったのだろう)、他方、決してそれは私たちの日常のことばではない(私はその点を考えてみたい「向こう側」と掻き出した)。
日常と非日常、此岸と彼岸。
安冨歩の語りには瞬時にそよの両極端を往還する身振りが充溢している。
愚樵さんはそのことを指差して「アクロバット」と呼んだのではないか。

さて、その「裂け目」で起きる「アクロバット」=「事件」について書きたい……のだが、これから会議が始まるので続きはまた後ほど。



安冨歩は世界の「向こう側」から発話しているのかもしれない。

2012年01月17日 21時25分15秒 | 大震災の中で
 『経済学の船出』NTT出版
 『生きる技法』青灯社
 『原発危機と「東大話法』明石書店
 と立て続けに読んだ。

安冨歩は凄い。

『経済学の船出』は専門の経済分野ということもあるのだろう、切れ味ある論旨展開で、読んでいてとても爽快だ。それが一歩も留まるところを知らず、ヘタをすると「トンデモ本」であるかのような「飛躍」(論理の、ではない。例えや切り口のワープが多彩だって感じの意味で)をしたかと思うと、意外なところで全く別の者同士が響き合ってくる。

よく制御されているけれど、演奏は奔放な音楽でも聴いているような気持ちになってくる。

対して『生きる技法』は、典型的な「自己啓発本」だ。真っ正面から「如何に生きるかによってどれだけ人生が違ってくるか」ってのを論じた本です。
しかし、この本もなんだか凄い。
自己啓発本は、トンデモ本とは違う。だから、自己啓発本というのは、読んでいると「そうなのかもしれない」と読者が思うように誘導し、「そんな気持ちにさせる」ことによってお鳥目をいただく種類の芸能本と考えていいだろう。

ところが、この安冨歩の「自己啓発本」は、何か違う。自前で書かれている文体だから、温度が熱いのだ。
そういう意味では、全く異なった種類の「一見自己啓発本」である國分功一郎『暇と退屈の倫理学』と同様の温度を感じるのだ。

それはある種の「あられもなさ」とでも言おうか、自分の経験が論理化されて、本の賭け金としてきちんと「賭けられている」印象とでも言おうか。

トンデモ本の匂いに近いのは、その「温度の高さ」にも関わっていると思う。

一般に言われる「自己啓発本」においては、書き手はちっとも熱くなっておらず、そういう商売をしてお客様を一時「前向き」にさせれば値段分の働きということになる。

逆に普通考えられているトンデモ本は、書き手は「熱く語っている」のだけれど、決め打ちの狭い読者層以外は、真面目に取り合わないということになる。

この『生きる技法』という本は、そのどちらにも似ているのに、どちらとも違う。

なんだろう、國分的語彙でいえば「本来性」に回収されない「生」の感覚といおうか、安冨的語彙でいえば、ハラスメントの呪縛に陥らない「学び続ける生」の感覚とおうか。

こんな風に書いていても、なんのことやら見えてこないもどかしい説明なのだが、これはたぶん読んで貰う方が早い。

『経済学の船出』について言えば経済学のポイントをこれほど分かりやすくクリアに説明してくれた本は、今まで読んだことがなかった。
『生きる技法』について言えば、そこまで自分のことを書かなくてもいいのに、とさえ思ってしまうほど率直な書き方だった。

つまりは、この人の文章は、あんまりにもまっすぐなのだ。
そのまっすぐな感じは、こういう言い方をしては不適切なのかもしれないが、ある種の「偏り」というか「障がい」というか、「不自由さ」を感じるまっすぐさでもある。

そして、その不自由さは「哲学的」と言い換えると、私としてはとてもすっきりする種類のものだ。
だからこそ、この人の文章は信用できる、と思う。

文章を信用できる、なんていうのはちょっとおかしい、と自分でも思う。
人間「安冨歩」のことはどんなにいい人なのか実は鬼畜なのか、全然知りません(当然ですが)。
そんなに興味もありません。

別の言い方でいうと、この言葉は「獲得」されたものだ、という印象がある。
向こう側にいる人が、「獲得」した結果、向こう側から発信された言葉なのだ。

たとえていえばドナ・ウィリアムス(『自閉症だったわたしに』新潮文庫の作者)の言葉のように。

だから信用できる。

もしかすると(ここから先は妄想だけれど)、ルソーとか、スピノザとかいった人の言葉も、向こう側からの言葉なのかもしれないと思う。

「向こう側」って何?

