一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

声に出してもらいたくない日本語(不二家つづき)

2007-01-15 | あきなひ
不二家の藤井社長が辞任表明、期限切れ原料使用問題で
(2007年1月15日(月)19:47 ロイター)

調べてみたらオペレーションの実態はボロボロだった、ということでしょうか(私のように使用期限はメーカーが安全をみて設定していると思い込んでいるものにとっては「サバ読み」をされるのが一番困りますw)。
(本当はよくないことですが)経営陣が、もし実態がボロボロだということを認識していたならば、逆に昨年11月時点での早期の広報対応で火消しにかかっていたと思うのですが・・・


ところでさっきニュースを見ていて、不二家の藤井林太郎社長の辞任の口上はちょっとヘンだと思いました。


「私は、この責任を取り、辞任をしてまいりたい、という風に思います。」


※TBSニュースの動画参照

組織の長たるもの、非を認めて職を辞すにあたっても、立ち居振る舞いだけは堂々とありたいものです。
しかし、そもそも言葉遣いがヘン、というのでは「この程度の言語能力、または事に当たって動揺するような社長では仕方ないな」と思ってしまいます。

もちろんそれだけではいけませんが、経営者のスピーチ(プレゼンテーション)能力の重要性を改めて感じた次第です。
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不二家

2007-01-14 | あきなひ

今朝の朝食でシリアルに今日が消費期限の牛乳をかけ、半分くらい残っていた牛乳を何の躊躇もなく冷蔵庫に戻しながら、不二家のことを考えました。

あまりニュースをフォローしていなかったので漠然と考えていたことは

1 ISO認証では防げなかった?
メーカーはISO認証を各工場でとることが多いと思うのですが、ISO認証をとると業務プロセスの文書による管理などが求められるのに、何で消費期限切れの牛乳を使用するという「アドリブ」ができたのだろう、という疑問がまずありました。
不二家:ISO認証で事実関係の調査依頼 経産省(1/14 毎日新聞)によると 

不二家は本社の菓子事業部門で9001、埼玉、野木(栃木県)、泉佐野(大阪府)の3工場が14001を取得している。  

とあり、工場でとっていたのは品質保証の9001でなく環境の14001だけだったんですね。  

2 出荷時の安全性チェックは 
食品メーカーは出荷時に製品の検査をしていると思うのですが、それで安全性が確認できていたのであれば、最初に発覚した時点で事実を公表し、該当製品を回収するとともに、安全性の検査をしているのですでに食べてしまった人にも問題はない旨公表する、という対応をとっていればここまで大きなトラブルにならなかったと思います。 
ひょっとすると、出荷時の検査がずさんで安全性を説明できないから黙っていたのかななどとも思ったのですが、不二家、全店で洋菓子販売休止 期限切れ牛乳使用が判明(1/11 朝日新聞)によると  

同社は昨年11月には事実を把握。広報担当者は「出荷時の細菌検査に問題はなく、健康被害の苦情もなかったので公表しなかった。認識が甘かった」と話している。

ところが細菌基準10倍で出荷 不二家、社内連絡が不徹底(1/12朝日新聞)によると

同社によると、昨年6月8日に製造したシューロールの細菌検査で、食品衛生法が定める基準の約10倍、同社の自主基準の約100倍にあたる細菌数を検出した。本来は再検査のあと廃棄しなければならなかったが、検査結果の社内での連絡が不徹底だったため、113本が出荷されたという。

ということがあり、出荷検査にも自信がもてなかったのかもしれません。

同じ記事で

同社は昨年11月には事実を把握しており、社内の対策会議では「マスコミに発覚すれば(集団食中毒事件を起こした)雪印乳業の二の舞いとなる」という文書が配られていた。藤井林太郎社長は「ことの重大さを伝えるための表現で、隠蔽(いんぺい)するつもりはなかった」と釈明した。

というのもありました。
「雪印の二の舞」を防ぐためには、製品の安全性の確保と確認が第一で、それに自信がないのなら消費者に注意喚起すべきだった(安全性が確認が取れているのなら公表しても大騒ぎにはならないですし)ように思います。


まあ、他人事の後講釈ならいろいろ言える、という部分もあるのですが。

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カフェと喫茶店

2007-01-13 | よしなしごと
私が子供の頃には街に「純喫茶」というものがありました。

なぜ「純」なんだろう。他の喫茶店とどこが違うのだろうという疑問が解消されないままに珈琲館などのFC店や、そのつぎにはドトールなどの低価格店におされ、そのうち純喫茶自体がなくなってしまいました。

当時の仮説としては
① 「名曲喫茶」(その当時は廃れつつあったもののまだ新宿とか御茶ノ水あたりには若干残ってました)との区別をしている。
② 普通の喫茶店と違い食事(トマトケチャップとハムとタマネギとピーマンで作ってステンレス製の楕円形の皿に盛られたスパゲティ・ナポリタンとか)は出さない、という矜持を示している。
のどちらかだと思っていました。


