「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

心子 vs ヤクザの親分

2006年04月15日 19時23分51秒 | 心子、もろもろ
 
 4月3日と4日の記事「心子との花見」(カテゴリー「心子、もろもろ」)に、火事の中に飛び込んで人を助けようとした心子の話を書きました。

 一身の危険も頓着しない彼女ですが、昔はもっと手荒かったという話を心子はしていました。

 幼いときから親にも頼らず突っぱって生きてきたのです。
 

 高校生のとき、友達がチンピラに怪我をさせられて、心子は落とし前を付けるため

 ヤクザの事務所に単身乗り込んでいったそうです。

 制服の女子高生ですよ。(・_・;)

 心子は懐にカッターを忍ばせていました。

 乱暴されそうになったら自ら首を切る覚悟だったといいます。

 心子は親分の目の前に人差し指を一本突き出しました。

 百万円が相場なんだそうです。

 親分は薄笑いで心子に札束を差し出しました。

 心子の度胸を見込んだ親分は、組に入らないかと誘ったそうです。

 心子は、「勉強があるから」と言って断りました。

 ヤクザの事務所から生還してきた心子は、震え上がる友達にぽんと札束を手渡したということです。
 

 この話を聞いて僕はひっくり返りました。

 いくら何でもそこまで付いていけません。

「今はそんなことしないから」

 心子はしとやかに言いました。

 もしこれで嫌われるならそれだけの縁だったということ、と微笑む心子でした。

 でもヤクザにさえ物おじしないくせに、心子は雷の音や小さな虫に飛び上がったり、

 映画の血のシーンは絶対観られなかったりするのです。(^^)
 
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「人間関係を紡げる環境が必要」

2006年04月14日 20時23分03秒 | 死刑制度と癒し
 
 おとといの読売新聞に、少年法改正案(懲罰化)についての論点が載っていました。

(記事は下にコピー)

「警察の介入や少年院収容という手段で解決しうるのか。」

「子供の成長に最も重要なものは『自己肯定感』」

「『生きていていいんだ。自分は愛されている』という確信を得られなかった子供は、

 決して自分らしく生きる力(自律性)も、他人のことを考える力(道徳性)も持つことはできない。」

「不安や無気力や恨みのなかで、自己や他者破壊へと追いやられる。」

「『自分の思いや願いを自由に表明する権利』を子供に保障」

 などという意見が述べられており、まさに、昨日まで連載していた「アミティ」の理念と一致します。

 また、成育環境の影響で生じてしまう境界性人格障害などにも通じるものです。

(ただし、人格障害と凶悪犯罪は、反社会性人格障害を除いてあまり関連性がありません。)

 やはり子供が健全に成長するためには、親をはじめ周囲の親愛の情がどれほど不可欠なのかということを物語っていると思います。

 つまるところ、人間にとって最も大切なものは愛情なのですね。


-------------------------------------

*読売新聞より

[論点]少年法改正案 人間関係紡げる環境必要
 福田雅章(山梨学院大法科大学院教授)

 再び少年法が改正されようとしている。今の国会に提出された改正案は、〈1〉刑罰を問えない14歳未満の子供(触法少年)に対する警察の調査捜索権限を認め、少年院への収容を可能にする〈2〉将来犯罪を犯すおそれのある子供(ぐ犯少年)にも警察の調査権限を認める〈3〉保護観察中で順守事項を守らない子供の少年院への収容を可能にする――といった内容である。

 長崎県で2003年7月に起きた12歳の少年による幼児誘拐殺害事件など凶悪事件の低年齢化をきっかけに、現行の少年法では福祉の対象となっている触法少年やぐ犯少年に対しても、警察権限の介入を認め、さらには少年院への収容を拡大することで、懲罰的かつ治安的な対応を強めようとしている。