それは、「人為の裂け目」から顔を覗かせた「自然」ととりあえずは言っておこう。
2011年3月11日以降、ずっと私自身が見つめている場所のことだ。






風邪で伏せっていました……

2012年01月16日 23時15分25秒 | 大震災の中で
週末から風邪で伏せっていました……。
今日は出勤したけれど、咳が出てノドは痛むし、さんざんでした。

いろいろ気になることはあるけれど、身体が戻ってから書きますね。

ところで、センター試験の評論は木村敏でしたね。
去年は転勤後すぐの1年担任で、センター試験を話題にするほどでもないので新聞も見ずに過ごしてしまったけれど、今年はそうもいかないので熱っぽい中で解きました。

アフォーダンスとはまた視点が違うけれど、環境と境界線に関わるお話。

「何が出るかな」

っていうのも大切だけれど、全国50万からの受験生が一斉に読むテキストだから、彼らの役に立つものであってほしい。

そういう意味では木村敏、ちょっと古め?かもしれないけれど、その向き合っているものは「今」を考える
上でまだまだ重要でしょう。

そういう意味では古文、漢文はちょっと拍子抜け、の感あり。
井伏鱒二もどうなんだろうね。作家として個人的には好きですが。

易しめだとは思うけれど、古びた教員の印象と生徒の取ってくる点数は違うからなあ。
来年はそんな悠長なことも言っていられないんですが。
ふいぃ。



iPhone用口述筆記ソフト「DRAGON Dictation 」は本当に凄い。

2012年01月10日 22時32分27秒 | 大震災の中で

静かな自分の部屋で文章の下書きをざっくり書くには最高です。

小学校の頃の頃大好きだった作家E.S.ガードナーが作品を口述筆記している様子の写真が、ハヤカワミステリの裏表紙か解説のところかに載っていて
「凄いなあ、彼の書くペリー・メイスンみたいに秘書がちゃんといて、しかも口述筆記してくれるんだ、かっこいい!」

と痺れたものだったけれど、それがついに現実のモノになったのだから感激もひとしお。
ま、いくらiPhoneが私の言ったとおりに言葉を記録してくれても、文章がうまくなるわけじゃないんだけどね。

以下は試しにiPhone用口述筆記ソフト「DRAGON Dictation 」
で出鱈目を喋ってみたサンプル。もうびびびびっくりでした。

開始--------------

詳しいことは分からないだがちょっと気になって調べてみると高橋君の実家は弘前の東黒石地方の旧家 であることがわかった。そういえば一人で弘前に遊びに行った時、その東にある黒石市に豆腐を探しに行ったことがあった。その前の晩、弘前に泊まったホテルの向かいにある小料理屋で、とても甘い豆腐を食べたからだった。黒石豆腐と言えば、誰もが知っていてしかも有名なブランドで、なかなか手に入らないのだという。気になった私は翌日車を走らせ弘前から東の方に向かった。黒石という街は、昼下がり静かな雰囲気をたたいていた。何度か統領行きつ戻りつし、細い路地を入って、グルグル探したあげく、ようやくいいけど豆腐屋にたどり着いた。そういえばその豆腐屋の名前が高橋だった。車を止めて、店の中に声をかけるが、返事がない。豆腐屋は考えてみれば、朝が早い。もうすっかり仕事を終えて、上がってしまったのだろう。しかし、あきらめきれずに、扉を開けて中に入ってみる。風と雨の匂いがしてきた。

終了------------

うまく変換されていないのは「通りを」が「統領」に、「いいけど」が意味不明、最後の「プーンと豆の匂いがしてきた」が「風と雨の匂いがしてきた」ぐらいだ。

ふだんiPhoneではATOKのフリック入力+予測変換を使っているのだが、ぞんざいに指を動かしたときよりは効率がよいのではないか、とさえ思われる。

なにせ、喋るというのは身体表現としてはきわめて自然。
それが多少修正が必要だとはいえ、そのまま文字に起こせる。しかも他人の手を煩わすことなく。

丁寧な発音とテンポは必要だし、擬態語擬声語は弱そうだが、とにかく使えそうな予感。

むしろ問われるのは構成をきちんと考えた話し方、かもしれない。

これは絶対的にお薦めです。
もしかするとこれを使いこなしたら、かなり大きな変化になるかもしれない。
おもちゃじゃないです、これは。
大人の実用品。
お薦めです。
擬態語擬声語に弱い、改行をどうすればいいのか分からない、ぐらいかな。
、は「てん」
。は「まる」
できっちり変換されます。
ほんとに私のフリック入力よりは正確かも。驚きです。


國分効果という教育(國分功一郎論のための覚え書き5)

