枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

思い出すのは・・・

2009年12月12日 | Weblog
 山茶花が咲き始めると、祖母のすくも焼きが始まる。山から枯れ木を拾ってきたり、落葉を熊手で集めたのを、背負い籠に入れて軒下に置いているのに、竈から千把で火種を持って来てつけるのだ。プスプスと煙っているのが、勢いパチパチと爆ぜて、枯れ木に移っていく。風呂場の燃えじりを上に置いて、根気良く火が落ち着くのを待つ。

 炎が落ち着いたら、其処に四角い缶を被せて、籾殻を乗せていく。学校から帰ったら、綺麗に焼けていて、祖母は庭中にすくもを広げている。私は庭で遊べないことの不平を並べる。祖母は黙々と箒を動かす。時折赤い火がちらつく。庭に焼けた籾殻を広げたままにして、祖母は足早に山に向かう。明日の用意をするためだ。

 遊べない庭に独りで居るよりいいので、仕方なく祖母の後を追う。枯れ木を拾うことより、駆け回っていることが多いのだが、祖母は仕事に余念がない。結局は幾らかの枯れ木を抱えて帰る。祖母は使い古しの縄を、何処かしらに隠しており、手早く纏めて括りあげ、小脇に抱えるとさっさと歩いて行く。

 庭の焼けたすくもを、熊手でかき集め、藁で編んだ俵に入れる。軒下に運んで、もんぺの裾を手ぬぐいで叩く。その頃には夕餉の仕度ができており、祖母は井戸端の脇に湧き出ている清水で手を洗い、地下足袋を脱いで畳に上がってお膳に着く。地下足袋の中には、藁クズが入っていた。今でこそ、使い捨てカイロがあるが、当時はそういった物はなく、また唐辛子は贅沢品であったのだ。

 祖母は、お膳が済むと風呂に入る。すくもを広げながら、風呂を焚きつけ、煙の出具合で風呂加減を測っていた。何を何時、どのようにすれば、違うことをしながら、同じ時間にできるのかを知っていた。長年培ってきたからこそだが、近所の誰でもができた訳ではない。知恵と工夫する心がそうさせていた。

 祖母には、無駄ということがなく、最後まで感謝して、使い切っていたように思う。学校も満足に行ってはいない。ひらがなさえ書けはしなかった。母に頼むか、孫である私達に頼むのである。だが、いろんなことを知っていた。書けはしなかったが、多少は読めた。福沢諭吉の学問のススメを諳んじていた。明治生まれの祖母は、82歳の生涯だった。今、祖母のしていたことを、思い出してはやっている。

 枇杷種酒。今年の分がうまくできたよ。とてもいい色合いに出来上がりました。リエさんに送った分は、焼酎を足してもらったから、来年にならなければ、飲み辛いと思います。我慢して待っていてくださいね。
コメント
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