 だがその前に、最優先して問わなければならないのは、「子どもの成長発達とは何か」「そのために家庭、学校、社会はどうあるべきか」といった根元的な課題であろう。

 なぜ子供は非行に走るのか。法改正を支持する人々は、非行少年は「独りよがりで他人のことを考える力がない」「規範意識が低い」と言う。その通りである。しかし問題は、なぜそうした子供が次々に現れるのかという点にある。さらに言えば、それは警察の介入や少年院収容という手段で解決し得るのかということにもつながる。

 現代の心理学は、子供の成長にとって最も重要なものは「自己肯定感」だと言う。それは、自分をそのまま受け容れてくれる養育者(親、教師など身近な者)との人間関係(安全基地)を通してのみ可能になる。

 例えば、大人には到底受け入れがたい呼びかけにも、子供は誠実に応えて欲しいと思っている。それが非行のような問題行動であったとしても、説教や叱責(しっせき)、大人の期待の押し付けではなく、「そうだったんだ。大変だったね」と、ありのままに受け止めてくれる応答を求めているのだ。

 ところが、そのような大人との関係を持つことがなく、「生きていていいんだ。自分は愛されている」という確信を得られなかった子供は、決して自分らしく生きる力(自律性)も、他人のことを考える力(道徳性)も持つことはできない。自分は「親や先生の期待に応えられない、情けない子だ」と感じ、演技に疲れ、最後には、不安や無気力や恨みの中で、自己や他者破壊へと追いやられる。

 だからこそ、「子どもの権利条約」は、成長発達に不可欠な受容的な人間関係を実現するために、「自分の思いや願いを自由に表明する権利」を子供に保障し、誠実な応答義務を大人に課しているのだ。

 同条約や心理学の見地に立てば、触法少年やぐ犯少年は、成長発達できなかった犠牲者と言っていい。警察への調査権限の付与や少年院収容の拡大は、更生に必要な人間関係の形成を不可能にする。子供は、自分に不利益な情報を警察に提供する親や教師、保護司を信用することなどできない。また少年院は、厳しい規律の下で集団訓練を強いる閉鎖施設であり、子供にとって安全基地とはほど遠い。

 戦後日本は経済発展を最優先させ、豊かな社会を築いた。しかし同時に、子供の成長発達に不可欠な「お互いをありのままに認め合う人間関係」を忘れてしまった。今こそ、子供の成長発達、私たちの幸せ、そして社会の発展のために、人間関係を紡げる家庭や学校、社会を創造する必要がある。それが非行の芽を摘む近道と思うからだ。

(以上)
 
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憎しみの連鎖を断つ/「アミティ」(9)

2006年04月13日 19時36分42秒 | 死刑制度と癒し
 
 アミティのプログラムは受容的であるため、受刑者に対して本来の刑罰的な意味合いを持てないのではないか、という懸念があります。

 しかし受刑者たちは、今まで記憶の底に押し込めていた、虐待や迫害などの無残な体験に直面するという、この上なく辛い作業を強いられるのです。

 それは非常に厳しい刑といえるかもしれません。

 そして、その道のりを経ないことには、彼らの精神が立ち直っていくことはありません。
 

 アミティの思想を学ぶことは、暴力の連鎖を断ち切り、「憎しみの再生産」ではなく「命のつながり」を実感することです。

 「罪を犯したのはその人の一部」であると、犯罪者を全人格的に捉えていくことが求められます。

 そのとき、我々自身の価値観が問われます。

 人が変われるかどうかは、その人が希望を見つけられるかどうかにかかっています。

 それには、その人の可能性を信じ、一人の人間として受け入れていくという支えが、何よりも大切でしょう。
 
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「解毒作用」と「エモーショナル・リテラシー」/「アミティ」(8)