そのまま忘れかけていたのですが、たまたま昨日のエントリで紹介した本に答えが載っていました。

もともと日本の喫茶店・カフェの起源は、明治の末に銀座にできたカフェパウリスタとカフェプランタンでした。これらはパリのカフェを模して作られ、文人たちのサロン的なものでした。
ところがカフェプランタンで女給をやとっていたら、その女給に客がつくという現象が起こりました(その当時は女性に相手をしてもらうには待合で芸妓を呼ばなければならなかったのに対しお手軽だった)。
これを見ていた業者がカフェライオンという店を開き、美人を大量採用して大繁盛すると、後追い業者が次々とオープンし、お色気戦術もエスカレートしてきました。
そしてそのうちにカフェといえば女の人が接待して酒を出すところ、という意味にずれてきてしまった(日本風になまって「カフエ」と発音されるようになり、「カフエの女給」が時代の風俗になりました。)。


話は横道にそれますが、大学の民法の授業で最初出てくる総則の「意思表示」のところで習う判例に「カフエ丸玉女給事件」という戦前の判例があります(今はやらないかもしれません)。
これは、大阪の道頓堀にある「丸玉」というカフェーに通った男が女給に独立資金として400円をやるといった。女性はこれを真に受けたものの男は酒の上の話と支払わず訴訟になり、男は1、2審共に敗訴。
これに対して大審院(今で言うと最高裁)は
 1.カフエの女給に相当多額の金員の供与を諾約しても、直ちに民法上の意思があるとはいえない。
 2.浅い馴染客が女給に相当多額の金員を与えることを約しても、相手方は履行を強要しえない。
 3.カフエにおいて比較的短期間遊興したに過ぎない女給に対し、一時の興に乗じ、その歓心を買うため、相当多額の金員の供与を諾約しても、贈与契約が成立したとは断じ難い。
そして「斯ル事情ノ下ニ於ケル諾約ハ諾約者カ自ラ進テ之ヲ履行スルトキハ債務ノ弁済タルコトヲ失ハサラムモ要約者ニ於テ之カ履行ヲ強要スルコトヲ得サル特殊ノ債務関係ヲ生スルモノト解スル」として原判決を破棄差戻ししました。

つまり、なじみの薄い客に法外な大金をあげると言われたからといって真に受けてはいけない(正確には裁判所が強制的に履行させるような性格の合意とはいえない)というわけですね。

昭和8年当時の400円がどの程度の価値があるかわからないのですが、たとえば私がキャバクラで店の女の子に1億円あげるとかマンションあげるといっても信じてはいけない(そもそも誰も信じないですがw)ということですね。逆に言ったのがホリエモンとか三木谷氏や村上氏が相当懇意にしている相手(内縁の妻とか愛人とか)に言ったのだったら、払わなきゃいけないのかもしれませんね。

またまた話がそれますが、このように戦前の判例はけっこう味わい深いものが多いです。「出世払いの約束は出世したときか出世しないことが確定したときに履行期が到来する。」なんてのも、けっこう身につまされたものです。


さて本題、このようにカフエ=風俗店というイメージになってしまったために、これに対して本当にコーヒーを味わってもらおうという店は別の名称を考えることになりました。
それが「喫茶店」の始まりです。

ところが、昭和33年の売春防止法が施行されると、赤線を追われた娼婦たちが深夜喫茶にたむろして個人営業を始めてしまいます(東京オリンピック直前には警察の「深夜喫茶狩り」が行われたくらいだったそうです。)。これら深夜喫茶、特殊喫茶、美人喫茶という店はエロと結びつくイメージをもっていたため、これらと区別するために普通の店が「純喫茶」と名乗るようになったということです。

つまり「清純」喫茶の意味だったんですね。

しかし喫茶店と風俗というのは妙な結びつきをしてきた歴史はこれで終わらず、その後もノーパン喫茶やカップル喫茶などができ、これに対して新たな流行として「カフェ」と明治に先祖がえりしてみたにもかかわらず、今度はメイドカフェなどができてしまっている、というわけです。


「歴史は繰り返す。ただし二度目は茶番」

ということでしょうか。



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『勝つための論文の書き方』

2007-01-12 | 乱読日記

最近の新書の出版ラッシュのなかで少しでも目立とうと書名も刺激的だったり二番煎じ(「Web2.0」とか)するものが多いのですが、本書もそんな感じのタイトルがついています。
また、作りかたも、大学でフランス文学を教えている作者が論文の書き方を文芸春秋社の編集者に連続講義したものを書籍にした、というお手軽スピーディーなものです。

