枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

ねこ、ふんじゃった!

2009年05月23日 | Weblog
 銀河の尻尾、椅子の足で踏んでしまった。ごっそりと毛が抜けた。夏への扉を開けようとしていたから、運がよくて怪我がなかったよ。帰宅直前には、パラついていた雨も、帰った途端に止んだ。曇りでも風があると土が乾くので、水遣りをしました。枇杷の木が、少し勢いが無いよ。根が張ってくれれば、くにゃりとならないのだけれど、今年中は無理なようですね。
 木香バラが終わり、芍薬と蔓バラや、ミニバラが咲いています。これは、グリーンアイスという、緑色のバラです。薔薇も、咲いてしまうより、心なしか開き始めがいい。単純な白が見ていて飽きません。シャーベットみたいなペールピンクも可愛い。華やかな赤黒には圧倒されます。アブラ虫に困っていたら、てんとう虫がごそごそ這い出してきたよ。自然の掟のバランスに頷く。
 春には、驚くばかりの花を咲かせた李。これはあっという間に、アブラ虫にやられた。実は1つも生っていない。ちょうど花の咲いていた時期に、急に暑くなり、急激に気温が下がったの。油断したよ。ブルーベリー、キゥイや桑、ユスラ梅は孫の食べる分はあるようです。無農薬での栽培には、失敗してばかりですが、今後に活かせる工夫次第かな?
 枇杷の袋かけもまだです。今度の休みには愛車を洗って、掃除をして、自然落下の苗の移植をしよう。袋かけはその時ですね。1年て言うととても長いようで、短いですね。ただ闇雲に過ごしていた時には、とても長かった。枇杷に出遭えてからは、新鮮な発見の連続で、然も、遣り甲斐のある事柄が多いよ。知ろうとすれば奥が深く、学んでいけば広がっていく。私の知っていることなどは、微々たる物の内で、どれほどたくさんのことを、一体何十人に教えてもらったことかしら?
 神の意思を枇杷を通じて感じたり、未知との遭遇を体験したりもした。不思議と云えばそうなんだろう。自然に任せることの大切さ、驕らないことや謙虚さも、神の意思があってこそ。神は、自然であり、全知全能の源、宇宙であろう。生きていることは、生かされていろことで、死んでいくこと。私が、心に感じ取れていけるのは、たわいも無いことかもしれない。でも、そこには人間の真実がある。と信じています。心を開放していると、警戒心が取れるのか、近寄って来られ、唐突に言われる。「死ぬのが怖い」「死にたくないなぁ」。そこには、病気であることも忘れてしまう、人間の本質が視える。「今は、まだお迎えが来ないけど、その時になれば往かなくちゃ」そう答える私を、澄んだ目でじっと見ている。私はそっと見守ることしかできない。死への恐怖が和らげるなら、と思うしかできないけども。私の力が必要なら使ってあげよう。そんな気持ちになっていくと、次第に落ち着いてきてくれたよ。
 どんなに強がっている人も、表面に出さないだけで、内面は死への恐怖があると思うよ。況してや普通の者が怖くない筈がない。それなのに何故、他人を殺すの?何も落ち度のない相手を。殺すには自分なりの理由があるのでしょう?悲嘆にくれる心が、暗黒の闇を形創っている。非アンバランス。螺旋を描いて解き放たれし、漆黒の覇者。力を蓄えて放てる心を探している。
 危険。闇に洸悪しき者。
コメント
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