おとといの読売新聞に、少年法改正案(懲罰化)についての論点が載っていました。
(記事は下にコピー)
「警察の介入や少年院収容という手段で解決しうるのか。」
「子供の成長に最も重要なものは『自己肯定感』」
「『生きていていいんだ。自分は愛されている』という確信を得られなかった子供は、
決して自分らしく生きる力(自律性)も、他人のことを考える力(道徳性)も持つことはできない。」
「不安や無気力や恨みのなかで、自己や他者破壊へと追いやられる。」
「『自分の思いや願いを自由に表明する権利』を子供に保障」
などという意見が述べられており、まさに、昨日まで連載していた「アミティ」の理念と一致します。
また、成育環境の影響で生じてしまう境界性人格障害などにも通じるものです。
(ただし、人格障害と凶悪犯罪は、反社会性人格障害を除いてあまり関連性がありません。)
やはり子供が健全に成長するためには、親をはじめ周囲の親愛の情がどれほど不可欠なのかということを物語っていると思います。
つまるところ、人間にとって最も大切なものは愛情なのですね。
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*読売新聞より
[論点]少年法改正案 人間関係紡げる環境必要
福田雅章(山梨学院大法科大学院教授)
再び少年法が改正されようとしている。今の国会に提出された改正案は、〈1〉刑罰を問えない14歳未満の子供(触法少年)に対する警察の調査捜索権限を認め、少年院への収容を可能にする〈2〉将来犯罪を犯すおそれのある子供(ぐ犯少年)にも警察の調査権限を認める〈3〉保護観察中で順守事項を守らない子供の少年院への収容を可能にする――といった内容である。
長崎県で2003年7月に起きた12歳の少年による幼児誘拐殺害事件など凶悪事件の低年齢化をきっかけに、現行の少年法では福祉の対象となっている触法少年やぐ犯少年に対しても、警察権限の介入を認め、さらには少年院への収容を拡大することで、懲罰的かつ治安的な対応を強めようとしている。
だがその前に、最優先して問わなければならないのは、「子どもの成長発達とは何か」「そのために家庭、学校、社会はどうあるべきか」といった根元的な課題であろう。
なぜ子供は非行に走るのか。法改正を支持する人々は、非行少年は「独りよがりで他人のことを考える力がない」「規範意識が低い」と言う。その通りである。しかし問題は、なぜそうした子供が次々に現れるのかという点にある。さらに言えば、それは警察の介入や少年院収容という手段で解決し得るのかということにもつながる。
現代の心理学は、子供の成長にとって最も重要なものは「自己肯定感」だと言う。それは、自分をそのまま受け容れてくれる養育者(親、教師など身近な者)との人間関係(安全基地)を通してのみ可能になる。
例えば、大人には到底受け入れがたい呼びかけにも、子供は誠実に応えて欲しいと思っている。それが非行のような問題行動であったとしても、説教や叱責(しっせき)、大人の期待の押し付けではなく、「そうだったんだ。大変だったね」と、ありのままに受け止めてくれる応答を求めているのだ。
ところが、そのような大人との関係を持つことがなく、「生きていていいんだ。自分は愛されている」という確信を得られなかった子供は、決して自分らしく生きる力(自律性)も、他人のことを考える力(道徳性)も持つことはできない。自分は「親や先生の期待に応えられない、情けない子だ」と感じ、演技に疲れ、最後には、不安や無気力や恨みの中で、自己や他者破壊へと追いやられる。
だからこそ、「子どもの権利条約」は、成長発達に不可欠な受容的な人間関係を実現するために、「自分の思いや願いを自由に表明する権利」を子供に保障し、誠実な応答義務を大人に課しているのだ。
同条約や心理学の見地に立てば、触法少年やぐ犯少年は、成長発達できなかった犠牲者と言っていい。警察への調査権限の付与や少年院収容の拡大は、更生に必要な人間関係の形成を不可能にする。子供は、自分に不利益な情報を警察に提供する親や教師、保護司を信用することなどできない。また少年院は、厳しい規律の下で集団訓練を強いる閉鎖施設であり、子供にとって安全基地とはほど遠い。
戦後日本は経済発展を最優先させ、豊かな社会を築いた。しかし同時に、子供の成長発達に不可欠な「お互いをありのままに認め合う人間関係」を忘れてしまった。今こそ、子供の成長発達、私たちの幸せ、そして社会の発展のために、人間関係を紡げる家庭や学校、社会を創造する必要がある。それが非行の芽を摘む近道と思うからだ。
(以上)