monologue
夜明けに向けて
 



 昨日、わたしの居住する地域「藤兵衛新田」という名前について記した文章が配布されたので以下にコピーさせていただく。

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~藤兵衛新田の生い立ち~(その1)


 1500年頃の戸塚周辺は、戸塚村・指間(差間)村・立野村でかたちが作られていた。

現在の戸塚(東福寺)差間(三仏寺)・立野(西福寺)3ケ所のお寺を中心にして栄えていたと思われる。

 東側から北側に掛けては何もない原野であり、綾瀬川・伝右川が流れ ススキ・葦・茅などにおおわれ、うっそうとした湿地帯であったと考えられる。

  その頃、戸塚には龍賀城があり、小宮山弾正介という武士が支配していましたが1589年、豊臣秀吉の命により上杉景勝が小田原、北条征伐に向かう途中、龍賀城の戦があり小宮山弾正介は破れ、あえなく落城、落ち延びるが綾瀬川のほとりにてとらえられ討ち死にしたと伝えられている。
その場所が藤兵衛新田あたりと知られている。
生き残った数人の武士たちが、この土地に暮らし始め、信仰深い人達であったのか弁財天・神明さま・やがて稲荷神社などを祭り少しずつ人が集まるようになり、徳川時代の1656年の頃に、戸張藤兵衛と言う人が村としてまとめ、新田開発をしたと言われ、町名の由来は開発者の名前をとったものです。

  また翌々年には、隣の久左衛門新田も田中久左衛門という人が開発したと言われている。


  ここ戸塚では、徳川時代となり世の中が落ち着いたことから新田開発に力を入れるようになり、一つづつ集落が造られ、開発した人の名前が数多く町名として残されたようです。
             資料(戸塚年表参照)
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 以上、小宮山弾正介忠孝は岩槻城主、太田資正の家臣だったが、跡目争いにより岩槻城を追われると忍城城主成田氏の家臣となった。かれは深井藤右衛門好秀の舅で天正年間、戸塚城主として埼玉県川口市で二百貫文を領有した。

  埼玉高速鉄道戸塚安行駅の前の丘が戸塚(龍賀)城の跡(戸塚立山遺跡)である。
fumio

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