にもかかわらず、内容的にはけっこう面白かったです。


著者は長年共立女子大学で、生まれて一度も論文を書いたことのない(しかもフランス文学に興味をもっているかも確かでない)学生に卒論指導をしてきたと豪語するだけあって、なかなか教え上手(話し上手)であり、また知識も豊富です。

本書は表題と異なり「問題を立てる」ことの大事さを中心に語っています。

いかに独創性のある問い、追求し解決するに値する問題について論じていなければその論文自体の価値がないというのは言われてみれば当たり前のことです(筆者は学者の世界でも大学の紀要に載せるためだけのような論文が多いことを嘆いています。)。
また、問いのない「○○について論じよ」という論文の出題は論理矛盾だ、とも言っています(それもそうですねw)。

「問いの立て方」を学ぶことは論文だけでなく、ビジネスやその他の局面でも生かせると著者は言います。

論文というのは、自分の頭でものを考えるために長い年月にわたって練り上げられた古典的な形式なので、ビジネスだろうと政治だろうと、なんにでも応用がきくのです。

いわば講義録なのでスムーズに読めますし、著者の過去の著作などから例を引いたエピソードも面白くかつ豊富で、しかも参考になるポイントもけっこうあります。


通勤電車で立ちながらも気楽に読むのにお勧めです。







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three degrees of separation または「身近」と「他人事」の境界

2007-01-12 | よしなしごと
SNSなどでよく引き合いに出されるsix degrees of separation(世界中の任意の2人は、知人の知人というような知り合いの連鎖の中で5人程度の仲介者によって間接的につながっている)という考えがあります。


ここ数日殺伐としたニュースが続いています。
ただこれらのニュースはあくまでも他人事として見ていたのですが、意外と近いところで起きているということを知りました。


歯科医師の次男の長女殺害は、その父親が地元の飲み屋での知り合いの歯科医の大学の同級生でした。

来週新年会をやる予定のメンバーは、妻に殺害された夫が勤務する投資会社の取引先でした。


「あなたまで6人」がホントだとすると、段階を経るごとに等比級数的に「知り合い」が増えるのでしょうが、間に2人入るくらいでは、まだまだ「身近なもの」として意識してしまいますね。
病気とか事故ではないですから、なおさらです。



今回はそれだけの話なのですが、自分ひとりで抱えているのも重い話なので「お清め」がわりのエントリにさせていただきました。

誠に失礼いたしました。
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「ハケンの品格」

2007-01-11 | 余計なひとこと
珍しくTVドラマなどを観てしまいました。

新番組の宣伝で散々CMが流れていたのですが、篠原涼子が、雇用が保証された「従来型」の仕事をしつつ派遣社員を蔑視する正社員のなかで、残業なし、指示者の正社員の指示にのみ従い、時給にふさわしい仕事をする「スーパー派遣社員」の主人公を演じています。

また主人公と対照的な「かわいいけど仕事ができなくてミスばかりする」派遣社員に加藤あい。

まあ、予想されたとおりの展開なのですが、初回から加藤あいが大きなミスをして、それを無視していた篠原涼子が淡々と「業務ですから」とフォローし、クビを覚悟していた加藤あいに、正社員の主任が今回のミスを糧にしてがんばれと優しく声をかけます。

でもそれが、


「そのかわり、今日はサービス残業な」


だからいけないんだって・・・
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「iPhone」雑感

2007-01-11 | 余計なひとこと
iPod携帯発売へ アップル、6月米皮切りに
(2007年1月10日(水)11:38 共同通信)

<その1>
「iPodつき携帯電話」であって「電話つきiPod」じゃないんですね。

<その2>
日本には「アイホン」という会社があるのですが、"iPhone"は商標登録できるのでしょうか?
(商品・役務区分としては同じ9類になるように思うのですが)


*******(2007年2月24日追記)**********

「iフォン」訴訟、シスコとアップル和解

コメントでご指摘いただいたシスコとの訴訟は和解したようです。
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法的紛争を避けるためのポイント(『民事訴訟実務と制度の焦点』つづき)

2007-01-10 | 乱読日記

昨日とりあげた『民事訴訟実務と制度の焦点―実務家、研究者、法科大学院生と市民のために』に、予防法学=法的紛争を避けるための知識の習得についてふれた一章があります(p.668 第2部 第7章 市民・メディアと民事裁判 二、予防法学)。

筆者曰く

日本の平均的な市民がこれだけのことを具体的に理解していたら、おそらく、昨年度における東京地裁、千葉地裁の民事新受事件のうちシリアスな争いを含むものの少なくとも四分の一は、あるいは三分の一はは、提起されることがなかったのではないかと思う。