2006年04月12日 21時35分31秒 | 死刑制度と癒し
 アミティでは自分の体験を語ることによって、感情の発散の仕方を学び、

 体の中にたまった毒素を「解毒」していく試みを行ないます。

 体験を表現し訴えるためには、まず自分の体験に「名前」をつけることが必要になります。

 自分の感情や情緒をあるがままに受け止めて、言葉で表現する力、それが「エモーショナル・リテラシー」です。

 多くのレジデントが、この能力を身につけるのに何年もの時間を要するのです。

 その際、似たような体験をしたスタッフが、

「お腹がよじれるような感じ?」「誰かに助けてって言いたかったんじゃない?」

 と、言葉を補っていきます。

 そして、本人の口から自分自身の言葉が出てくるまで、辛抱強く待つのです。

 ときには何日も、何ヶ月もかかることさえあるといいます。

 ある女性のレジデントは言いました。

「変わることは難しい。

 でも、ここにいる仲間は私が失敗することを許してくれる。

 そのことを責めないで支えてくれた。

 私を新しい人生へと導いてくれたのは、社会ではかつて『凶悪犯』という烙印を押された人々だったんです。」

(続く)
 
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「ハビリテーション」/「アミティ」(7)

2006年04月11日 18時46分24秒 | 死刑制度と癒し
 
 レジデントたちには、「リハビリテーション」ではなく、「ハビリテーション」が必要だといいます。

 リハビリテーションとは元の状態に回復することを言いますが、彼らは元々普通の状態を獲得できなかった人たちで、

 「ハビリテーション」=「ゼロから学び直すこと」をしなければなりません。

 「矯正」や「懲罰」という前に、未熟な精神を「育ててあげる」という養育的配慮が必要なのです。

 あるレジデントは、2年間のプログラムを経ましたが、いまだに泣いたことがなく、なぜ人が泣くのか理解できないと言いました。

「哀しいという感情も愛するという感情も、まだよくわからない。

 でも、今がんばって理解しようとしているところなんだ」と微笑みました。

幼児期のトラウマは、これほどまで人間の精神を破壊してしまいます。

 そしてアミティのプログラムは、その荒廃した砂漠に、希望という種を植えていく作業なのです。

(続く)
 
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子ども時代を剥奪された者の文化/「アミティ」(6)

2006年04月10日 19時27分43秒 | 死刑制度と癒し
 
 子ども時代に心の傷を受けた人たちは、それを放置しておくと、成長して犯罪に走ったり、

 自分自身を傷つける行為をするようになってしまいます。

 彼らには次のような特徴があります。(「アリス=ミラーのパラダイム」という)

○小さな子どものときに傷つけられたが、そのことを誰にも知られていない

○被害を受けたことに対して怒りをぶつけることができなかった

○傷つけられたことが相手の善意によるものだとして、感謝で応えようとしてしまう

○すべてを忘れてしまう

○大人になってから、内にためた怒りが他人や自分自身に向いてしまう

 彼らはそうして、「子ども時代を剥奪された者の文化」を担うことになってしまったのです。

 子供のときのトラウマのために、健全な精神の発達を阻害され、

 人間の自然な感情を理解したり、表現したりできなくなってしまうのです。

 彼らは言います。

「警察、裁判所、刑務所と行く先々で、『反省しろ』と言われ続けた。

 でも、一体何をどのように反省していいのか分からなかった」と。

(続く)
 
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「少し先行く人々」に支えられて/「アミティ」(5)

2006年04月09日 18時09分27秒 | 死刑制度と癒し
 以前受刑者だったスタッフたちは、アミティのプログラムを受けたあと、専門的なトレーニングを受けます。

 そしてカウンセラーの資格を取り、インターンを務めてから、ようやくスタッフとして認められます。

 彼らは、今プログラムを受けて甦生しようとしているレジデント(居住している受刑者)の、「少し先行く人々」なのです。

 アミティではグループセラピーを通して、レジデントが自分の生い立ちを見つめます。

 音楽に合わせて踊りながらゲームスタイルのワークショップなどで、レジデントは少しずつ自分の過去を語り始めます。

 語るうちに彼らは、今まで押さえ込んでいた記憶のふたが突然開いてしまったように、感情があふれ出て激しく嗚咽したりします。

 また、仲間に励まされつつ必死に語りながら、爪をかじったり、足をカタカタ震わせたり、ときには吐き気をともない、トイレへ駆け込むこともあります。

 彼らが自分の悲惨な過去と向き合うのは、それほど苦しい体験なのです。

(続く)
 
