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『ニッケル・アンド・ダイムド』書評

2006-10-03 13:02:15 | 時事
 未読の、しかし関心がある本の書評。カテゴリは「読書」でなく「時事」に入れてみた。

ニッケル・アンド・ダイムド[書評]
低所得者の生活実態
~米国のそれは日本の明日の姿か
文・松浦晋也

 書評そのものも興味深く読んだが、最後の頁に震撼した。

 今回、本書を読み、上記の作品と比べるに、「人間を抑圧する現場は、ずいぶんと似てくるものだ」と思わざるを得ない。キーウェストの厨房の不潔さは、ジョージ・オーウェルが描いたパリのホテルの厨房に通じるし、ミネアポリスのウォルマートにおける労務管理は、どことなく鎌田慧が体験したトヨタ自動車のそれに似ている。

 洋の東西、時代も関係なく、貧困の現場が共通するならば、貧困層が増えた社会で何が起こるかは、過去の歴史が教えてくれる。

 歴史は二つの可能性を指し示している。

 一つは貧困層が立ち上がっての革命だ。

 しかし、過去1世紀以上にわたって革命の指針であった共産主義は、実社会への適用において見事なまでに敗北した。ジョージ・オーウェルが「動物農場」で「すべての動物は平等である。しかし、ある動物は、ほかのものよりももっと平等である」と喝破したように、人民による権力集中と計画経済は、新たな特権階級と貧困層を生み出すだけなのだ。

 もう一つは、極端な愛国主義の台頭である。

 自尊心なしに人間は生きることができない。社会生活において、自尊心を奪われた人々は往々にして、自尊心の代替物を社会に求めて、愛国心に走る。

 わたしは、かつて勤務していた職場の労組集会に、酔ったホームレスが紛れ込み「君たちは会社の恩というものを理解していない。不忠者だ」と暴れたのを見たことがある。

 自尊心を奪われ、社会から疎外されるほどに、人は自分から自尊心を奪い、疎外を進めた権力者を愛する傾向がある。権力者が国というものを代表する存在だからだ。


 特に「社会生活において、自尊心を奪われた人々は往々にして、自尊心の代替物を社会に求めて、愛国心に走る」という一節が、びりびりと響く。

 そして、幕末の歴史に関心を持つ者として、最後の一節に微苦笑せざるを得ない。

 海千山千の戦略家であった勝海舟は、「憂国の士というのがいて、国が滅ぶ」という言葉を残しているのだが。


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