枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

言葉の魔力

2009年12月11日 | Weblog
 人間の厭な部分は、自分本位なことにある。自己愛というか、自分さえよければいい。と言う考えをしてしまうこと。それに伴う相手の気持ちや、自分に及んでくる結果までは頭にない。言葉にしてしまうと、どんなことでも結果的には自分に返る。しかしそうなると甚だ覚えがないらしくて、他人のせいにする。こういう世渡りを平気でしているのを、目の当たりにすると無性に情けない思いに至る。

 人生に於いて、楽しいことばかりではない。反対に苦しいことや、哀しいことの方が多く、そういった出来事に対して、悲観するよりも、それらをばねにして往く事の方が困難を極める。試練には規定もなく際もない。あるのはただただ努力という結晶。然も、理路整然としたものにしなければ、路は創られない。先に進めないのだ。この作業は、辛らつを極める。真実一路の中にある、『君の前に路はない。君の後にも路はない』今を生きていくことが、どんなに大変でも、いかなければならない。この小説、ちょっと抵抗があったよな。

 次郎物語も、少年編から青年編に続いて、かなりな長編だった。テレビで観たのは、子役と婆やの心温まる言葉のやり取りで、少年になっては、池田秀一が演じていた。主題歌はペギー葉山が歌っていた。♪松の根は岩を砕いて・・・。白鳥は風に向かって生きていく。とあって、生きることの重みを、子供心にも刻み込んだ。

 自然の掟の中では、強い者が生き残る。人間の世界では、弱気をたすけ、強気をくじく。でも戦争はなんだろう?悪い人間だけをやっつけるのでなく、弱い者にも容赦なく降り懸かる。小さな子どもや、女達が一体何をしたというのか?どお考えても疑問が渦巻く。これは試練でなくて災難であろう。地球上に住まう人類としては、何故こうも生活の違いや文化の違い、宗教の違いで殺戮が起きるのか。

 言葉が通じないから、戦争になるのだろうか?いやいや強ちそうとも言えぬ。自分は自分であり、他人は他人だけれど、神によって生かされていることに、感謝できることでもあるのだと思える。この場合の神とは、絶対的なもので『宇宙』である。ブラフマンとも言うのでしょうか?人間は、一人では生きていけない。支えあうことで成立する。お互いの心が、何処かしらで折り合わないと、共生はできないでしょう。自然に生かされているというのも、根底は同じなんだと思う。

 
 我が家の銀河は、このところ湯たんぽがお気に入り。就寝前、さら湯に入れ替えた湯たんぽで朝まで使い、その後銀河用にしてやる。あまり熱くないのがいいらしく、ここから動こうとしない。湯たんぽの温度は、一昼夜持つので、新たに換えるときには、中味は洗濯機に移す。それの繰り返しをする。パソコンの足元にも入れている。炬燵の中にも入れるのだが、ここにじっとしていないから、今はしていない。ストーブを点けるのは、朝だけで、煮炊きに活用する。

 枇杷種酒を、毎晩飲んで寝るが、結構効き目がある。枇杷葉は、体の冷えを解消してくれる。葉は勿論のこと、枝も、花芽も、実や種まで、その一切を捨てられない。生葉のままだったり、焼酎に漬けたり、乾燥させる方法も、症状や好みで多彩に使える。枇杷湯は、夏にすれば、体の体臭を和らげ、冬に使用すれば、体の隅々までを温める。また枇杷葉だけでなく、自然にある物には、調べてみればいろんな効果があるのです。

 1枝についている花芽。これで3粒くらいが生る。多ければこの状態で実に生る。多い枝には10粒ほどが生っていた。さあ、今年の花芽が、幾つ実に育ってくれるだろうか?期待と不安と入り混じるよ。味は、何処のにも負けない美味しさです。
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