風月庵だより

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山口の旅4 龍文寺歴代の墓所

2007-10-29 22:16:22 | Weblog
10月29日【山口の旅4 龍文寺歴住の墓所】(龍文寺墓所)

龍文寺歴代住職の墓所は山門の前の山の中にあった。開山竹居禅師から器之禅師や現在まで51代の住職の卵塔の並ぶ墓所で、一時間も過ごしてしまった。ほとんど朽ちて字は一切残っていない器之禅師のお墓であるが、他の単純な形の卵塔に比べて、あまりに洒落ていた。4世の弟子大庵須益禅師が建てた、当時のものかどうかは分からない。開山と2世の墓はあっさりとした卵塔である。

器之禅師の語録は大阪、奈良、京都、静岡などのお寺に書写したものが残されていることからも分かるように、日本の各地から雲衲が集まって教えを受けていたことが推察される。器之禅師が遷化なさったときはおそらく教えを受けた禅僧たちが駆けつけたのではなかろうか。弟子の大庵禅師は大寧寺から馳せ参じたという記録が残されている。この度バスや電車を使って、長門の大寧寺から周防の龍文寺まで訪ねてきたが、当時は峠を越えたりしての徒歩によるルートもあったと思うが、船を使っての往来も盛んであったろうことが現地を訪問して実感できた。

大内氏の対韓貿易を盛んにできたのも、船が充分に往来していたからであろう。龍文寺の脇には錦川が流れているが、この川を使って木材の切り出しも盛んになされたそうで、建物を造るだけでなく、造船にも大いに役に立っていたのではないかと想像する。すぐに駆けつけるにしても船に乗って来た可能性が高い。

さて、器之禅師は晩年、視雲亭という隱居所を建てて、悠々と空行く雲を友として遊んだ、ということが資料から読むことができるが、その跡は、今は一切残っていない。

そう言えば私も雲が好きで、いつも雲ばかり眺めている。器之禅師には及びもつかないが、趣味だけは似ていたようである。思いがけない類似点からの縁が、500年前からの縁を運んできたのかも知れない。禅師はかなりの学僧でその時代では有名であったようだ。そのような人の跡を追いかけるのは、そろそろやめようかと思っていたが、この山口行きで、もう少し頑張ってみようかという気がしてきた。現地を味わうと500年前のその人が少し身近に感じられるということは面白い。器之禅師さん、あらためまして、こんにちは、という感じである。しかしそこからなにを学ぶのかが問題だ。知識が増えるだけでは先行き短い命を賭ける意味がないだろう。

歴代の墓所に佇んで、この地で修行した禅僧たちの目指したものはなんであったかと思いを馳せた。器之為璠の伝言は何か。禅僧としていかに生きたか。それを学んで如何に生きるか。

山口の旅3-周防の名刹 龍文寺

2007-10-29 21:30:57 | Weblog
10月29日(月)晴れ【山口の旅3-周防の名刹 龍文寺】(龍文寺山門)

どのような縁によってか、器之為璠きしいはん(1404~1468)という禅僧の書かれた語録を研究することになった。私はもともとは中国の宋代の禅僧の研究をしていたのだが、いつの間にか器之さんになった。たまたま誰もこの語録を担当する人がいないので、私にまわってきたという経緯であるが、この禅師のお蔭で大寧寺さまにも声をかけて頂き、また龍文寺さまにまでお参りできることになった。

大寧寺は日本海側であるが、龍文寺は瀬戸内海側の周南市に位置している。しかし、かなり内陸に入るので、JRの徳山駅から車で20分ほどを要する。山口県は高い山はあまり無く、海岸線を離れるとすぐになだらかな山が眼前に見えてくる。龍文寺はそんな山の中にあった。

まず立派な山門が出迎えてくれた。最近建立されたようで木の香りさえしそうな感じである。この山門を建てられたのは、現住職の中村俊孝老師である。丁度開山忌(10月25日)前のお忙しい時に伺ってしまったのだが、ご親切にいろいろとご教授をいただいた。

この地で器之禅師は40歳前後より、示寂するまで(65歳)、ほとんどを過ごしている。大寧寺の五世にもなるが、大寧寺の方は弟子の大庵須益に任せて、ご自分は龍文寺の方に主に住していたのではないか、と想像していた。現地に来てみて、やはりそうだったのではなかろうかと思った。

龍文寺は開山は竹居正猷ちっきょしょうゆう禅師であるが、勧請開山かんじょうかいさんであり、実際は竹居の弟子の在山曇璿ざいさんどんせん(?~1445)が、永享元年(1429)に建立した。開基は大内家の家臣陶盛政である。このとき大内家の当主は27代の持世のときである。これ以後龍文寺は代々陶家の菩提所となり、当寺には陶家代々の墓所がある。

器之禅師が龍文寺の3世になったのは法兄ほうひんの在山が示寂した文安2年(1445)からであるが、示寂の年、応仁2年(1468)まで住職を勤めているので、歴代住職の中でも住山年数は長い方ではなかろうか。それだけ龍文寺に対しての器之禅師の思い入れは深いと察することができる。

住職をしてまもなくの2年後に、龍文寺は火災に遭っている。3年間は山口市の下小鯖にある寺に寓居し、復興のための努力をしていたことが語録の記録から読み取ることができる。復興にようやく着手できたのは3年後の宝徳2年(1450)であり、4年の歳月をかけて伽藍の復興を成し遂げたことが、やはり『龍文六代誌』や語録などから読み解くことができる。(この『龍文六代誌』という資料は在家の信者さんの家から発見されたそうである。)

この宝徳2年にはこのあたりに大暴雨風が吹き荒れて、大飢饉になっている。そのようなこともあって伽藍の復興に時間がかかったこともあるだろう。

この飢饉を救う為もあるだろうが、次のような伝説が残されている。童女に身を変えた毘沙門が現れて「龍門鼎裏 炊萬斛」(龍門の鼎裏、萬斛を炊ぐー龍門寺の竈ではたくさんの量の食料を煮炊きできるだろう)というお告げとともに粳米の長い穂を与えてくれたという。これがこの土地の長穂の謂われでもあるが、これも器之禅師の時代の伝承である。

また夢に門という字を文に改めるお告げを受けて、それまでの門という字を文に改めたのも器之禅師であり、これも宝徳2年のことと資料には記載されている。(日本全国のりゅうもんという名のお寺は、このお寺以外は龍門の字のほうが多い。)

器之禅師が龍文寺の中興と謂われる由縁は、火災からの復興と近隣の農家の稲作の改良を助けたのではなかろうか。器之禅師の永平寺復興に関する漢詩による功績もあるが、孫弟子達の永平寺復興の功績によって、「鎮西吉祥山」の山号を与えられている。

江戸時代には直末60ヵ寺、門末238ヵ寺をかかえていた。その元を築いたのは、実に器之禅師ということが言えよう。

明治12年に七堂伽藍が火災で焼失したそうで、現在の建物はその後建てられたものであるが、往時を感じられるような禅寺の雰囲気を漂わせている龍文寺の佇まいであった。