2012年01月09日 14時26分37秒 | 大震災の中で
もしくは『すばる』2012年2月号対談「個人と世界をつなぐもの」(宇野常寛×國分功一郎)の感想

前述のように、私は
宇野常寛『リトルピープルの時代』
が読めなかった。

村上春樹をいまどきターゲットにする意味がわからないし、サブカルチャ批評というのかどうか、仮面ライダーにもAKB48にも興味がないし詳しくないし、「拡張現実」とかいうツールも平板な感じだし、とうてい私が読み得るものでもないと思った。

とにかくつまらなかったのだ。

こんな退屈なものをおもしろいと思う人たちが増えるのなら、私はもう本当に山に隠って暮らしたい(できないんだけどね、実際は)とも思った。

もしかすると面白がれない自分にもちょっとイライラしていたのかもしれない。

そんな時、Eテレで再放送された「ニッポンのジレンマ」を観て、「おや」と思った。
70年代生まれ以降のヒトが集まって6時間(放送はその半分ぐらい)日本の格差をしゃべり倒すという番組で、これが抜群に面白かったのだが、その中での宇野常寛の「語り」が奇妙だったことが気になった。
飯田泰之という経済学者と、宇野常寛という批評家の掛け合いというか、「因縁の付けあい」「互いの主張の拾い方」が抑圧的で、そこは朝生っぽい感じのレトロ感もあったのだけれど、それに対して興味を持った。

いそいで付け加えておくと、会場での一番人気は哲学者の萱野稔人。まあ当然ですね(笑)。
不透明な現況について敢えて語ろうとするときは、その基盤について(たとえそれが非在のものであっても)参照する身振りが必要だ。この場所では萱野氏が提供する政治哲学の視点が仮の参照点として機能していたのだろうから。

私自身も、このメンバーの中では萱野氏の発話を好む。どこかで「世界」を参照したいと思って夜中の再放送を観ているわけだから、飯田泰之と宇野常寛自体(ってのも変ですが)はむしろ「変数」として受け止めることになる。

ただ、萱野氏の提出するヴィジョン自体はたいそう暗い。
成長路線がこれから先とれるならそれに越したことはないが、難しいだろうし、それだけではなく20世紀の負債を21世紀は負の再分配として背負っていかなければならないっていう方向性ですからね。

また、萱野氏は飯田泰之や宇野常寛のようなタイプのプレイヤーではないことも確か。

哲学者ですからね。だからこそ混迷の中ではとりあえずの参照点にもなる。

細かく言えば萱野氏の発話の「文体」=「スタイル」も興味深いのですが、それは別途。

さて、ここまでが補助線です。

「すばる」2012年2月号の対談「個人と世界をつなぐもの」を読んでいくうちに、前述のように、宇野常寛に対する見方が変わっていった。

それは一義的には國分功一郎を宇野常寛の近傍に置くという編集者の身振りの成果なのかもしれない。

少し前にTwitterで
「國分さんともあろうものが、なんで宇野なんか宇野ごときとと(すみません!筆者)対談するのか」
みたいなものが流れたことがあった。

私の中のある部分、つまり「本来性」を国分氏に配置したい欲望は、そんな風に感じていた。
結局「宇野」は「拡張現実」とかいって自分のいるサブカル平面に固執したまま、時代遅れの村上春樹信者に意味のない弾を撃ってるだけじゃん、みたいなね。

しかし、國分功一郎氏の次の問題提起によって、初めてわかりやすいメタ的な宇野氏の「感想」が導き出される。

問題提起(國分)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
1,『リトピー』でも、「ビッグ・ブラザー」が死んだ後の「リトル・ピープル」的権力観が必要なのに、それがわかっていない人たちが多すぎると(宇野は)強く主張。

2,「リトル・ピープル」的権力観というと、哲学だったらフーコー。権力の中心を認めずむしろ社会的関係野中に権力を見いだす考え。70年代マルクス批判としてインパクトあり。(第1段階)

3,次に社会的関係の中に権力を見ることを誤解して、大文字の権力=国家の問題がなおざりにされる。権力は上からではなく下からくる「性差別的表象」とか「植民地主義的表象」みたいな糾弾口調(第2段階)

4,僕(國分)なんかの世代はこの第2段階に対する反省が常識。いわばそれが第3段階。国家の暴力装置の問題と、下からくる権力の問題の両方を考えなければダメということ。

5,そうすると、宇野が指摘する大文字の政治だけを問題にする文化人ってのは周回遅れ(しかも3周!)。そんな日本の批評家のことはどうでもいいんじゃないか?