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犯罪からの卒業生たち/「アミティ」(4)

2006年04月08日 13時37分00秒 | 死刑制度と癒し
 「アミティ」の前身「シナノン」は、精神疾患や薬物依存の人々の治療として、50年代に米国で始まり、

 その後、ベトナム戦争の帰還兵や犯罪者にも適用されるようになりました。

 同じ問題を抱える人々が生活を共にしながら、問題を乗り越えるために互いに支え合うものです。
 

 アミティの創始者であるベティとナヤは、自らが薬物依存者でした。

 ナヤは父親から性的虐待と暴力を受けて育ちました。

 家出をたび重ね、薬物を濫用し、服役体験もあることを、彼女はサラリと語ります。

 ベティもまた、ポルノに囲まれた家で育てられ、売春を親父に強要されました。

 薬物に手を出し、自殺や万引きを繰り返したと言います。

 しかし「シナノン」と出会って薬物から脱却し、その後民間非営利団体「アミティ」を創設したのです。

 アミティの他のスタッフたちもすさまじい経歴の持ち主です。

 近親者からレイプされ、何度も親に殺されかけ、施設をたらい回しにされ。

 その挙げ句、罪を犯し、人を殺し……。

 ここのスタッフの多くは、かつて問題を抱えていた当事者・犯罪者であり、「アミティ」の卒業生なのです。

(続く)
 
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砂漠の中のオアシス/「アミティ」(3)

2006年04月07日 19時09分33秒 | 死刑制度と癒し
 
 アリゾナ州ツーソンの砂漠の中。

 フェンスも塀もないオープンスペースに広がるオアシスのような緑、パステルカラーの建物。

 日当たりのよいテラスでは、人々が三々五々語り合っています。

 手をつないで歩くカップルや、元気に走り回る子どもたちもいます。

 夕方からはバーベキューを囲み、まるでリゾート地のようです。

「ここが犯罪者の甦生施設?」

 誰もが驚くに違いないでしょう。
 

 ここでは、甦生を目指す犯罪者を「レジデント(居住者)」と呼びます。

 でも誰がレジデントで誰がスタッフなのか、見分けがつきません。

 互いを「ファミリー」と呼び合い、服装は自由、食事も一緒、皆フレンドリーです。

 一般の刑務所や少年院のような、「刑務官対受刑者」の上下の関係や管理体制は感じられません。

 スタッフもレジデントも、同じコミュニティ(共同体)の一員という位置づけなのです。

(続く)
 
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犯罪者たちの心の癒し/「アミティ」(2)

2006年04月06日 17時35分21秒 | 死刑制度と癒し
 
 加害者が正しく甦生し、罪を償ってやがて社会復帰し、人々に貢献できるようになることが、最終的に求められることではないかと思います。

 そのためにはどうすればよいのでしょう? 

 アメリカでひとつの試みがなされています。

 「アミティ」。

 ラテン語で友情,友愛の意味を示す言葉で、犯罪者などの甦生を目指す、非営利の民間団体です。

 「治療共同体」と呼ばれる心理療法的なアプローチで、犯罪者が自分の生き方を見直し、

 新しい人生に向かい合うためのプログラムを実践しています。

 彼らがなぜ犯罪を犯すようになったのかを、子ども時代にまで遡って見つめると、

 多くの犯罪者が何らかの虐待を受けていたことが浮かび上がってきます。

 彼らはその辛い記憶を無意識に抑圧してきたために、他人への共感や反省が生まれにくい精神が作り出され、

 犯罪や自傷行為に至ってしまうのです。

 犯罪者が自分の過去を直視し、自身の傷を受け止めていくという作業によって、

 彼らの病んだ心を生まれ変わらせていきます。

 それは予想以上に苦しい過程です。

 しかしその結果、アミティ経験者の再犯率は、一般受刑者の3分の1に減り、

 再び犯罪を犯したとしても罪の内容が軽くなる傾向にあるといいます。

 全米で最も効果のあるプログラムとして注目されているのです。

(続く)
 