というだけあり、参考になりますのでここに転載します(筆者からも著作権侵害とは言われないと思いますので。)。

①  契約の方法と効力一般。最低限、重要な条項の説明を書面に基づいて受け、署名押印するに当たっては十分に考え、場合によっては事前に信頼のおける年長者と相談すべきこと。
 気がせく場合でも、契約をあせらないこと、ことに、契約すると同時に大金を支払うような場合にはその前によく考えること。

② 署名押印を行ったり、人に名義、名前を貸したりすれば、必ず何らかの法的責任を問われるおそれがあること。

③ 実際の約束は書面と異なっていたというたぐいの弁解は、原則として通用しないこと。それが現代の世界、社会の共通の約束事であること。

④ 書面が作成されていない約束について法的な手段に訴えるのは難しいこと。

⑤ 人の言葉を信用するのは、基本的には自分の責任によること。言葉を換えれば、良識のある大人であれば、「だまされた」という言葉を安易に口にすべきではないこと。これは、相手が親族、知人等親しい人間の場合でも同様である(なお、右は、法的なレベルにおいて「だまされるほうが悪い」という趣旨ではない。だまされたという言葉を安易に用いない心組みが紛争を未然に防ぐという趣旨である)。

⑥ もうけ話は非常に危険なものであり、あとから何かあって紛争となった場合には、自分の過失もまた問題にされること。

⑦ 連帯保証契約の意味、ことに、主債務者と完全に同等の責任があること。好意でしてあげたのに事後の説明や通知が不十分でけしからんといった抗議、不満は、債権者に対する関係では原則として通用しないこと。

⑧ 抵当権設定契約の意味。

⑨ 高金利業者と取引することの危険性。

⑩ 交通事故は、加害者になるのは他人と自分を傷つけることであり、被害者になるのは大きな苦痛と損失を引き受けることであり、したがって、これを可能な限り避けるような運転、歩行をするよう日常的に注意すべきこと。
 ことに、自転車は、自動車からは発見しにくく、歩行者にとっては意外に危険な乗物であるのを認識すること(自動二輪車については言うまでもない)。
 任意保険に加入していない場合には、事故があれば自分のすべてを投げ出して償う覚悟が必要であること。
 残念ながら、運転者の中には、他人に対する配慮など全く行わないような者も存在すること(自分のほうからまず注意して運転、歩行すべきこと)。

⑪ 結婚と子育ては、本当は、運転よりもはるかに難しい、免許があってよいくらいの「事業」であること。
 結婚相手を選ぶ行為は、原則として、基本的には、第一次的には、誰でもない自分の責任であること(これも、そのような心組みがあれば不幸な結婚を避けられるという趣旨)。
 子供に対しては絶対の責任があること。
 どんなことがあっても、離婚する場合でも、最低限の理性あるいは基本的な思いやりを失わないで話し合いのできる相手であるかどうかを、また、自分にもそれだけの能力があるかを、婚約する前に、胸に手を置いて考え直してみること。
 離婚する場合には、収入の多いほうの配偶者は、相当多額の金銭給付を行わなければならない場合が多いこと。
 事実婚に対する偏見を除き、法律婚と並ぶ一つの過渡的で合理的な選択であるとの理解をもつこと。
 不貞については基本的に配偶者間の問題であること。

⑫ 政治家や公務員等一定の権力、権限を有する者は、当然のことながら、適正な手続きにしたがって仕事をしなければならないこと。なお、事業を行う者についても同様であること。
 条例で決められる事項には限りがあり、それが法律に違反してはならないし、また、基本的人権にも配慮しなければならないこと。
 行政の開放性、透明性は、それが信頼を獲得するための第一条件であること。
 権力は、小さなものであっても濫用してはならないこと。

⑬ 自分が帰属している組織のあり方、しきたりを客観的に見詰める目を持つべきこと。
 自分の組織が絶対のものであり、その論理が外の世界でもそのままに通用するとの思い込みを持たないこと。
 それらを超える普遍的な原理が存在すること、そして、それぞれの個人の尊厳がその中核にあること。


自動車(事故)と結婚についてはかなり長くコメントされていますが、本書の中でも人身損害賠償においては損害の完全な回復が現実的には難しいこと、離婚訴訟は他の民事訴訟と比べて主張立証が混乱し当事者間も感情的になることが多いとされており、その反映かと思います。


企業においても①②③④⑦⑧⑫⑬など(ってほとんど2/3ですがw)は十分留意すべきですね。

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『民事訴訟実務と制度の焦点』

2007-01-09 | 乱読日記

現役の裁判官である瀬木比呂志氏が、裁判官の立場から民事訴訟の実務と制度の現状と問題点を網羅的に解説したもので、正式な書名は『民事訴訟実務と制度の焦点―実務家、研究者、法科大学院生と市民のために』です。
大阪ふたば法律事務所のブログで紹介されていたのですが、書名の長さに負けず750ページという大著なので、書店でまずはパラパラと見たところ、最初に開いたところの語り口に引かれて購入し、一気に読みました。