宇野の反応
ーーーーーーーーーーーーーーー
いや違う。僕(宇野)の仮想的はまさにその第3段階の人たちが一回りしてもう一度第1段階に会期した結果としての自分探しだ。

大震災の後なんかに「震災によって資本主義は根本から揺らいだ」みちあなことをまだ大きなメディアに書く人がいる。しかし東北が壊滅したってグローバル資本主義は揺らがない。だからこそ厄介。

つまり80年代で時間が止まっていて、マルクス主義は得気なものを相対化しつつ、まだ左翼的な権力観は維持したいってモードが生き残ってる。で、それらは実現不可能なロマンの空手形に逃げてしまって結局最悪な形で物語回帰している。それを批判している。

国家の問題を語ることに意味がないといっているのではない。近代的な擬似人格装置として国家を見ることが無理なだけ。
擬似人格ではなく、法システムとして、大きな物語としてではなく大きなゲームとして国家や社会構造を考えようと主張。

ーーーーーーーーーーー

これを読んでなるほどねって感じになった。

言っておけば、今でも宇野氏が「語り口」について言及する対談部分には違和感を抱く。語り口が重要だっていう指摘自体は納得するんだけれど、宇野氏自身の語り口が、いささか性急に「仮想敵」を想定する「立場」に依拠しすぎてやしないかっていう違和感だ。

ようやく本題にたどり着く。
この後の國分のコメント。
「なるほど彼らを批判する理由はよくわかりました。分野によって『批判』がとるべき形というのは異なるのかもしれません。ドゥルーズは『これはすごい』『ここがすごい』ってことだけを書くっていっていて、僕もそれに倣っているんだけど、そういうことが許される業界と宇野さんがいる批評の業界は違うのかもしれないね」

これが良かったのだ。
批判する理由は「わかるよ」
というのと
「違うね」っていうことを併置すること。
公開対談の社交的な結論づけ、と見ることもできるが、國分の言説は共感性を示しつつ、同時に違いを際だたせ、勇気づけていく。
そしてさらに分からない(AKB48)もそこに加えて提示していく身振りは、これを「教育的」といわずしてなんと言おうか(笑)。

社交的であると同時に教育的でもある。

共感と差異と無=理解をきちんと提示してそれらを同時にクリアにしていく「語り口」にもう一つ加えるとしたら、生物的=唯物的=直接性を手放さないこと、になるのだけれど、それはまた別のところで。

一つ付け加えれば3.11を「第二の敗戦」ではなく「第二の戦後」ととらえようという國分氏の提案、賛成に100票。
「戦後責任」の視点ですね。
これはアーレントと絡めて再度考えたいな。

とにかく、この対談は、私にとっては面白いものでした。
そしてもう一つ付け加えていえば、雑誌「文学界」に掲載された國分功一郎の『一般意志2.0』に対する書評にも全く同じ「国分効果」が見られる点も指摘しておきたい。

他者の言説の傍らに立つことによって、自らがもつ本来性に還元せず、差異を豊かさとして味わうというきわめて具体的な実践が生じていると思うのです。
まあ、9割削った、という「本来の?」國分功一郎による東浩紀論を早くみたい、というのがファンとしての感想ですけど。



ニッポンのジレンマ(Eテレ)再放送1/8を見た。

2012年01月09日 00時35分55秒 | インポート
これを見ていたら、何が面白いのか皆目見当がつかずに途中で放り出していた
『リトル・ピープルの時代』宇野常寛
を再読しようと思った。すばる2月号の対談『個人と世界をつなぐもの』(國分功一郎×宇野常寛)を併せて昨日読んでいたことも大きかったかもしれない。

個人と世界をつなぐものは、私は端的に言えば「人為」だと思っている。
もちろん、個人の認識も、世界の認識も、個人に対して現象するものだし、理性の中で起こる閉じられた事象、という側面もある。
逆に、個は常に「アフォーダンス」的に多数の身体を環境の中で持つものだし、それは動物的次元においても社会的文化的次元に於いても様々に錯綜した関係を構成しつつ多層なレイヤーの集積として初めて「個」も「世界」も成立する、という側面もある。

私は個人的に
「人為」が大きな裂け目を見せた3.11の出来事のの中で、飼い犬と父親の死も重なり、

 個人→(動物的→存在論的→社会的)→世界

という、個人と世界との間にある、①動物と②実存と③人為(=社会)との三つの側面から中間領域を考えてみなければ、という主題を背負った。

そういう意味では、宇野常寛のいう「拡張現実」は一読してどうにも平板であり、かつ村上春樹を対象として今評論を書く意味が分からず、仮面ライダーにもガンダムにもAKB48にも関心があまりない53歳としては、とりつく島もない状態だったのだ。