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加害者甦生プログラム/「アミティ」(1)

2006年04月05日 20時19分24秒 | 死刑制度と癒し
 
 死刑制度の記事に引き続いて今日から何回か、アメリカの加害者甦生プログラム「アミティ」について書こうと思います。
 

 凶悪な虐殺事件や、何の罪もない子供や市民が惨殺されるような事件では、犯人に極刑をという声が上がります。

 少年犯罪の低年齢化が進み、少年法の厳罰化も取り沙汰されます。

 しかし罰を厳しくすることによって、果たして犯罪者の甦生は期待できるのでしょうか? 

 犯罪は抑止されるのでしょうか?

 そして、被害者の傷は癒されるでしょうか?

 「目には目を、歯には歯を」の復讐や懲罰の思想では、怒りや憎しみの連鎖を生むだけかもしれません。

 加害者が処罰されても、被害者の傷が消えるわけでは決してありません。

 一番大切なのは、被害者の心が癒されていくことであり、加害者が二度と罪を犯さないようにしていくことでしょう。

 加害者が真に罪を悔い改めて償うことができれば、そのときこそ被害者の感情はやがて鎮まっていくのではないでしょうか。

(続く)
 
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心子との花見(2)

2006年04月04日 18時55分28秒 | 心子、もろもろ
 
 心子は、燃える民家へ走って向かう途中、次に何をすべきか素早く頭を回転させていたといいます。

 火の中に飛び込んで、自分の上着を家の人にかぶせて外に出し、人工呼吸や火傷の処置など、可能なことを組み立てていました。

 自分は焼け死んでも、目の前の人を助け出す心子なのです。
 

 僕たちも向こう岸へ渡って間もなく、消防車が到着しました。

 我々も消防隊員に事情を聞かれました。

「私がこの人の携帯を借りて連絡したんです。最初にかけたのは私なんです!」

 心子は何度も強調しました。

 携帯電話の持ち主は笑いをこらえていました。

 いかにも心子が第一通報者だと自慢しているように見えたのです。

 でも心子は、通報者が後日消防署に呼ばれることもあるのを知っていたので、

 携帯の持ち主に迷惑がかからないように気を遣っていたのでした。

 大事に至らず幸いでしたが、どういうわけだか心子は不思議と色々なでき事に出くわすのです。
 

 僕の部屋に戻ってきて、僕はその人が笑っていたことを心子に告げました。

 彼女は気落ちしてぐったりと突っぷしました。

「何であたしってこうなるの……?」

 一生懸命にやっていることが、何だかいつも滑稽になってしまうのです。

 無理して走った心子は、一夜明けて体中が痛いと訴えましたが、やるべきことをできたと言って満足していたものでした。
 
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心子との花見(1)

2006年04月03日 20時06分16秒 | 心子、もろもろ
 
 きのうの記事に、心子と花見に行ったとき爆発を起こした家のことを書きましたが、そのエピソードを書かせてもらいます。

 その日の心子は、当時よくはいていた黒い革のミニスカートに、赤とピンクの横縞のセーターという装いでした。

 心子は僕の腕に寄りすがり、彼女の胸の膨らみが腕に当たって思わずどきどきしたものでした。

 花を愛でながら、ビールに焼き鳥を味わって、おしゃべりをしました。

 心子はしょっちゅうナンパされる話をします。

 その話ぶりがこれまた面白おかしいのです。

 女性はそんなにナンパされるものなのかと思うくらいでした。

 それだけチャーミングなのでしょうか? 