まず、よい依頼者を選択する能力、依頼者の言葉の真偽ないし真実の蓋然性を的確に判定する能力は、弁護士の能力の中では非常に重要なものの一つであることを強調しておきたい。弁護士の中には、主張立証は必ずしもそれほど緻密ではないけれども事件の選別にかけては抜群というタイプの方がある。このような人は筋のよい事件をうまく選別するので、訴訟活動は若い弁護士におおむねお任せでも、なお勝訴率が高い。反対に、緻密な訴訟活動を行うけれども右のような見通しについてはあまり感覚がよくなく、時として到底勝てない事案で強硬な主張をされる弁護士もいる。もちろんいずれも極端な例ということになる(つまり、各種の知的能力はいずれかといえば連動することが多いから、前記のような偏りがみられるのは比較的珍しいということである。なお、きまじめで思い込みの強いタイプの方は後者のような形で見通しを誤りやすい傾向があるとはいえるかもしれない)が、こうした側面をみると、弁護士の能力というのは非常に幅広い範囲にわたっているものだとあらためて考えさせられるのである。
(P.33 第2章 訴えの提起まで 一.受任にふさわしい事件の選別)

このように通常の裁判官の書籍よりはかなり自由に筆を運んで書かれており(そのことについては筆者も自覚しています)、訴訟の中で裁判官はどういう風に考えているのか、また現在の日本の民事訴訟をめぐる課題、裁判官・弁護士・研究者そして当事者それぞれの問題点などが非常にわかりやすく(かつはっきりと)書いてあります。


企業サイドでも実務上参考になったのが、「第1部 民事訴訟実務の焦点」の以下の章です。

第6章 裁判官、書記官、当事者のコミュニケーション、民事裁判官の役割
第11章 準備書面の書き方等
第12章 証拠調べ

第6章では、裁判官は期日の前にどのような準備をしているか、準備書面(自分の主張をする書面)の提出が遅れると裁判官はどういう迷惑をこうむるかについてふれています。
実際は期日の当日朝とか前日夜にFAX(当方and/or相手方)なんてことがけっこうあるんですけど、こういうことが続くと結果的に当事者の不利益になる、ということがよくわかります。

第11章、第12章では、主張立証に有効な準備書面や証拠申請のありかたについてふれられています。
本書の中で「悪い例」としてあげられている、準備書面のなかで本来の紛争とは直接関係ないことについてあれやこれやとあげつらい相手方の悪性をアピールしようとするもの(弁護士)は確かにありますね。これに対してこちらも言い返すと、結局本来の争点と関係ない部分の言い合いが延々と続くいわば場外乱闘になってしまい、期日だけが無為に過ぎるということがたまにあります。やはり裁判官もこれは意味のない(それ以上に時間の無駄)と思っているということがよくわかります(「カウント20で両者リングアウト」というわけにもいかないでしょうから。)。


「第2章 民事訴訟制度の焦点」では著者はさらに踏み込んでいます。
特に

第2章 裁判官とそのあり方
第3章 弁護士とそのあり方
第4章 研究・教育者とそのあり方

については、関係者からの異論もあるとは思いますが、特に裁判官の実態を知らない者にとっては非常に興味深く読むことができました。
また、東京地裁のような大きな裁判所においては、裁判官と弁護士が常に初顔合わせという状況のため、専門家としての信頼関係が醸成される機会がないだけでなく「旅の恥は掻き捨て」的な弁護活動を行う弁護士が多くみられるといいます。
確かにかなり問題のあると思われる弁護士の話を仄聞することはあります。


また「第8章 本人訴訟と特別訴訟手続」では、(筆者の経験した東京地裁などの大規模地裁では)本人訴訟には主張立証活動において、またそもそもの訴訟自体にかなり問題があるものが多いこと、それに対応するための特別訴訟手続きの提言をされています。

確かに実感としても「訴えてやる!」とおっしゃる方や実際に本人訴訟を起こされる方も増えてきているように思っていたのですが、実際にもかなりの数に上っているようです。
訴えられる側としてもまともな主張ならこちらもあえて争わない(通常は法律紛争になる前に決着するのが企業活しても誠実かつ合理的)のですが

(3) 原告本人に特別な問題があるわけではない(日常生活上は、性格の若干のかたよりはあったとしても、ごく普通の市民として過ごしてきたと思われる)が、その訴えには、法律面、事実面で大きな無理があり、しかしながら、原告は自己の主張の正しさを固く信じている場合(性格傾向としては非常に思い込みの強いタイプの人々であり、それなりの地位も持っている[いた]場合が多い。いわゆるワンマンタイプの自信家達である。)
(p.687 同章 一.本人訴訟-理想と現実  2.本人訴訟の実情)