だが、改めて宇野氏の発する言葉を聞いて、あるいは國分×宇野対談を読んでいるうちに、もう少し丁寧に追いかけておくべきなのではないか、という思いが強くなってきたのだ。
自分が福島の事故においてスティグマを背負ったという自覚は、自分の内面に傷というか襞を生じさせる。
だが、一方それは、都会から出版されたり発信されたりする言葉や表現については、どこか一面的平面的な印象を持ってしまう危険を増大させもする。

まあ、実際そういうモノも多いんだけどね。

正直、そんなこんな宇野氏や東氏の言葉は、直ちには自分の中に響いてこなかった。

でも、性急に自分の中だけを探るのではなく、少しディレイをかけるというか、テンポを変えて読む、あるいは掌の上にそれらの言説をのせて転がして見ていると、幾重にも折り重ねられた屈折や屈託があって、その上で「敢えてする」表現が乗せられた形で手渡される、ということがあるのではないか、というぼんやりした「感じ」がある種のリズムとして、あるいは手の中に生じてくる感触として感じられるようになってきたのである。

個人的には「國分効果」ととりあえず呼んでおこう(笑)。
差異を「本来性」によって排除せず、「浅く触れ続ける」(たぶんロラン・バルト)感じとでもいえばいいだろうか。

結果、未読ラインナップに再度挫折していた『リトル・ピープルの時代』を再掲せねばならなくなってしまいました。

ふぅっ。
書き込みしている暇に読まねば!


P.S.
萱野さんもカッコ良かったです。『ナショナリズムは悪なのか』は好著でしたね。面白かった!
でも一つ疑問を抱いてもいるので、それも忘れないうちに書いておかなくちゃならないんだけど、それもまた後で。ああ宿題ばかりが増えるなあ。

つまりは、ナショナリズムで吹き上がる底辺労働者のような意識すら持たずに、「土人of 土人」というか「キングof無関心」というか、AKB48かパチンコかモバゲーかってところで生きる人々をどう考えるか、なんですけどね。
識字率は高いのに革命起きないみたいな(苦笑)。
まあ、齋藤環だかが指摘していたように、親の資産があるから社会に参加しないで引きこもれるって側面もあるんでしょうが。
そのあたり、もう少し考えてみたいです。






TBSラジオ・Dig. 神保哲生さんと萱野稔人さん、金平茂紀さんの新春座談会。(You Tube)

2012年01月09日 00時08分56秒 | インポート
を聴いた。面白かった。
今日は、まず、萱野氏が「ニッポンのジレンマ」でもいっていた民主主義の課題に反応しておきたい。
3.11について、大きな「切断」(金平)と捉えるよりは、今まで連続し、実は自明であったものが露わになった(萱野)という方に立ちたいですが、それは別にat10の開沼論文について触れるところで書きます。
萱野氏の指摘---------------
民主主義には二つの側面がある。
1当事者性の担保
2人気投票(利益誘導)

でも、現在は20世紀型の成長路線の戦後処理、マイナスの分配を政治がやらなければならなくなっていて、1・2ともに機能不全に陥っている。
たとえばEUの中ではギリシャ・イタリアのトップが首を切られ、官僚や学者が次のトップになって敗戦処理をさせられているのをみても、もはや今までの「政治家」が利益誘導による人気を取る余地はないし、民意によって政策選択をする余地も少なくなってしまった(誰がどうマイナスの資産を負担するか、という話になってしまったため)。
政治家は、不人気政策ができない。公平なマイナスの分配は官僚的・学問的・機械的にならざるをえない。

お金がない+政府の正当性が欠如=民衆の次元での不満増大
--------------------------

これ、とっても納得がいった。
これがとっても暗い話に思えてしまうのは、「成長戦略」の夢をつい目線が追ってしまうから、だろうか。

成長すれば全ては解決する(坂の上の雲認識)VS成長神話からの脱却(坂の上の坂認識)
というのは、今日の朝日新聞の一面にある
前原VS枝野
みたいな話になりそうだが。

私は極めて個人的には「成長戦略」が採れればそれに越したことはないと思うけれど、国民の一人として53年間「成長」とかに資することなんて全くやってこなかったので、もし仮に「成長」なんてことがあるとしたら、私とは全く関係ない場所で起こることに違いない、と確信している。

だから、正直「成長戦略」なんて知ったことではない。私にできることはない。何かしようとも思わない。
そんな形で天下国家を論じたいとも思わない。

私はそんなこととは関係なく、山で穴を掘って暮らしたい。

だが、安富歩も指摘するように、自立を目指して他者への依存を拒否していくと、最後に拒否しきれない依存が残ったとき、それに対する固着・執着・依存の比率が大きくなって、取り返しのつかないことになる。
社会から隔絶した状態で、山で穴を掘って暮らすことなど、実際にはほとんど不可能に近い。

