monologue
夜明けに向けて
 



 
 今回だれも謎と思わなかったことに取り組ませ、まったくヒントを与えないのは自立のための卒業試験のつもりなのかもしれない。ホームページなら何ヶ月もかけて出てきた結果をじっくり考証しながら発表してゆけばいいのだがブログはテストの実況中継のようである。謎解きは遅々として進まないがはたしてわたしたちはこの難しいテストに受かるのか。
 二見興玉神社の創建者、行基は、天智天皇7年(668年)和泉国大鳥郡蜂田郷(大阪府堺市)で、百済系渡来人王仁(わに)の後裔西文(かわちのふみ)氏から別れた高志(こし)氏の出身の父高志才智(さいち)と蜂田首虎身(はちだのおびととらみ)の娘古爾比売(こじひめ)を母として誕生している。
百済系渡来人の末裔である行基がなぜ興玉神社を創建したのか。なにか関わりがあるのか。
父、高志才智の名前は歳智と書くのだろう。この歳はニギハヤヒの青年期の名前。そして母蜂田古爾比売という名前の古はニギハヤヒの幼名布留である。
行基はニギハヤヒの名前をそれぞれがもった両親から生まれているのだ。
かれは貧民救済や治水、架橋などの社会事業活動に加えて造寺運動にも力を注いでいる。
 ニギハヤヒを主君として仕え奉っていた長髄彦の旧跡、奈良県生駒市上町に建てられた真弓町長弓寺の創建譚にも行基の名前が残っている。聖武天皇が鷹狩をしていた時に現れた鳥を射落すと黄金の鷹と化し、佛法守護を誓ったので、行基に十一面観音を祀らせ、長弓寺を創建したという。ここではニギハヤヒは黄金の鷹から十一面観音に転生しているのだ。そのとき行基は関与していた。この長弓寺は元は登弥神社であり饒速日命とその妻、御炊屋姫を祀っていた。『先代舊事本紀』に天羽羽矢を白庭山に納め饒速日命の墓としたとある「天羽羽弓」を納めた真弓塚が東側にある。この寺の名、長弓寺は蛇神信仰の長髄彦のナーガー(竜)とニギハヤヒの弓(キュウ)を合わせた命名である。
 また行基が聖武天皇神亀5年(728)九州諫早の地を訪れ、雲仙を遙拝して石祠を作り、四面宮と呼んだことが諫早神社の創建という。行基は佛教者であるはずだが寺ばかりではなく神社まで建てているのだ。
行基は普通の僧ではなく人に見えないものが見える力があったらしい。どうやら二見興玉神社もかれの両親の名前に潜む影が創建させたようだ。やはりあの夫婦岩にもニギハヤヒの影が濃くかかっていることを感じる。
fumio

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