枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

曇の形をみつめて

2009年05月11日 | Weblog
 車で移動していても、ふと空が気になることがある。そういう時には、待避所に停めて携帯で撮影する。走行中にうまく撮れればいいが、なかなかそうはいかない。未確認飛行物体?いやいや・・、空の雲の形が何かしら、架空の生き物に見えたり、天界から光が満ちていたりするのです。

 仏も、キリストも、物語の神々も全ては同じ。つまりは、自然。即ち、神。それは宇宙を司る万能なるものでもある。時々、宇宙からの声が聴こえたり、龍の姿が視えたりする。証拠はない。心で感じる。というか、体に伝わってくるのだ。根拠はありませんが。

 Eさんという女性が居る。自分ほど不幸な人間は居ない。といつも話す。こういう気持ちでいると、不幸が不運を呼び込む。また良い方向に回らないから、他人を羨む。結果が悪循環となる。自分では、絶対に間違った生き方をしていない。とか。謝るのは相手で自分ではない。と思い詰める。悲劇の虜になる。

 こういう気持ちがわからないでもない。以前の自分でもあるから。でもなぁ・・・。ここに居ることに納得しているのなら、とことん居ればいい。と思うが、小出しにして相手を責めるばかりでは、そこから抜け出せないよ。

 神の存在を話せば、キリスト教だと決め付けるが、強ちキリストだけが神ではない。私は命を創りうる万能者。それが神、即ち宇宙でもある。と感じている。また人間は必ず過ちを犯すように創られているのだ。気づくか、そうでないか。或いは、言うか、言わないか。のようにも思う。

 心を決して見せない人や、弱い人間を演じている者もいよう。強く為らざるを得ない人もいよう。けれども神は、それぞれの数多の人間に、その人だけが背負う十字架を載せている。耐えられなくて、挫折する人。じっとしていながら、粘り強くなれる者。軽々と背負っていける人もいよう。

 命は、生まれて来ないことも、何十年と生かされていることも、また不運な出来事で終える命もあろう。全て自然の為せる術。神の意思なのでしょう。

 間々、未来が視えたり、他人のことがわかったりする者がいますが、敢えて言えば、そんなものは見えないのがいいのです。わかったからといって過去も未来も換えられません。仮に自分の運を他人の運気と変えられても、そこに残った自分の分身はどうなるのでしょうか?時空を越えると元の世界には還れないように思えますよ。まあ、やったことがないので不確かですが。

 我が家の枇杷の実は、たくさんは生らなかったものの、よく見れば粒が大きいのです。こういう年もあるのですね。農業はこれだから面白い。このところ、枇杷のファイルを、更新していないので追加しておこう。観察記録には写真も添付しよう。うふふ・・・。それなりに楽しみではあるのです。

 昨日は、枇杷ローションをしようと、花芽茶だけで沸かした。千葉のRさんが気に入ってくれている花芽茶。土瓶に5パック入れて煎じた。とてもいい匂いです。色も上品な梔子色です。立春を過ぎると、一度にたくさんの作り置きはできないので、300CCくらいを作った。孫も甚く花芽茶がお気に入りです。

 咲いたジャックと豆の木。強い芳香がしました。ジャスミン、スズラン、フリージア、枇杷をミックスしたような香りでした。この匂いに脳波が刺激を受けて、反応したのでしょうか?この後、次々と不可解なことが起きました。
 
 
コメント
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