だから、むしろ「浅く触れる」出入り可能な社会システム・環境を構想したい、という関心ならある。

だから興味があるのは「中間領域」ということになる。
グローバリゼーションだの国家だのいきなり言われても挨拶に困る。

ただ、自分と世界が適切に接続・連結したり、時には関係を解放したりする仕組みは、絶対に必要だと思うし、人間が社会を営んで行く動物である限り、いや、人間が動物である限りにおいて、環境世界の「可能性条件」とどう向き合い、その中での自己に配慮しつつどう生きていくか、は大きな課題だ。

そういう意味で、迂回路を通ってではあるけれど、自分の生きる環境を常に捉え直し、その中で常に生きている間は動き・変化しつづけるであろう自己と環境の関係を顧慮して生きられる世界のシステムが欲しい。

今日のこの対談でもちらっと触れられていたけれど、民主主義がクローズアップされる前に産業革命がまずあって、成長していくことを前提に資本主義と民主主義はシンクロしてこの数世紀「生きてきた」のだとすれば、近代の見直しを、かつて80年代きわめて「狭い」ところでやっていたポスト構造主義のような袋小路じゃなくて、もっと柄の大きな数百年単位で捉え直すことが必要なんだろう。

水野和夫と萱野稔人の『超マクロ展望 世界経済の真実』の、大きな(ある種ホラ話のようでもあるけれど)スパンでの視点が必要だという指摘とも重なる。

中世→神学あたりの匂いも嗅いでみたくなるというものだ(苦笑)。

さて、ではどうするか、なんて考えてもよくは分からないけれど、國分功一郎がスピノザ・ホイヘンスを参照して、デカルト・ニュートン的な世界像を見直そうとしているのも、うなずける。

安富歩はちょっと表現が「過激」だけれど、自分達の足下を支えてきたロジックを問い直す、という意味で「東大話法」
という言葉を敢えて挑発的に用いている。
「拡張現実」(宇野常寛)、「一般意志2.0」(東浩紀)
もまた、幾重にも屈折を抱えつつ、なおも個と世界の関係を「社会」や「言語」や「宗教」や「倫理」において問い直そうとする3.11以後の営みという点では通底するところがあると思う。

一度にいろいろなことを考えなければならなくなっていて、毎朝それだけで脳味噌が溢れそうだ。

頼まれもしないのに。

でも、今年も書いていこうと思う。
他に趣味も特技もない私にできることは、こうやって言葉を線状的にだらだらと吐き出しながら、その場その場で考えていくことだけだから。



今日は一日

2012年01月08日 23時31分00秒 | 大震災の中で
讃岐うどん屋さんに昼食を取りに行っただけで、ほぼ部屋の中でTwitterをしたり、ustの対談を聴いたりしていた。

本当は暇ができたのだから、本を読みたい、はずなのだがなかなかとりかかれない。

年の後半から溜め込んでいて且つ、冬休みになんとか読もうと思った本が書斎の机を包囲している。
読みさし本はとりあえず15冊ぐらい。

佐々木正人『アフォーダンス入門』
ユクスキュル『生物から見た世界』
今村仁司『親鸞と学的精神』
デイヴィッド・ゴードン『二流小説家』
高野和明『ジェノサイド』
日本の酒『坂口謹一郎』
親鸞『教行信証』
ハイデッガー『ハイデッガーカッセル講演』
大沢在昌『やぶへび』
宮部みゆき『おまえさん』上・下
大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』・『<世界史>の哲学』古代編・中世編
スカーレット・トマス『Y氏の終わり』
蓮實重彦『随想』
白井聡『「物質」の蜂起をめざして レーニン、<力>の思想』
三浦俊彦『虚構世界の存在論』

本当に読み終われない本は『教行信証』ぐらいなはずなんだけれども。

読了分はかろうじて
恩田陸『夢違』
東浩紀『一般意志2.0』
安富歩『生きるための経済学』・『生きるための技法』・『原発危機と東大話法』
ぐらい……

アフォーダンスとユクスキュルは薄い本だし、興味深いところだからこれからさっと残りを読むとして、あとは全て読みさしで連休終了か……。

いつも冬期休業中の読書は意外に中途半端で終わるものだけれど、本当に読書にたどりつくまでの敷居が高くなっていると思う。
体力か気力か環境か、はたまた精神状態の問題なのかしらん。
適度に忙しい方が本や読めたりするんだよね。
去年は「適度さ」に欠けていたってことなんだろう、たぶん。

