10月17日(火)晴れ【享年】(夜明け前)
あるときの墓所開眼の折、白木のお位牌には享年73才と書いてあるのだが、墓石のほうに72才と刻まれていた。「これは?」と尋ねると、「お祖母ちゃんは満で72才だったので」と答えが返ってきた。確かに享年という年齢の書き方は亡くなったときにしか聞かない年齢なので、僧侶が間違えたのかと思ったのかもしれない。
享年というのは、天から享うけた年、という意味であるが、仏教ではお腹に宿ったときから、すでに心があるので、お腹にいる間も年齢に数えるのである。藤本晃(宗教学の博士)という方の『功徳はなぜ廻向できるの?』という本に《人間に生まれるだけの功徳をもっている生命であれば、親の精子と卵子が結合して間もない細胞があるなら、その細胞に心がサッと宿ります。これが人間として「生まれた瞬間」です。》と説明されている。実に分かりやすい表現といえよう。ですから満年齢に10ヶ月を足した年齢が享年である。(胎教が大事なことは言うまでもない)
先日12日に黒川紀章という建築家の方が亡くなられたが、1934年4月のお生まれなので享年は74才ということになる。自由な発想で生きられた方のお一人だろう。最期の言葉も世の妻たちにとっては、羨ましい限りの言葉ではなかろうか。
しかし、どのように生きれても、最期は来てしまう。享年何歳と言われるまでの命である。自分に任された命であるから、なるべく心が清々とするように生きたいものだと願うのである。
あるときの墓所開眼の折、白木のお位牌には享年73才と書いてあるのだが、墓石のほうに72才と刻まれていた。「これは?」と尋ねると、「お祖母ちゃんは満で72才だったので」と答えが返ってきた。確かに享年という年齢の書き方は亡くなったときにしか聞かない年齢なので、僧侶が間違えたのかと思ったのかもしれない。
享年というのは、天から享うけた年、という意味であるが、仏教ではお腹に宿ったときから、すでに心があるので、お腹にいる間も年齢に数えるのである。藤本晃(宗教学の博士)という方の『功徳はなぜ廻向できるの?』という本に《人間に生まれるだけの功徳をもっている生命であれば、親の精子と卵子が結合して間もない細胞があるなら、その細胞に心がサッと宿ります。これが人間として「生まれた瞬間」です。》と説明されている。実に分かりやすい表現といえよう。ですから満年齢に10ヶ月を足した年齢が享年である。(胎教が大事なことは言うまでもない)
先日12日に黒川紀章という建築家の方が亡くなられたが、1934年4月のお生まれなので享年は74才ということになる。自由な発想で生きられた方のお一人だろう。最期の言葉も世の妻たちにとっては、羨ましい限りの言葉ではなかろうか。
しかし、どのように生きれても、最期は来てしまう。享年何歳と言われるまでの命である。自分に任された命であるから、なるべく心が清々とするように生きたいものだと願うのである。