前日から、もち米を洗って水に浸けておいたのを、竈に蒸篭をかけて火を熾す。蒸篭の下の段には、水が入っている。その上に蒸し布を広げて、笊に打上げたもち米を空ける。竈に割り木をくべて蒸し上げる。蒸したもち米は臼に入れられ、杵で中へ中へと捏ねられ、大きく振り下ろされた杵で搗かれる。杵取りの合いの手も軽く、臼に引っ付かないよう、粗熱を水で押えながら搗きあげる。
搗きあがった餅は、むろ蓋に移されて、手の平大に千切られる。餅の下になる部分をうまく丸めるのが難儀だった。祖母が丸めるともち肌になるのが、私がすると出べそになった。失敗作は食べてもいい。と言われていたが、祖母はついと取り上げると、修復してしまう。私は、祖母にずるい!と口を尖らせるが、正月の雑煮の餅がないぞ。と取り合わない。
母は、竈と餅搗き場を何回も往復して、一日がかりで餅を搗いていた。お雑煮の他に、鏡餅と、豆餅。最後には餡ころ餅をしてくれた。父の好物で3つほどをペロリと平らげ、夕飯も難なく食べていた。私は、1つがやっとであった。小豆は、ここ1週間ほどを、七輪の上で煮られ、砂糖が入ったものである。普段には、砂糖など加減されてしまう。貴重品であるのだ。
餅つきも、機械が出てくると、手間要らずで一人でも搗ける。蒸篭は姿を消し、蒸し器にはなったが、臼や杵は見かけない。最も、餅は真空パックに入って売られている。何しろ餅米が高い。作る農家も餅米だけを作るらしい。白米と混ざると厄介なので、機械を使い分けるのは容易ではない。籾摺りやら、脱穀には何度も掃除をして取り掛かった。ほんとうに根気と忍耐が必要だった。
田舎でするエコロジー的な生活より、都会の中での工夫次第で、十分野菜が作れるようです。生ゴミを堆肥にして、土から生き返らせて、野菜の種を蒔く。出来た野菜は、甘味と新鮮さがあって、丸かじりができる。人参や茄子、トマトや胡瓜、そのまま食べられる。人参や大根の皮を剥くなど、もったいないことをしない。そこさぁ、一番栄養が詰まっているところなんだ。信じられなぁ~い!
現代農業に載っていたが、ピーマンの種や、南瓜や西瓜の種には、とても重要な働きをする要素があるんだって。こういうのをお茶にして売っているんだね。私は枇杷葉だけだけれども、身近で手に入るものなら、せっせとお茶にしているよ。乾燥させたり、湯がいて冷凍にしておいたり、最後まで使い切るようにはしている。
頂きます。っていうのは、何かしらの命でしょう?人間が、魔法の言葉を言ったり、呪文を言って、地面から出てきた訳ではない筈です。自分のところに来てくれたことを感謝してこそ、そういった言葉が自然とでるのでしょう。ご馳走さま。と言うのも、命を頂いてのお返しに、自分でできる事をすれば、新たなる命に繋がっていく。そのことに対して、たくさんの人々に、走り回らせてしまいましたが、ありがとうございます。とお礼を言うのだと思います。
この2年程。これまでの私への反省も込めて、シンプルで素朴な味での食卓を心がけています。何一つとして、人間は作り出せない訳ですから、文句など言える筈がありませんね。自然の恵みを分けてもらえるのって、とても素晴しいです。
一雨毎に、枇杷葉の佇まいに見惚れます。初めは、ひょろひょろした木で、枝も5枝くらいのが、つくねんと立っていたのです。次の年に、花が咲いて、実が生ろうとは、誰が思ったでしょうか。
搗きあがった餅は、むろ蓋に移されて、手の平大に千切られる。餅の下になる部分をうまく丸めるのが難儀だった。祖母が丸めるともち肌になるのが、私がすると出べそになった。失敗作は食べてもいい。と言われていたが、祖母はついと取り上げると、修復してしまう。私は、祖母にずるい!と口を尖らせるが、正月の雑煮の餅がないぞ。と取り合わない。
母は、竈と餅搗き場を何回も往復して、一日がかりで餅を搗いていた。お雑煮の他に、鏡餅と、豆餅。最後には餡ころ餅をしてくれた。父の好物で3つほどをペロリと平らげ、夕飯も難なく食べていた。私は、1つがやっとであった。小豆は、ここ1週間ほどを、七輪の上で煮られ、砂糖が入ったものである。普段には、砂糖など加減されてしまう。貴重品であるのだ。
餅つきも、機械が出てくると、手間要らずで一人でも搗ける。蒸篭は姿を消し、蒸し器にはなったが、臼や杵は見かけない。最も、餅は真空パックに入って売られている。何しろ餅米が高い。作る農家も餅米だけを作るらしい。白米と混ざると厄介なので、機械を使い分けるのは容易ではない。籾摺りやら、脱穀には何度も掃除をして取り掛かった。ほんとうに根気と忍耐が必要だった。
田舎でするエコロジー的な生活より、都会の中での工夫次第で、十分野菜が作れるようです。生ゴミを堆肥にして、土から生き返らせて、野菜の種を蒔く。出来た野菜は、甘味と新鮮さがあって、丸かじりができる。人参や茄子、トマトや胡瓜、そのまま食べられる。人参や大根の皮を剥くなど、もったいないことをしない。そこさぁ、一番栄養が詰まっているところなんだ。信じられなぁ~い!
現代農業に載っていたが、ピーマンの種や、南瓜や西瓜の種には、とても重要な働きをする要素があるんだって。こういうのをお茶にして売っているんだね。私は枇杷葉だけだけれども、身近で手に入るものなら、せっせとお茶にしているよ。乾燥させたり、湯がいて冷凍にしておいたり、最後まで使い切るようにはしている。
頂きます。っていうのは、何かしらの命でしょう?人間が、魔法の言葉を言ったり、呪文を言って、地面から出てきた訳ではない筈です。自分のところに来てくれたことを感謝してこそ、そういった言葉が自然とでるのでしょう。ご馳走さま。と言うのも、命を頂いてのお返しに、自分でできる事をすれば、新たなる命に繋がっていく。そのことに対して、たくさんの人々に、走り回らせてしまいましたが、ありがとうございます。とお礼を言うのだと思います。
この2年程。これまでの私への反省も込めて、シンプルで素朴な味での食卓を心がけています。何一つとして、人間は作り出せない訳ですから、文句など言える筈がありませんね。自然の恵みを分けてもらえるのって、とても素晴しいです。
一雨毎に、枇杷葉の佇まいに見惚れます。初めは、ひょろひょろした木で、枝も5枝くらいのが、つくねんと立っていたのです。次の年に、花が咲いて、実が生ろうとは、誰が思ったでしょうか。