まあそれでもフィクションが読めるようになったのは吉兆か。

今晩と明日は書斎に籠もってゆっくり読み散らかそう。
どれからやっつけようか。

もう一つ補助線を引いておく。

2012年01月07日 18時43分12秒 | 大震災の中で
千葉雅也氏が深夜のネット生中継的しゃべりで
「小人群居してモナドロジー」
と言っていたのが印象的だった。
完璧にア・ポステオリな啓蒙は可能か?
という問題提起にもつながっている。

そこに至るまでの分析で、実はヒトって、自分自身でさえ十分に複数的存在であって、その自己自身における差異を単なるバラバラで収拾のつかないものとしてではなく、むしろそこで日々「共同」し続けているんじゃないかって話が展開していたように記憶。ちゃんとメモを取っておかなかったのでうろ覚えですが。

それは実はそのまま、今月号の雑誌「文學界」の東浩紀『一般意志2.0』の書評を國分功一郎が書いている、その主題ともリンクしていると思われる。

一と多の関係における「政治性」の困難。

公共性の根拠をどのように「担保」するか、といってもよい。

それを垂直軸の課題として取れば「神・仏」の問題にもなる。

隣接性の課題として取れば教育の問題にもなるだろう。

さて、親鸞に戻ります。
ようやく郡山ジュンク堂で

親鸞『教行信証』
ユクスキュル『生物から見た世界』
(いずれも岩波文庫)
をゲット。

若いときは辛気くさくて岩波文庫など手にする気にもならなかったが、最近死ぬまでに読んでおきたい本が目白押し。

逆に新しい本は取捨選択できるようになってきた。

脳味噌が、新しさを受け入れられないほど固くなったと見るべきか、あるいはようやく詰め込んできた知識が脳味噌のバケツを満たし、ここから構造体が立ち上がるのか?

できれば後者でありたいが、いつもこのボケと思考のクリアとさはコインの両面なんじゃないかと思う。

最近物事があまりにもクリアに理解できるようになってきたのは、肝心なことを見落としても平気になったからじゃないか?という恐怖から逃れられない。
まあ、分かるようになるのと分からなくなるのとは実はそんなにちがわないのかもしれないんだけどね。
いずれもそれ以前とは違った「知」の状態が招来されているには違いないわけで。

ヒトは死ぬまで知的に変化生成し続けるってことなんだろうな。
だとすれば自分を単なる価値付の数直線上にプロットせず、変化の予兆に敏感であること、そして変わらないことの手応えを同時に見失わないこと、が大事なんだろうな。




理神論のこと

2012年01月07日 02時16分48秒 | 大震災の中で
理神論について考えている。

辞書を参照すると
(引用開始)
デジタル大辞泉より(コトバンク)
神を世界・天地の創造者とはするが、世界を支配する人格的超越存在とは認めず、従って奇跡・預言・啓示などを否定する立場。いったん創造された以上、世界はみずからの法則に従ってその働きを続けるとする。17世紀から18世紀の英国の自由思想家たちに支持され、フランスやドイツの啓蒙主義に強い影響を与えた。
(引用終了)

とある。どうも理神論はある種の論の前提や枠組み、特徴ではあっても、それ自体が神に対する特定の主張というわけではない、と見るべきか?

たしかにスピノザの聖書解釈には、この匂いがちょっとしますけどね。
奇跡とか預言とか啓示とか書いてあるけど、それをもたらした預言者とかの「理解」の限界を考えないといかんという点とか。

ただスピノザの『神学・政治論』における聖書についての言及は、テキスト解釈のお手本、みたいな印象を受けます。
極めて今の私達からみてまっとうなテキスト読解の方法提示、に見える。


他方、スピノザはニュートン・デカルト的な、お隠れ遊ばした神の法則を遡及的に究明するっていう方法は採らない(ニュートン自身も理神論には反発があったとか)。

簡単には「理神論」とかいう言葉は使えないなあ、と思いました。

ちなみに今村仁司氏が親鸞においてどんな文脈で「理神論」を使っていたかというと、
1,宗教神学的立場=有神論
2,科学的唯物論=無神論
3,理性の神=理神論
三つにわけ(ものの考え方は基本この3つしかない)、「則天去私」の漱石も、「かのやうに」の森鷗外も、親鸞も3だよね、と言っているっていう文脈。

どんどんスピノザから離れていってる感じもあるんだけれど、必ずしもそうではない。

「こちら側」(世俗)から「向こう側」(非-世俗)に向かって、知性を用いて橋を渡す(渡る?)努力をし、そのリミットにおいて向こう側にたどり着いた後は、「向こう側」(神・仏)から公理系として演繹的に世界が説明されていく道筋においては今村の親鸞と、スピノザは共通している。

