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山口の旅1-長門の名刹 大寧寺

2007-10-27 15:19:55 | Weblog
10月27日(土)雨【山口の旅1-長門の名刹 大寧寺】(大寧寺本堂横から写す。梵鐘は一四世紀鋳造のもの)

先週の土曜日から、山口を訪問する機会を得た。長門市にある大寧寺たいねいじの岩田啓靖老師が、勉強の機会を下さったのでこの度の訪問が叶ったのである。毎年同寺で営まれている大内義隆公追善法要と、檀家さんたちの総供養の秋季法要にお呼び頂いたのである。

大寧寺は、私が研究するご縁となった、器之為璠きしいはん禅師(1404~1468)という方が五代目の住職を勤めた、この地方の名刹である。大寧寺の開創は応永17年(1410)。開山は石屋真梁せきおくしんりょう禅師(1345~1423)、開基は大内家の分家である、鷲頭わしのうず弘忠になる。

日本も室町時代(1392~1573)は、その前は南北朝の戦いもあり、室町後半は応仁の乱(1467)後、織田信長が15代将軍足利義昭を滅ぼすまでの戦国時代あり、戦さに継ぐ戦さの時代であるから、この大寧寺も何度か戦乱の嵐に巻き込まれている。

開基弘忠も文安5年(1448)には主家筋の大内家28代の教弘のりひろに滅ばされている。この時の住職は器之禅師の師匠、竹居正猷ちっきょしょうゆう禅師(通説は1380~1461。私の研究では1378~1459)である。竹居禅師はいったんはこの寺を退いたが、大内氏の懇願により再び大寧寺に戻り、弘忠公を祀り、以後大内家の菩提寺となった。

この竹居禅師という方は、かなり包容力のあった禅僧ではなかろうか、と推察できるいくつかの事例がある。鹿児島の島津家の分家である伊集院家の出身である。(現在伊集院は町名になっている)

大内家は第25代の義弘の頃から朝鮮貿易を開始してかなりの財力を養ったのである。教弘公の時も対外貿易によってかなりの経済的発展を遂げていた。31代の義隆公まで、大内家は対外貿易による財力を背景に、今に大内文化と言われる文化を長門、周防の地に残しているのである。

しかし、権勢を誇った大内家であるが、義隆は家臣の陶晴賢すえはるかたによって非業の最期を遂げている。大寧寺には、義隆公の墓を囲んで、十五歳で父に従って亡くなった二條姫と、哀れ七歳で一期を終えた義隆の子義尊の墓、さらにそれを取り囲むように家臣らの墓が、本堂の上に祀られている。(この後陶氏は毛利氏に滅ばされ、大寧寺は毛利家の菩提寺となる)

この戦火で大寧寺の堂宇は焼失しているし、その後も寛永17年(1640)に野火による火災に遭っている。現在の本堂は僧たちの衆寮を移築し、向拝や後陣を増設した建物で、県の指定有形文化財となっている。往時はどのような伽藍が広がっていたことであろうか。七堂伽藍が整っていたことを示す文献も残されている。実にお寺にとって火災ほど残念なことはない。曹洞宗中国三ヵ寺の一つであり、末寺五百十三ヶ寺を抱えていたと『日本名刹事典』に記載されている。

五百数十年の昔、器之禅師らもこの地を踏んでいたのだと思いながら、感慨ひとしおの思いで境内を歩かせて頂いた。

また応永年間(1391~1427)には三世の定庵殊禅禅師のとき、近隣に温泉が湧出して、今にいたるまで湯本温泉が残されていて賑わいをみせている。おそらく器之禅師もこの温泉に浸かったのではなかろうか。

(写真に写っている梵鐘は千三百年代に鋳造されたものなので、おそらく器之禅師も撞いていたのではないかと推察される。正確な年代は傍らに書いてあったのだが、メモをとらなかったので残念。)