という方が増えているのは実感するところです。

また、以前簡易裁判所の裁判官から聞いた話では

(4) (3)に準じるが、紛争の経緯、訴えの内容、訴え提起の目的等において通常の事案とは質の異なるものが感じられれ、原告の性格や精神状態にもある種の問題を感じることがある場合
(p.688 同上)

というのもかなりあり、最初は弁護士(や弁護会の法律相談)に相談しても弁護士が受任をいやがり、「本人訴訟という制度があるので裁判所に行くと詳しく教えてくれますよ」と振られることも多いそうです(冒頭の「受任にふさわしい事件の選別」の反面になるわけですが、筆者はこれに対して現状の当事者主義と厳密な争点整理に基づく民事訴訟手続にかわり、立法論としての特別訴訟制度を提言しています。)。


ここの本人訴訟の分類は上の2つを含め「(1)通常の事件と同様の進行を図りうる場合」から「(7)いわゆる訴訟マニアの場合」まで7つに整理されていて、膝を打ったり思わずニヤリとしてしまう表現もあって楽しめました(楽しんでいる場合ではないですがw)。

本人訴訟の増加は「○○法律相談所」的なテレビ番組の影響などもあるのかな、と思っているのですが、今後は団塊の世代が定年退職するに伴い、「プライドがあって理屈も立ち、暇と金はある」という方が増えてくるのでますます増加しそうな予感もします。


それやこれやで750ページ、お腹いっぱい楽しめる本でした。

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こわいもの見たさ

2007-01-08 | ネタ

 



昨年末のネタなのですが、忘年会の流れで行った温浴施設(クア兼サウナ兼カプセルホテル)のエレベータ-内の掲示です。

ここまで書かれるということは、よほど多くのお客さんからクレームが出て店側も迷惑だと思ったということでしょう。


どれほど「強烈」だったのか、ちょっと(だけ)興味があります。

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やはり和田アキ子はえらい?

2007-01-07 | よしなしごと
とあるところでホリプロの方と知り合いになりました。

タレントは200人近く抱えているのに社員は250人と意外と小所帯なことに驚きました。
だとすると、マネージャーってよほど売れないとタレントひとりに専属ではつけないんですね、と伺うと、確かにそうで、深田恭子クラスでもマネージャーはかけもちなんだそうです。
ちなみに和田アキ子には単独のマネージャーがいるとか。
何しろ今の二代目社長が子供の頃から知っているとかでやはり相当発言力があるらしいです(詳細は省略)。


家に帰ってふといただいた名刺の裏を見ると、主要な所属タレントの名前が載っています。
こちら参照)

やはり和田アキ子は筆頭なんだ、と感心して眺めていたのですが、このリストはどういう順番で並んでいるのでしょうか?
また、名刺の裏では全員は載せられないので、どこで線を引いたのでしょうか?

よくみると左上から右下に向かって、女性タレント、男性タレント、アーチスト、文化人系と区分されているようですが、それぞれの分類の中の順番は五十音順ではありません(ちなみに
HPは五十音順に載せています)。
芸能界に音痴な私の推測では、ホリプロと契約したのが古い人からなのではないかと思うのですがどうでしょうか。

いずれにしても、いろんな配慮がうかがわれるリストですね。
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『ダーウィンの悪夢』つづき(雑感)

2007-01-06 | キネマ

昨日のつづきというか雑感です。

タンザニアは貧しいのか
ナイルパーチの研究所の夜警の給料が1晩1ドルとのことですが、タンザニアの物価水準を考えても低いのでしょうか。
夜警氏のインタビューでも「農村では食えないから都会に出てきた」とは言っているものの、1日1ドルの生活がどのレベルのものなのかについての言及はありませんでした。

乱暴な比較ですが『三丁目の夕日』の舞台になった昭和31年の日本の大卒初任給が約1万円だったそうです(参照)。
当時は土曜も半日勤務ですから、一日当たり1000÷24=417円になります。当時1ドル=360円でしたから、大卒の初任給1日あたりは1.16ドルということになります。
為替レートや物価水準も同程度であれば(魚を加工してジェット機で空輸してもペイするのですから、その可能性は大かと)「悲惨なくらい貧しい」ということはないと思います。


失業率の高さ、農村の貧しさが問題?
映画でもホームレスの少年がとりあげられたり、農村から流れてきた人びとがビクトリア湖畔にバラックを建てナイルパーチを取って生活している様子が映されています。
すると、問題の本質はタンザニアの失業率の高さや農業の不安定さ(降雨不足ですぐ飢饉になるという部分がありましたが、灌漑設備などが行き届いていないのでしょうか)なのかもしれません。
だとすれば、ナイルパーチの加工業が生み出す雇用(取材先の工場で3000人(うろ覚え))や、沿岸の住民が魚をとることで現金収入を得られることはプラスなのではないでしょうか。