遡及的に原因を求めていって根本原因に到る、というやり方ではなく、むしろ道を歩いて行って「分かった」と覚醒したときにはもう迷わなくなる、という方法においても。


「分かる人には分かる」「分かった人にしか分からない」「分かったらそこが極楽だ」

そのある種「行為的」な側面の強い「弱い」「秘教的」な説得=納得ぐあいも他人のそら似ぐらいには似ているような気もしてくる。
さらにいえば、ある種徹底的な受動性の香りがするところも似ていないわけではない。
「善/悪」二元論を採らないスタンスも。


まあ、断片的に書いてみても埒はあかないので、もうちょっと勉強してからいろいろまた考えてみます。
でもとにかく、親鸞、面白そうな感じが増してきました。




お袋が親鸞を読んでいたので、スピノザの話をちょっとしたら

2012年01月06日 22時44分34秒 | 大震災の中で
「へぇ、似たようなことを考える人はいるんだねえ」

とコメントをもらって、思わず顔がほころんだ。

親鸞とスピノザが似ているかどうかは、それを語った私が牽強付会に重ねて表現しただけのことなので全くの「匙加減」に過ぎない。
でも、今村仁司の最後の著作『親鸞と学的精神』を今日(上野の博物館で清明上河図見学の行列に並びながら)読んでいたら、親鸞に「理神論」を見る、という表現が出てきてどきっとした。

スピノザが果たして今村のいう「理神論」に該当するのかどうか、さえ私は哲学史の知識がないから分からない。
でも、ばあさんが言ったのは、要するにそういうことだろう。

それは大澤×佐々木のポッドキャストで繰り返されている「第三の審級」が不可能だけど不可避だっていう話ともつながり、東浩紀の敢えて言う『一般意志2.0』のテーマとも響き合っていると私は思う。

私(たち)の場合は、福島県の原発事故というスティグマを背中に背負ってるので、その辺も踏まえて論じないといけないからいまだにうろうろぐじぐじまとまらないんだけれど(苦笑)。

自然と人為の裂け目の関係の話をもう少し煮詰めておかねば冬休みが終われないなあ。
ドゥルーズのスピノザ論が進まないので、親鸞の方を少し外堀から埋めている1月6日夜でした。


大澤真幸×佐々木敦トークセッション、面白い!

2012年01月06日 22時13分44秒 | インポート
今、「テン年代のリアルとは?」大澤真幸×佐々木敦トークセッションを聴きました。
面白い!佐々木氏の『未知との遭遇』出版記念イベントだそうです。ジュンク堂ポッドキャストで公開中。
まだ本を読んでいないのに、読んだ気分になっちゃいました(^^;)。

他にも
「未知との遭遇は如何にして可能か?」千葉雅也×佐々木敦


も、まだ聴いてませんが、おもしろそう。よろしかったらぜひぜひ。

震災時の短歌(拾遺)

2012年01月05日 13時34分58秒 | 大震災の中で
2011年05月31日ここに書き付けた短歌の残りが、消そうとした反古のファイルから出てきました。

すっかり忘れていましたが、当時のテンションだからこそ
恐ろしげもなく短歌まで書いたりしたのでしょう。この後は、一首たりとも書こうなんて大それたことは考えませんでしたから。


その時の気分を記録するよすが、ということでアップしておきます。

写真には撮れなかった「気持ちのショット」ってかんじですね。

短歌のリズムはは素人にとっても情緒的な表出に便利なのだと改めて思います。

俳句じゃこうはいかない。言うまでもなく上手下手は論外として、です。

俳句は書こうと思っても書けない。あるいは「書けた」と錯覚できない(笑)のです。


☆教室で

全員で
迎える五月の始業式
懐かしき声懐かしき顔


☆海岸近くにて

去年の夏
友と泊まりし民宿に
取り壊し許可の
貼り紙かなし

アルバムを玄関先で洗っている
若い夫婦の声柔らかく

海岸のコンクリートの堤防が無残に折れて転がっている

☆原発事故に寄せて

避難所に風の便りの届くまで
叫ぶがごとく桜花咲け

「直ちには影響ない」と会見する
君の話は誰(た)がためのもの?

☆病室にて

苦しまず終われればいいと
呟いた
父思い出す病室の夜

おまえには
伝えることがと
言いかけて
眠りに入る
父を起こさず

(こっちは当時アップしたものです)
http://pub.ne.jp/foxydog/?monthly_id=201105