ある時、中島茂男がしばらくサンフランシスコに行くと言い出した。わたしはわずかばかりの餞別を渡し見送った。
それから仕事は振り出しに戻った。アコースティックギターにギターマイクをつけてひとりでエンターティナーの仕事をこなした。
そのうちラテンギター、ジャズギター、女性ピアノという変則的な編成のバンドのベース兼ヴォーカルを頼まれた。ロックも演歌も歌謡曲もラテンインストルメンタルもなんでもありだった。とにかく譜面をたくさんコピーしてきてなんでもやれるようにまわりもちでだれかの家に集まって練習した。のど自慢などの出場者のバック演奏も譜面通りではなくその人のキーにあわせてすぐ弾けなければいけない。審査の間にはわたしはゲストのプロとして演歌の「与作」を歌ってみせたりした。わたしの家の裏庭で日曜に機材を使用してみんなで稽古していると裏の長屋のメキシカンや黒人住民が石を投げ込んできた。休みの日にうるさいと腹が立ったのだろう。
わたしにとってそれは幸せな日々であった、とにかく歌を歌って暮らせるのだから…。
それは幼い頃からの望みだった。
fumio
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