また、「農村では生活できないから都会に出てきた」という話が随所に出ました。
一方でナイルパーチの加工場で三枚に下ろされた残骸の頭と骨をもらいうけて、それを油で揚げる(そこの衛生状態とか労働環境は確かにひどかったですが)商売があります。
ここの経営者(監督者?)が、「これは農村にも売れる」とか、トラック1杯分の残骸を指差して「これで100ドルになる」と言っていたりします。
目の子で計算すると、残骸の山の大きさは直径5m、高さ1.5mくらいでしたから7.22立米、ナイルパーチの頭の大きさが0.2×0.15×0.1=0.003立米、背骨から尾の部分と隙間があるので山の中の頭の割合は大目に見積もって40%とすると、7.22×40%÷0.003=963個の頭があります。
約1000個とすると、1個0.1ドルで売られていることになります。
先の夜警の一日の収入の1/10、価格としてはそんなものかなと思います。
これが上の発言のように農村でも売れるのであれば、農村にも一定の現金収入のあるひとびとがいる、ということではないでしょうか。

となると、農村の問題は天候不順の影響を受けやすいという部分にあるのか、はたまた地主・小作問題のようなことがあるのでしょうか?

映画の中でこれほど「農村では生活できない」と言っている人が多かったのですから、そっちの方も取材して欲しかったです。


悪者は誰だ?
ドキュメンタリーによくある手法として、ターゲットへのインタビューでその「悪者度」をクローズアップさせる、というのがあるのですが、今回は「悪い側」風なのは食品加工業の社長と輸送機のパイロットくらい(それもナイルパーチで稼いでいる、というだけですが)で、監督がターゲットにしていると思われる武器商人や武器のユーザー(アンゴラなどの政府/反政府勢力)または輸送機を所有している会社、貧困や失業者が問題だとするならタンザニア政府関係者とか国連関係者、へのインタビューがありませんでした。

なので、断片的な映像による過剰な思わせぶりが印象に残ってしまったのかもしれません。
まあ、明快な「悪者」がいないところに一番の問題があるんだと思いますが。


印象といえば、映画に出てくるナイルパーチの加工工場の社長やスタッフ、それにプラスチックのケースを納入している業者(ナイルパーチで儲けている人々)はみんなアラブかインド系の顔と名前だったこと、そして、輸送機のクルーはロシア人でお約束のように酒を飲んでいたことが印象に残りました。

この辺も監督の演出意図があるんでしょうか。



いろいろ考えるきっかけになる、という意味では見る価値はあると思いますし、あまり文句ばかり言っていても仕方ないので、以前47thさん(帰国後ご活躍されていることと思います)がブログで紹介されていたEasterlyの"The Elusive Quest for Growth"の邦訳『エコノミスト 南の貧困と闘う』を読んでみようと思います(多分そのときは買ってないと思うのですが、二度買いしないようにチェックしてみなきゃ・・・)。

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『ダーウィンの悪夢』

2007-01-05 | キネマ
『ダーウィンの悪夢』を観て来ました。

ビクトリア湖畔にあるタンザニア第二の都市ムワンベは、ナイルパーチという白身魚の加工業(切り身が冷凍食材としてヨーロッパや日本にむけ大型ジェット輸送機で輸出されている)で栄えている。しかし、ナイルパーチ自身は外来の肉食魚でビクトリア湖の生態系を破壊しているとともに、食品加工業自体も飢餓・貧困・HIV感染のまん延・武力紛争の続発といったアフリカのかかえる問題を解決する糸口になっていない、というような問題提起のドキュメンタリーです。


事前にダーウィンの悪夢についてのいろいろ経由で反対意見なども見たのですが、結論から言うと、タンザニアの抱える問題、または所得・賃金水準の格差をベースにした産業のもたらす地域経済へのゆがみの一つの例として提示したということには意味はあると思うのですが、それがタンザニア政府とかナイルパーチをすべての問題の元凶にしてしまうスタンスには疑問が残ります。

監督は、最終的にはナイルパ-チを空輸する飛行機が、ヨーロッパからの荷として武器弾薬を密輸しているのではというところに焦点をあてているのですが、かなり誘導的なインタビューをしても、そこまでは解明できていません。
確かにムワンベの空港のチェックはいい加減そうなのですが、武器弾薬を運んだとしてそこからの輸送ルートはどうなのか、とか、ヨーロッパからの途中でアンゴラなどで荷おろししているとしても、それはアフリカ(とヨーロッパ)の問題であってタンザニアやナイルパーチの問題ではないはずです(映画でとりあげられているストリート・チルドレンを水産加工場が雇えば、今度は児童労働と言われるでしょうし・・・)。

