
世の中から、差別がなくならないのは、学校に行って、知識を詰め込んで、頭だけを大きくさせて(見かけだけ)えっらそうにふんぞり返ることだと思えるよ。
確かに学ぶことが悪いのではない。学んだことをひけらかしたり、知ったかぶりをしていることが、相手に威圧感を伴って人が人を比べることで生じてくるのではないのか?
小学校1年生の児より、六年生の児の方が、知識は多いのは当然である。でも、人として偉いのか、というとそうではなくて、同じなんだと思う。
大人だって年を重ねてきているから、偉いのでも、大学に行って勉強したから偉いのでもない。
自分は立派なんだ、何でも知っているんだ、という心が差別を生んで、却って貧しい心を創って、ばかにしてしまう。
鬼子母神が人間の児を食べて生きていたが、百人居る我が児を育てるためであった。
人間の方は、鬼にこどもを食わすのに生んではいないとお釈迦さまに訴えて、お釈迦さまは鬼子母神の児を一人隠される。
鬼子母神はたったひとりの児が見えなくなったことで、半狂乱になり、お釈迦さまに詫びて還してもらう。
鬼子母神は帰依し、以後はこどもの守り神とされた。
平岩西遊記の件にも、そういう話がでてくる。
こっちは人間が知らずして、天界の池が溢れて、地上に落ちた鯉のこどもを食べたことであるが、鯉も母であれば、たとい人間の児をさらったとはいえ、食べれはしなかった。
それと気づいた観音さまが、魚篭に入れられて鯉を哀れと助けられた。
仏も神も同じであるのに、人間によって区別され、そこから差別が生じたのかな?と。
元は一つであったのに。福岡さんは、それら全てを捨てよ、莫迦になれ、と書かれている。
自分が莫迦になれないのはそれを何故と考えているからだ。
自然に還る、という根本がまったくわかっていない。
体中に毒が溜まっているんだぁ・・・。
枇杷茶を沸かす水を、最初は水道水でしていた。カルキを抜くのに、少し時間を置くのだが、飲んだ後口がなんとなく残る。
Aさんの家で、井戸水を分けてもらえるようになってから、それがなくなった。
体が変化するのはいうまでもないが、頭自体が考えることをしなくなった。
自然は、宇宙であり、神であると思えだしたから・・・。
自分のなんとちっぽけで、無いに等しい物体であることか。