風月庵だより

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逃げるという手があるー自殺に追いつめられる前に

2007-10-19 21:15:11 | Weblog
10月18日(水)  【逃げるという手があるー自殺に追いつめられる前に】(秋の朝)

(この一文は強く生きられる方には無用の一文です。私のように弱い人だけお読みいただければと存じます。)

先頃、上司の虐めにあって自殺した人に労災が認められた、というニュースがあった。人間の屑扱いをされれば、普通の神経の人なら、穏やかではいられないだろう。それが毎日のように続き、「給料泥棒」とか「消えろ」とか言われたのでは、神経がおかしくなってしまうことは本当に理解できるし、お気の毒でたまらない。

しかし、神経がズタズタになる前に、「逃げるという手があること」をお伝えしたかった。でも家族の生活のことを考えると、きっと頑張ろう、頑張ろう、となさったにちがいない。

私は逃げる手を使った。還暦になるまでの人生で、本当に嫌な目にあったということがある。それも大人になってからで、それまで充分に強く生きてきたと思っていた私でさえも、陰湿ないじめには負けた。そのとき、悪意のエネルギーの強烈さを知った。そこで骨を埋めてもよいと思っていたほどであったが、何回もそうされたことが分かって、そこから私は逃げた。今でもよりつかないで逃げている。負け犬と言われてもかまわない。理不尽なところで戦うよりも、逃げたほうがよい。

神経がズタズタにされてからでは、逃げる気力もでなくなってしまう。追いつめられる前に逃げて欲しい。負けよう、負けよう。そしてなんとか生きよう。生きていればなんとかなる。だから神経の修復がどうにも難しくなってしまう程頑張っては駄目。自分の神経が危ないな、と感じたら、空でもボーッと眺めていよう。何にもしなくても良いからボーッとしていよう。そして、逃げるという手があったか、と思ったりして、享年と言われるときがくるまでなんとか生きてみよう。

眠れなくなったら危ない、食べられなくなったら危ない、それは神経が疲れ切る前のシグナルだから、逃げよう。逃げるという手があるのだから。どこに逃げても地球の内だから、そしてこの大空はどこまでも一緒だから。自分の居場所を見つけるまで逃げればよい。そして一呼吸、深呼吸をして、また一呼吸、深呼吸をして、さらに一呼吸、深呼吸をして、そのうちなんとかなるから。

昨日、学術大会があって、山口賢明さんという方の「伝記史料・著述と逸話にみる良寛の教化」という発表を聞かせていただいた。そのなかに次のような和歌があった。

僧はただ 万事はいらず 常不軽じょうふぎょう 菩薩の行ぞ 殊勝なりける
(常不軽菩薩:あらゆる人の成仏を信じて、逢う人ごとに礼拝したという菩薩)
(僧はひたすらに常不軽菩薩の行をすることだけが、なによりもすぐれた行であることよな。他のことは一切しないでもよいほどに。)

人からどのような目にあっても、ある時から、良寛様はただ手を合わせて生きられたのであろう。

いつか時が流れて、心に余裕ができれば、良寛様のこのような和歌にも、そうだと頷ける時もくる。いじめる人にも手を合わせられる時もくる。神経を切られてしまうほどまで我慢してはいけない。

いつでも「そうだ、逃げるという手がある」と思いついて欲しい。一度きりしかないあなたの命だから。

でも、もし家族を自殺で失った方がいたら、決して自分を責めてはいけない、どうすることもできなかった、みんな自分持ちの人生だから。それまでよく頑張ったと思ってあげた方が浮かばれるのではないかしら。