ナイルパーチ自体は地元に数千人の雇用をもたらしているわけですし、水産加工業者が放流した訳でもなく固有の生態系を破壊したのは結果であって、水産業がなければ生態系もムワンベの経済ももっと悲惨な結果になっていたはずです。


インタビューのカットを思わせぶりにつないだ編集もけれんが目立ってかえって説得力を弱めてしまっています。

あまり知られていない事象についての問題提起としては(特にアフリカの事情が伝わってきにくい日本においては)意味があると思うのですが、それ以上の作品ではないように思いました。



もっとも、所得格差を利用した「グローバル経済」下の企業活動が、規制の緩い開発途上国での環境破壊や独裁政権への資金供給による人権抑圧に荷担するという問題は意識しなければなりません。

ただ、魚を冷凍加工して空輸してもペイするという理由(よほどの低賃金and/or高い市場価格?)は今ひとつ実感がわかないのですが、映画に出てくるロシア人の輸送機クルーを見るとパイロットという職種自体がコモディティ化(長距離トラックの運転手類似の生活をしている)しており、多分この荷をヨーロッパで積み降ろしして食卓に届くまで沢山の低賃金外国人(当該国にとって、また日本においては非正規雇用の)労働力に依存しているであろうことを思うと、構造的にはアフリカだけの問題ではないのかもしれません。

逆にそこまで各国の経済に組み込まれているメカニズムが果たして「問題」なのか、という疑問すら湧いてしまいます。


うがった見方をすれば監督は「悲惨なアフリカを救う正義感に溢れた白人」という立ち位置に立っていて、本作を絶賛する人にも同様のナイーブさを感じてしまいます。


似たような問題は日本企業が進出している中国における製造業とか、マクドナルドで出る紙製のトレーを製造しているジャマイカ(数年前はそうでした)などでも起きています。
先日Dellでパソコンを買ったところ、(発信元は本社のある川崎なのですが)明らかに大連あたりにあるコールセンターから転送しているとおぼしき中国語訛りで注文の確認の電話がかかってきました。

否応なく私達はそういうメカニズムの中に組み込まれています。

そういう世の中で、企業として、また個人としてどうあるべきなのかを「タンザニアに生まれなくて良かった」などと楽にならずに、常に考えることが大事なのでしょう。


その意味では、いいきっかけの映画ではあります。
コメント (2)
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仕事始め

2007-01-04 | よしなしごと
今年は短い正月休みでしたが、年末は忘年会続きの反省から自粛して禁酒をし、正月は親戚まわりなど車で移動すると酒も飲めないので、とても健全で平穏な年末年始を過ごしました。


年末に親戚の娘が合唱団にはいっていて紅白のバックコーラス(なぜか氷川きよしだったりするw)で出ると言う話を人づてに聞きました。
この親戚とは正月に顔を合わせる可能性が高いので、仕方なく大晦日はテレビをザッピングしながら紅白をチェックたのですが、肝心の氷川きよしを見過ごしてしまいましたorz
いまから思えばNHKのサイトで出演順を確認しておけばよかったのですが・・・

どうせ大勢のうちの一人なので、見たけどもわからなかったことにしようかとも思ったのですが、新年早々嘘をつくのも夢見が悪いということで、その話題になったら正直に謝ろう(なんで謝らなけりゃいけないのか、という話もありますがw)と決めました。

結局正月の宴席ではほとんど話題には出ず、両親からテレビ画面からキャプチャーした写真を披露されただけで終わったので事なきを得ました(でも、しっかり映っていたようなので、知ったかぶりして話題を振ったりしなくて良かったです)。


ということで、今年のテーマは

"Honesty is the best policy."

とします。




ところで、テレビ番組は正月より年末の方が比較的面白いのはなぜだろうと考えてみました。
一番の理由は、無理やり新年を言祝ごうとしている正月番組が多すぎるところにあると思うのですが(そのぶん淡々としているNHK-BSなどは比較的見られました)、過去の延長でしか未来を予想できない、という部分も大きいのではないかと思いました。

年末の番組は「一年を振り返る」ことができるのですが、新年「今年何が起きる」というのは年末番組の焼き直しのようなことになってしまうので新味がなくなってしまうのではないでしょうか。
かといって、独自性のある予測をしても説得力がない、と言われてしまうのがオチのところが難しいところです。

昨年の正月も、誰もライブドアや村上ファンドのことを予測してはいなかったわけですし。


もうすこしうがって考えると、年末に一年を総括して来年に向けての問題を提示する「恐怖の共有」は簡単だけど、新年に未来に向けての「希望の共有」は難しくなってきているのかもしれません。
社会が豊かになると仕方のないことかもしれませんが。



今年はどんな年になるでしょうか。


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新年のご挨拶

2007-01-01 | Weblog

 

あけましておめでとうございます


今年もお暇なときに
ちょいとのぞいていただけたら幸いです


平成19年 元旦   



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