monologue
夜明けに向けて
 



 1979年夏、ロサンジェルスタイムス紙の日曜版、別刷「calendar」に「Apocalypse Now」と いう文字が載った。なんのことかと思うとフランシス・フォード・コッポラ 監督 の新作映画のようだった。封切り日に夫婦で劇場に駆けつけるとドアーズの The endに始まる映画冒頭から重苦しい雰囲気に包まれた。途中、精神に異常をきたしていると思われるキルゴア( Kilgore)中佐の戦闘ヘリコプター部隊が「ワルキューレの騎行」 をバックミュージックに村落を攻撃する場面は観客のだれもが見るのが辛かっただろう。映画が終わってもすぐに立つ者はいない。しばらく立てないのだ。駐車場に出てくる人々の足取りは重く虚しさやりきれなさの中だれかと顔を見合わせて微笑むこともなかった。実際にベトナム戦争を戦った国で封切りの日にこの映画『地獄の黙示録』を見た人々の反応はあまりに重いもので鉛でも呑んだようという表現に近いものがあった。わたしたち夫婦は異邦人なので部外者といえるけれどそれでも十分重く、帰りの車中でもあまり話しができなかった。映画を見てあれほど影響されがっくりしたことはない。

 そして数十年が経って日本で暮らしているわたしの家にバプテスト派の宣教師ジェームズ・ラッセル師が何度かやってきた。若い頃流行った歌の話しで盛り上がった時、わたしが「ドアーズのジ・エンドはどう思う」と訊くとかれは「あれは最悪」と評した。
わたしはかれの反応が面白くなって「じゃあEve of Destruction 、は?」とたたみかけて訊くとラッセル師はやはり「あの歌も最低」と語気を強めて答えた。やはりこの二曲はキリスト者にとっては相容れない内容なのだと妙に納得したものだった。
fumio

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