 桜をバックに写真を何枚も撮ったり、神社で甘酒を飲んだり、楽しいひとときを送りました。
 

 日が暮れて、人通りも少なくなった川沿いの道を歩いて家路に向かいました。

 そのとき突然、川向こうの民家で「ドーン!」と爆発が起きたのです。

 真っ赤な火柱が天井をなめるように立ち上がり、家の中に人影が見えました。

「携帯!」

 僕はとっさに声を上げましたが、あいにく二人とも携帯電話を持ち合わせていません。

 ちょうど前方から来た人に心子は携帯を借り、119にかけました。

 しかし通りすがりのため番地も不明で、場所の説明がうまくできません。

 心子はやにわに携帯を僕に渡して走っていきました。

 僕は川をはさんで火の手が上がる家に気を奪われながら、顔を出してきた近所の人に番地を聞いたりしました。

 何とか消防署に場所が伝わったとき、心子はぐるっと迂回して橋を渡り、向こう岸の家にはせ着けました。

 体が悪くて普段は走ることなんかできないのに。

 ほぼ同時に、火は家人によって消化器で消されました。

「大丈夫だって!」

 対岸で心子が叫びました。

(続く)
 
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心子と想い出の花見

2006年04月02日 18時05分45秒 | 心子、もろもろ
 
 今年も花見の季節です。

 心子と行った、家の近くにある川沿いの見事な桜並木を見にいきました。

 彼女が旅立ってからもう早6回目の桜になります。

 花曇りのなか、風が吹くと花吹雪が舞い、幻想的でもありました。

 川面に浮かぶ無数の花片もまた風情があるものです。

 延々と続く桜のトンネルのような素敵な所もあります。

 川沿いの道の脇(川の反対側)に並ぶ桜たちが、その枝を川面へ向かって大きく延ばして降ろし、

 道を歩く人の頭の上を覆って、ちょうど桜の花びらが形作るドームのようになっているのです。

 手を延ばせば花に届くほど、枝は低く垂れ下がっています。

 そんな桜の下、彼女と腕を組んで花を愛でたことを思い出しながら歩きました。

 このところ自然に触れる機会が少なかったですが、心が和むひとときでした。

 心子との想い出の場所を回顧しながら歩きました。

 彼女と写真を撮った所、焼き鳥とビール味わった出店、並んで座ってしゃべったベンチ、甘酒を飲んだ神社……。

 毎年桜の時期に歩いて回ります。

 そして、拙著の中のエピソードにも出てきた、川向こうで爆発を起こした家……。

 ところが、この家は取り壊されて駐車場になってしまっていました。

 他にも、家屋が壊されて更地になっていたり、信号の位置が変わっていたり。

 想い出の場所も、時の流れと共に少しずつ変わっていくのでしょう……。

 でも街は変わっていっても、本の中の彼女はいつまでもずっと生きています。

 やはり、彼女のことを書き残すことができて良かったと思うのでした。
 
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死刑制度を持たない社会

2006年04月01日 08時46分35秒 | 死刑制度と癒し
 
 一人の子供をその生育環境において疎外し、長じて犯罪者へと育ててしまう社会のあり方。

 また、犯罪者を甦生させようとするのではなく、死刑によって抹殺しようとする社会のあり方。

 そのふたつは、人間の尊厳というものを貴ぶことなく、その場限りの秩序を守ろうとする点で、同じだと言えはしないでしょうか。

 反対に、犯罪者に対しても甦生する可能性を見出して、努力していこうとする姿勢があるならば、

 不幸な境遇にある子供たちにも愛情を注ぎ、健全に育っていくために援助の手を差し伸べようとするはずでしょう。

 そのような社会では、愛情の欠乏や人格形成の歪みから引き起こされる、反社会的な犯罪は抑制されるだろうと思います。

 それに対して、死刑制度を正当とする社会は、人間に対する不信を助長させ、犯罪の温床になると言うこともできるのかもしれません。

 犯罪者を抹殺して決着するのでは、犯罪を生んだ社会の問題は何も解決されず、また次の犯罪者,被害者を生んでしまうでしょう。
 
 

(アメリカの犯罪者甦生プログラム「アミティ」についての記事を、引き続き数日後から掲載しますので、どうぞまたご覧になってください。)
 
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