10月13日(土)晴れ【南無釋迦牟尼佛のすすめ】(南無釋迦牟尼佛 禪月翠巌老師筆)
浄土宗のお寺に10年ほどいたが、浄土宗では十念といって南無阿弥陀佛を十回、どんなときにも檀信徒さんと一緒にお唱えする。浄土真宗ではやはり南無阿弥陀佛のお念仏を何回でもよくお唱えする。台湾の尼僧の友人も歩いているときでさえ、「阿弥陀仏陀、阿弥陀仏陀(アミダブッダ)」とお唱えしながら歩いている。また日蓮宗の人たちは「南無妙法蓮華経」とお題目をあげることは、誰しも知っているだろう。
ところが、曹洞宗や禅宗ではそのようなお唱えごとは、あまりしないのではなかろうか。坐禅こそが大事な行であるから、自然にそうなるのではあろうが、実際問題としては、日常生活で坐禅をする人は少ないのではなかろうか。僧侶は別としても。
仏教の信仰を深めるためにも、僧侶任せではない、それぞれ自身の行が大事ではなかろうか、と私は思っている。法事などで在家の人々とお経をお唱えするたびにその思いを強くしている。法事の折は、列席の皆さんと一緒に、『般若心経』を誦したり、三帰依文を誦したりしている。そのような僧侶の人も多いと思う。
それでも日々に仏壇でお参りをするときに、在家の方々は、いつも『般若心経』など読誦できないときもあるのではなかろうか。まして坐禅はできないだろう。そこで私は「南無釈迦牟尼仏」とお唱えすることをおすすめしている。
南無とは、namasというサンスクリット語の音写で、仏の教えに帰依し、信を捧げます、という意味であるから、南無釈迦牟尼仏は、お釈迦様の教えに帰依し、信仰の真を捧げます、という意味になろう。そのように仏に帰依する功徳を、仏壇に祀ってある先祖に回向するのが、お参りである。ただ手を合わせれるだけでも、悪くはないが、十分ではないと言ってよいだろう。
「南無釈迦牟尼仏、お釈迦様、どうぞお父さんを宜しくお願いします、お母さんを宜しくお願いします、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんを宜しくお願いします」と亡き家族の冥福を祈ったり、苦しいことがあれば「南無釈迦牟尼仏、どうぞお見守り下さい」と祈るのもよいのではなかろうか。「南無釈迦牟尼仏」と一回でも十回でも百返でもお唱えしてもよいのではないだろうか。
有り難いことに曹洞宗は、あまり異安心いあんじんということを言わない。今はどうなのか知らないが、ある宗派ではちょっとでも教義から外れることをいうと、異安心として叱責を受けたそうだ。「南無釈迦牟尼仏」のお唱えは、曹洞宗儀礼規定にはないと言う方もいらっしゃるかもしれないが、御詠歌ではよくお唱えしているので、それほどに間違ったお勧めではないだろうと思っている。おそらく、私のようにしている僧侶の方もいらっしゃるだろうと思うのですが。
「南無釈迦牟尼仏」のお唱えを、勧められた方々も、今までどのようにお参りしてよいか分からなかったので、よかった、有り難い、と言ってくださる人が多い。信じる心を表すこと、表して信仰をさらに深める、ということがあるだろう。信仰は決してお坊さんだけのものではなく、全ての人の為のものなのだ。このような分かり切ったことであるが、お葬式や仏事のためだけに、仏教に接しているのは勿体ない。それぞれの命をしみじみと生きるため、自らの内を深めるために、お釈迦様の教えにふれて貰いたい。人にお勧めするだけではなく、私自身、南無釈迦牟尼仏、とお唱えしています。
お唱えの声は我が口より出づれども、我が耳より入り、我が全身に浸透する。称名やお念仏やお題目を挙げる宗教的実体験は、それを実践して初めて分かることですから、一人一人にとって、自分自身の信仰として意義のあることでしょう。
**上の写真ですが、師匠に揮毫していただいた書です。佛名を揮毫した書には、冠帽印は押さないのですが、私が師匠の行者をしていまして、押してしまいました。
浄土宗のお寺に10年ほどいたが、浄土宗では十念といって南無阿弥陀佛を十回、どんなときにも檀信徒さんと一緒にお唱えする。浄土真宗ではやはり南無阿弥陀佛のお念仏を何回でもよくお唱えする。台湾の尼僧の友人も歩いているときでさえ、「阿弥陀仏陀、阿弥陀仏陀(アミダブッダ)」とお唱えしながら歩いている。また日蓮宗の人たちは「南無妙法蓮華経」とお題目をあげることは、誰しも知っているだろう。
ところが、曹洞宗や禅宗ではそのようなお唱えごとは、あまりしないのではなかろうか。坐禅こそが大事な行であるから、自然にそうなるのではあろうが、実際問題としては、日常生活で坐禅をする人は少ないのではなかろうか。僧侶は別としても。
仏教の信仰を深めるためにも、僧侶任せではない、それぞれ自身の行が大事ではなかろうか、と私は思っている。法事などで在家の人々とお経をお唱えするたびにその思いを強くしている。法事の折は、列席の皆さんと一緒に、『般若心経』を誦したり、三帰依文を誦したりしている。そのような僧侶の人も多いと思う。
それでも日々に仏壇でお参りをするときに、在家の方々は、いつも『般若心経』など読誦できないときもあるのではなかろうか。まして坐禅はできないだろう。そこで私は「南無釈迦牟尼仏」とお唱えすることをおすすめしている。
南無とは、namasというサンスクリット語の音写で、仏の教えに帰依し、信を捧げます、という意味であるから、南無釈迦牟尼仏は、お釈迦様の教えに帰依し、信仰の真を捧げます、という意味になろう。そのように仏に帰依する功徳を、仏壇に祀ってある先祖に回向するのが、お参りである。ただ手を合わせれるだけでも、悪くはないが、十分ではないと言ってよいだろう。
「南無釈迦牟尼仏、お釈迦様、どうぞお父さんを宜しくお願いします、お母さんを宜しくお願いします、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんを宜しくお願いします」と亡き家族の冥福を祈ったり、苦しいことがあれば「南無釈迦牟尼仏、どうぞお見守り下さい」と祈るのもよいのではなかろうか。「南無釈迦牟尼仏」と一回でも十回でも百返でもお唱えしてもよいのではないだろうか。
有り難いことに曹洞宗は、あまり異安心いあんじんということを言わない。今はどうなのか知らないが、ある宗派ではちょっとでも教義から外れることをいうと、異安心として叱責を受けたそうだ。「南無釈迦牟尼仏」のお唱えは、曹洞宗儀礼規定にはないと言う方もいらっしゃるかもしれないが、御詠歌ではよくお唱えしているので、それほどに間違ったお勧めではないだろうと思っている。おそらく、私のようにしている僧侶の方もいらっしゃるだろうと思うのですが。
「南無釈迦牟尼仏」のお唱えを、勧められた方々も、今までどのようにお参りしてよいか分からなかったので、よかった、有り難い、と言ってくださる人が多い。信じる心を表すこと、表して信仰をさらに深める、ということがあるだろう。信仰は決してお坊さんだけのものではなく、全ての人の為のものなのだ。このような分かり切ったことであるが、お葬式や仏事のためだけに、仏教に接しているのは勿体ない。それぞれの命をしみじみと生きるため、自らの内を深めるために、お釈迦様の教えにふれて貰いたい。人にお勧めするだけではなく、私自身、南無釈迦牟尼仏、とお唱えしています。
お唱えの声は我が口より出づれども、我が耳より入り、我が全身に浸透する。称名やお念仏やお題目を挙げる宗教的実体験は、それを実践して初めて分かることですから、一人一人にとって、自分自身の信仰として意義のあることでしょう。
**上の写真ですが、師匠に揮毫していただいた書です。佛名を揮毫した書には、冠帽印は押さないのですが、私が師匠の行者をしていまして、押してしまいました。